第二部「法律違反だからですよ」

第五章 一




 茶川充ちゃがわみつるは、飼われていた。


 わずか、百五十センチメートルの少女から。


「缶詰〜、やきとり、サバ缶、ソーセージ〜」


 充に腕を絡める少女が、独特な歌を刻んでいた。猫のように頬を擦り付けてきながら、ご機嫌な様子で相好を崩している。


 赤坂亜加子あかさかあかこ


 彼女は、充の後輩である。赤いベリーショートの髪に、くりくりとした琥珀の瞳。小動物と呼ぶにふさわしい可憐な少女だ。


「……あの、少し離れて欲しいな」


 充が笑みを引きつらせながら遠慮がちに言うと、亜加子は風船のように頬を膨らませた。


「いやです。せっかくのデートなのに、なんでそんな連れないこと言うんですか?」


「……デートって」


 これのどこがデートなんだ。そう思いながら充は周りを見渡す。


 充たちが歩いているのはショッピングモールの中だった。電灯がついていないせいで、お化け屋敷と思えるほどに暗く、不気味な空気に包まれている。ファッションブランドのテナントの側ですれ違ったマネキンが、今にも語りかけてきそうで恐ろしかった。


 その近くに貼られた安売りのポップ。そこに書かれた日付は、九月十五日のままだった。地獄が、始まった日。あのときのまま、このショッピングモールのすべてが停止している。


 亜加子が立ち止まって、服を着たマネキンに目をやっていた。


「服……新しいのにしようかな。最近よく破けますし。先輩はどういうのが私に似合うと思いますー?」


「……さあ、女子のファッションとか疎いから」


「うっそだあ! 学校ではあれだけモテていたじゃないですか! なのに、そんなことあります?」


「……うん、悪いけど。女子と付きあったことなんてないし」


「ふうん。そっかそっか……。やっぱり噂は本当だったんですね」


 犬耳が視えてきそうなほどに、亜加子は嬉しそうに笑った。喜怒哀楽がはっきりしている方だから、すぐに表情に出てわかりやすい。そんなところは昔とまったく変わってなくて、ご機嫌を取っておきながら、充は悲しい気持ちになってしまう。


「……えへへ。私が初めての彼女……ですね」


「……」


「服、もう少し可愛いやつ着ますね。パーカーにショートパンツって好きなんですけど、先輩も見飽きたでしょうし」


「……楽しみに、してる」


 言葉に感情を込めることが、こんなに辛いとは思わなかった。上手く笑えた自信もない。


 充は無意識のうちに首元を触っていた。そこには革製の首輪がついている。滑らかな革の感触が、失われた尊厳を嫌というほどに教えてくれる。


 手綱は、亜加子の左手に握られていた。短く持つために、何重にも手に巻き付けて。


「……そろそろ行こうぜ。みんな、腹を空かせているだろうし」


「あー、ですね」


 亜加子は、とくに反対せずに頷いてくれた。


 再び闇の中を歩き出す。


 目指す先は、食品売り場だった。生存者たちにとって大切な生命線。ここに来て一月半以上が経過し、消費期限が早いものから少しずつ 少しずつなくなっていったが、乾物や缶詰などの保存のきく食品はまだある程度残っていた。


 このショッピングモールには、あの地獄から何とか逃げおおせた生存者たちが、現在二十名近く暮らしている。一月半前は、その倍近い人間がいたのだが、色々とあって……半数近くに減ってしまった。そのせいもあり、最近は以前より食品の減りが緩やかになってきていた。


 すべては、悪魔による管理と粛清の結果だ。


「……」


 充たちは、ただの階段と化したエスカレーターを降りる。天井から吊り下げられた「B一階」と書かれた看板は外れかかり、黒ずんだ血がついている。いつもここを通るたびに目に入るそれを、今度も見ないフリをした。直視すると思い返してしまい、吐き気がしてくるから。


