エピローグ 「魔王の戯れ」
雨が光を溶かしていた。
薄灰色の透明水彩で、世界を塗ったように。しとしとと降りしきる
心なしか、桜南が淹れてくれたコーヒーの香りも、いつもより湿っている。
透は、外を眺めながらマグカップに口をつけた。苦味が弱いような気がした。気のせいなのかもしれないが、この季節はどうも人間を知らないうちに憂鬱にするようだ。
最後の文化祭が終わってから、三日が経っていた。あのときの熱は、雨によって洗い流されて霧散したかのようだった。メランコリーはそのせいでもあるのか。
「透くん、聞いているかい?」
雨音と、壊れた空調の音だけが揺蕩う静謐な空間に、天使のような声が現れた。アンニュイな気分に浸かっていた透は、心地よい音色だけを認識し、その意味を取りこぼしてしまった。
つまり、言葉を音としてしか知覚できなかった。
「え?」
「……やっぱり聞いていないじゃないか。次、君の番なんだけど」
「あ、ああ。……そうだったな、すまない」
透は机の上に広げられた将棋盤を見下ろした。見事に封殺された棒銀戦法の名残と、崩れかけた透の防衛線が盤面に展開されている。明らかに押されていた。
桜南から奪った角をつまみ上げ、じっと見つめる。意識が浮いていた頭には、なんの