 地下一階は、外の光が入りにくい分、地上よりも暗かった。電気のない不便さというものを嫌というほどに意識させられる。


 充は懐から懐中電灯を取り出す。いつの間にか離れていた亜加子が、ショッピングカートを引きながら戻ってきた。


「さあ、お買い物の時間ですよ〜! 缶詰っ、缶詰っ」


 充は、呑気すぎる亜加子の言葉には答えずに歩き出した。カタカタと、ショッピングカートを押す音が聞こえるくらい、辺りは静寂に包まれている。


 血の跡。懐中電灯が、惨劇の痕跡をあぶり出す。


 考えるな、考えるな、考えるな――。


「ねえねえ先輩」


「……なに?」


「なんか、私達って夫婦みたいじゃないですか? こうして一緒にお買い物していると」


 亜加子の顔は見えないが、きっと頬を赤らめているに違いない。場違いという言葉が、これほどマイナスに作用することがあるだろうか? 怒りよりも呆れのほうが深い。何を言っても無駄という徒労感と億劫さが、充の両肩にのしかかってくるかのようだ。


 なぜ、こいつは屈託なく笑えるのだろうか。


 いつも通り、いやいつも以上にマイペースでいられるのだろうか。


 狂っているのはわかる。


 だけど、それ以上の理解には到底たどり着かない。


「……せんぱぁい、聞いてますか?」


「聞いてるよ。俺たちは別に夫婦じゃないだろ?」


 何気なく口から滑り出た台詞だった。重くのしかかる疲れが、言わせたのだ。


 亜加子の動きが、止まった。


 しまった、と思うよりも先に、首元に強烈な力が加えられるのを感じた。


 上半身が引っ張られ転びそうになったが、亜加子に覆いかぶさるような形で止められた。耳元に、冷たい吐息がかかる。


「……いま、なんて?」


 全身が総毛立った。


 身体が、自分の意志とは関係なく震え始める。細胞にまで刻みつけられた絶対的な恐怖によって。


「……ぁう」


 声が出ない。

 

「答えてくださいよ。なんて言ったんですか? 夫婦じゃないって聞こえた気がしたんですけど、気のせいですよね? 気のせいに決まってますよね? あるわけないですものね、大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで大好きで堪らない先輩が、私との仲の良さを否定するなんて。ね、ね? はやく教えてくださいよ。本当は、なんて言ったんですか?」


「そ、それは……」


「私の質問に答えないのは、『法律違反』ですよ?」


 法律違反。


 その言葉を聞いた瞬間、充の口から小さな悲鳴が零れ出た。


「……いくら先輩でも、やっちゃうかも」


 充は必死に頭を働かせて、言葉を探した。


「……あ、あの! いや、そのごめん! ごめんなさいっ。言葉の綾だったんだよっ」


「……言葉の綾?」


「ま、まだっ。まだ夫婦じゃないって意味で……ほら、俺たちは恋人なんだし!」


「……」


「だ、だから……あの……。勘違いさせて、ごめん!」


「……ふぅん」


 充の首にかけられていた圧力がなくなった。跳ね返るように身体を起こす。


 目の前には、気味の悪い亜加子の笑顔があった。


「紛らわしいことを言わないでくださいよ、もう。……あまり私のことを不安にさせちゃ駄目ですよ〜」


「……あ、ああ」

 

 嫌な汗が止まらない。やや乱れた息を整えようと深呼吸したが、心に沈殿した重たい不快感は少しもなくならなかった。


 地下一階の闇が、途端に深まって感じられる。まるで魔窟に迷い込み、小さな悪魔に誘われているかのように。再び歩き出した亜加子に、のろのろとついて行く充の足取りは、目的もなく病院の廊下を彷徨う鬱病患者のごとく苦しげだった。


 ここは、地獄だ。


 充は、味のしないガムよりも味わい尽くした実感に乾いた笑いをこぼすしかなかった。もう、涙も流れない。諦念だけが、心の暗く淀んだところを彷徨い歩いている。


 諦めるしかない。考えるのを、やめるしかないんだ。充は自分に言い聞かせる。そうしないと、精神のどこかに取り返しのつかないヒビが入ってしまうから。


「つきましたね」


 亜加子がショッピングカートごと右に曲がった。


 懐中電灯を向けると、たしかに缶詰が並んでいるコーナーに辿り着いていた。亜加子には、この暗闇も問題なく見えてしまうらしい。猫科動物やフクロウのように夜目が利くのだろうか。これでは、懐中電灯を持ってくる意味がない。ただの電池の無駄遣いだ。


「さあさあ、ショッピングの始まりですよお。先輩も手伝ってくださいね〜。……あ、私が決めた数は破らないようにしてください。破ったら『法律違反』で極刑ですよ?」


「……わ、わかってる。ちゃんと決められた数は守るよ」


「あははっ、冗談です。先輩がそんなセコいことするわけないですもん」


 冗談になってないよ、と充は怒鳴りつけたくなった。だが、そんなことできるわけがないし、する気力もない。何がきっかけになって、この不安定な少女が暴走するか分からないからだ。


「……ま、そんなことより早く入れちゃいましょ。先輩もお腹すいたでしょう?」


「……うん、まあ」


 曖昧に返事をする。


 空腹じゃないときの方が、むしろ珍しい。亜加子の配給量があまりにも厳格なせいで、ここに避難したものは、亜加子を除いて全員が飢えに苦しんでいる。だが、誰も文句は言えない。


 文句を言えば、「法律違反」になる。


 充は、指示されたとおりの量の缶詰をショッピングカートに入れながら、亜加子の方を見た。数を数えているようには到底見えないほど、ぽんぽんと軽く投げ入れている。が、彼女はああ見えてもキチンとチェックをしているのだ。ホコリの一つも見逃さないほどの、些細な違和感を。


 知らないうちに、手汗が滲んでいた。この瞬間は、締め付けられるような緊張を強いられる。「法律違反」がないことを祈るしかない。いや、仮にあったとしても亜加子の検閲に引っかからないことを祈るしかない。以前食べ物を盗んだ人たちは、一人残らず「法律違反」で粛清された。もう、あんな光景は見たくない。


 だが、充の祈りは虚しく消えてしまった。


「……ズレている」


 亜加子が、ぼそりと呟いた。小さな一言なのに、充の臓腑の奥底にまで響いてきて、心臓の鼓動を狂乱させる。


 気のせいじゃないか、なんて言ってはならない。亜加子の検閲は独裁的で独善的で絶対なのだ。


「……先輩。誰かわからないんですけど、盗ったやつがいますね。また、捜査しなくてはならなくなりそうです」


「……そ、そうか」


「あれだけ言っているのになあ。残念だなあ……。また、裁かなくちゃならなくなったじゃん。『人間が獲得したもので、最も尊いものは理性』って、やっぱ嘘なのかな。どうしてみんな、亜加子の法律を守ってくれないんだろ?」


 ――私は、クリーンな世界を創りたいだけなのに。


 亜加子がそう言った瞬間、彼女の小さな身体から禍々しい空気が立ち昇った。闇の中でも見える、黒いなにか。殺気。憎悪。負の感情を綯い交ぜにしたもの。怖い。細胞が拒絶する。肌に纏わりついて離れない、粘り気のある狂気を。逃げたい。逃げられない。そんなことをしても、すぐに捕まる。殺される。


「ひっ」


 亜加子の目が、爛々と金色に輝いていた。


 だが、その瞳は充をとらえてはいない。充の背後、さらに奥を睨んでいる。


 亜加子の姿が消えた。


「あはははっ、現行犯逮捕ぉ」


 恍惚に満ちたその声は、充の背後から聞こえてきた。冷や汗が止まらない。充の目には、彼女が移動した様子が一切見えなかった。暗いからとかそういう次元ではない。動いた気配すら感じなかった。曲がりなりにも、空手の黒帯をもつ自分がだ。


 人間ではない。


 リードが引っ張られたせいか、充の身体が勝手に動いた。たたらを踏みながらも、なんとか倒れずに歩く。否、歩かされる。逆らう選択肢はない。犬以下の扱い。


 亜加子のところに着くと、彼女は胸ぐらを掴み上げた状態の容疑者を、誇らしげに充の眼前につきつけてきた。


 反射的に懐中電灯を向けた充は、目を見開いた。


「……ほら、先輩。犯人はこいつですよ」


 呻き声が漏れることを抑えられない。充は手で口を塞ぎ、イヤイヤをするように首を左右にふった。過呼吸を起こしてしまいそうになるほど、呼吸が狂ってしまう。


 それは、充にとって最悪と言っていい人物だった。


「真……どうして……」


 充の空手道場の後輩、白村真しろむらまこと。彼は、充にとって弟に等しい存在である。


 白村は、虚ろな目を充に向けていた。一切の生気を拒絶しているかのような、絶望的な闇がそこにはある。この地獄が始まって以来、これまで何度も目にしてきた闇だ。


 生きることすべてを諦めた、人間の目。


 彼の右手には缶詰が握られていた。


「なんで、真……。どうしてお前がそんなこと……」


 わかっていた。


 わかっていたが、聞かずにはいられない。


「……お腹が空いたんです」


 真は、半透明な笑みを浮かべる。電灯の弱々しい光ですら、彼の絶望を容易にえぐり出してしまえるほどに、その表情には決定的な精神の破壊が刻まれていた。


「もう少しで、飯だったのに……」


 そんなことが問題ではない。でも、言わずにおけない。


 真は、鼻で笑った。


「足りませんよ、あれっぽっちじゃ……。成長期すよ、俺」


「そういう問題じゃないだろ……。お前、家族もいるのに」


「もう、いいっす」


 真は、はっきりと言った。


「もう、どうでもいいんすよ。疲れた」 


「……」


「……どうせ、助からないんだし」


「……真」


 ぐっと唇を噛み締めて、充は真の顔に手を伸ばそうとした。だが、指先が触れようかという瞬間に、二人は引き離された。


「与太話はそれくらいでいい?」


 亜加子が、残酷なまでに冷たい声を出した。


「逮捕されたばかりなのに、容疑者がベラベラ第三者に情報を流していいと思ってんの? 先輩は弁護士じゃないんだよ? 秘密交通権なんて認められない」


「……頭悪いくせに、難しい言葉を使うじゃん」


 真は、けらけら笑いながらあからさまに挑発した。


「やめろ、真……!」


「前から思っていたんだけど、チビのくせに何気取りなの? 法律、法律って、どうせ六法全書も読んだことないくせに。中二病かよ」


「真っ」


 真は強がってせせら笑っているが、あんなものは戦車に向ける竹槍に等しい虚勢でしかない。真の手は、小刻みに震えている。


「……うん」


 亜加子は、うん、うん、と何かを省みるように呟いていた。その呟きは、だんだんと速く大きくなっていく。


「起訴。罪状は窃盗と法廷侮辱罪」


「……あ、亜加子」


「被告人はぁ、正当な理由なく公共の所有物であり財物でもあるサバ缶を不当に略取しちゃいましたー。これは非常に悪辣で、身勝手な行為と言わざるを得ないでしょうねー。しかも、法律であり裁判官である私のことを、あろうことか被告人は侮辱してみせました。よって、情状酌量の余地なく求刑は死刑が妥当かと」


「やめてくれ……! 亜加子、なあ、亜加子!」


 充の必死の訴えは、なんの考慮もされずに黙殺された。小さな笑い声を上げる亜加子の身体が、徐々に徐々に膨らんでいく。服が破け、肉が風船のごとく広がり、千切れ飛ぶのではないかと思った瞬間に、一気に収束した。


 それは、巨人だった。


 ゆうに三メートルは超えているであろう身長に、岩のように隆々と盛り上がった分厚い筋肉。腕は、百年杉の丸太のごとく太く、血管が浮き出ており、人間など簡単に引き裂けそうなほど暴力的な力強さに満ち溢れていた。


 力の塊。暴力の権化。その化け物の全身には、無数の目が見開かれ、巣室の中で餌を待ちわびる蜂の子のごとく、ギョロギョロと瞳が動きまわっている。


 魔物。そう形容せざるを得ない巨人の顔には、包帯が何重にも巻かれており、その隙間からは、腕や人間の指が覗いていた。


 その正体は、杳として見えない。まったく理解できない、人間の認識を超えた存在。


 あるいは、それは神話の怪物なのかもしれない。


「……ひいぃっ」


 真が、突如現れた化け物を前に悲鳴をあげる。胸ぐらに掴まれていたはずの彼は、巨人の手の中に収まっていた。ガタガタと震える彼の足先から、大量の水が零れ落ちていた。


 充は動けない。あれは、亜加子のあの姿は、彼にとってこの世の恐怖をすべて集めたかのような、まさに絶望の象徴だったからだ。あの姿が恐ろしく、あの姿を見たくないがために、これまで必死になってご機嫌取りに徹していたのだ。


「あぁ……」


 勝手に、涙が溢れてきた。涙は枯れたと思っていたのに。


 真は、もう、助からない。


「そレでは、判決ヲ言い渡しまス。――被告人ヲ死刑に処すル。もシ、判決ニ不服がアル場合でも、控訴ハ認めなイヨ」


 ガチガチと、ガチガチと。真の歯が立てる恐慌の旋律が、充の耳朶に届いていた。それでも、死を選んだ真に対して何もしてやれない。できるわけがない。


 ふと、ヒーローに憧れる親友の顔が浮かんで消えた。


 透……お前なら、この状況でもどうにかできるのか?


「あはハッ、サバ缶一つデ死ぬなんテ、キミの方ガ、頭悪いンじゃなイ?」


 亜加子の嘲笑は、力の差が圧倒的すぎる分、あまりにもグロテスクに響いた。


「ひっ、ひぅ」


「アハアハアハアハアハアハアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。どうヤって、殺ソうかなァ? 首ヲ引き千切って殺してモ、つまんなイしナア」


「……や、やってみろよ! やってみろよ、クソやろおおおおおおおおおっ!」


 震えながら、粗相をしながら、歯を鳴らしながら。惨めという惨めを味わいながらも、真はヤケになったように叫んだ。首を振り回し、泣きそうになりながらも虚勢を重ねる。


「死ぬのなんて怖かねえんだよっ! 友達も彼女も死んじまったし、なにもねえんだ俺にはもう! 殺すならさっさと殺せよおおおおおぉっ!」


「……ふゥン」


 先程まで喜悦すら感じられる言葉を出していた亜加子が、とたんに冷めた声を発した。不規則に動きまわっていた瞳が、一斉に真に向けられる。


「……キミ、死にたいンだァ」


 亜加子が、真に顔を近づけて首を傾げる。


 嫌な予感しかしない。充の全身が粟立っていた。亜加子が急激に冷めたときは、津波の前兆で波が引くのと同じだ。必ず、ロクでもないことを考えつく。


 その予想は、得てして最悪な方へ向かう。


 亜加子が、ケタケタと笑いながら言った。


「死ぬのガ怖くないンだネ? 私に殺されることガ、怖くないンだヨね?」


「な、なにを……」


 気圧された真が、弱気な声を出すと――。


「ナラ、私以外に殺してもらオー」


 亜加子は、真を掴んだまま歩き出した。充も、首のリードごと引っ張られる。いや、引きずられる。足を蹴りまくって抵抗したが、そんなもの巨人の前ではアリの抵抗に等しかった。


 万力で引きずられているせいで、時折首がしまった。息ができない。苦しい。だが、それよりも一歩一歩亜加子が刻むたびに、輪郭を持ち始めた暗い予感で頭が一杯になる。


 まさか。


 あいつは、真を――。


「ど、どこに向かう気だよ!」


 おそらく、真も気付いたのだろう。表情は見えなくても、声の震えで彼の感情の機微はわかってしまった。


 その輪郭は、亜加子の言葉ではっきりする。


 彼女は、笑いながら告げた。


「外だヨ」


「――」


 充は、確信に変わった瞬間、思い知った。


 こいつは……やはりこいつは、人間ではない。外道。鬼畜。いずれの言葉も生易しいほどに、残虐だった。


「や、やめてくれ! それだけは嫌だ!」


 真が悲痛の叫びを上げる。


 だが、もはやどうすることもできない。自分を法律の化身だと信じてやまない狂人に、そんな泣き言が通用するはずもなかった。


 薄暗い光が、広がる。


 一階に辿り着いた。


「あああっ、やめて、やめてくださいっ! やめてください! それだけは嫌なんです! あんな奴らに殺されるのだけは嫌だ! 嫌だあああああああぁっ!」


「アハハハハッ、死刑になりタかったんでショ? ナラ、別に死ねルんだシ、どんな方法デもいいジャん」


「助け、助けて! 充先輩助けてくださいっ!」


「うるさいナア……喚くんジャないヨ」


 ガチャリ、と音がした。阿鼻叫喚の地獄の門を解錠する音――。


「バイバイ、白村クン。サバ缶ハ選別だヨ」


 ゴミでも捨てるように真を捨てて、亜加子は身体の一部を変形させた手で、器用に扉を閉めた。


 真は必死の形相でこちらに走り、窓ガラスを叩いていた。


「開けて! 開けてください! 先輩! 先輩っ!」


 首の締め付けから解放されて、呼吸に苦しみながらも、充は真の元へ駆け寄ろうとした。が、亜加子の巨大な腕で押さえつけられる。


「ジャ、あとよろシくネ」


「……ま、こと!」


「充先輩っ! 助けて! 助けてぇっ!」


 窓ガラスが激しく震える。叩き続け、叫び続ける真を黒い影が覆った。


 空から、化け物たちが現れた。


「……あか、こ! やめてくれ! あけて、やってくれよ! こんなの、あんまりだ!」


「先輩モ出まス?」


 その一言で、充は止まってしまった。


 目の前では、真が化け物たちに連れ去られようとしていた。見たこともないほどに目を見開いて、叫び、逃げようと抵抗する真を、化け物たちは大小様々な手で、容赦なく抑え込む。まるで皮肉のように、化け物たちには天使の翼が生えていた。しかし、化け物たちの顔は屁泥を無理やり捏ねくり回して作ってあるかのように醜悪で、無数の目や牙が剥き出しになっていた。


 花嫁衣装のように純白な羽根が舞う。化け物の爪が、真を貫いた。白目を剥いて暴れ、胃液を撒き散らす真にさえ、化け物たちは餌以上の感情を持ち合わせていないようだ。容赦などなかった。身体が持ち上げられ、中空で止まると、解体が始まった。


 化け物たちが取り合うように真の腕を引っ張り、限界まで伸びきったゴムのように引きちぎる。足は爪で切断し、腹を引き裂いてまろび出た小腸を綱引きでもするかのように引き摺り出し、食いちぎっていく。


「母さん! 母さああああああぁん! ああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアァッ――」


 この世のすべての絶望を孕んでいるかのような断末魔に、充は耳をふさぐことも目をそらすこともできなかった。ただ、呆然と。ただただ呆然と。壊され、血と肉塊を撒き散らす後輩を見ていることしかできない。感情が、バグを起こしていた。何も考えられない。


「なァンだ。やっぱリ、死ぬのガ怖かったンだネ」


 降りしきる血肉の雪を見ながら、ケタケタと笑う亜加子は、どこまでも悪魔じみていた。


 充は、つぶやいた。


「……助けてくれ、透」




 


 



 

 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る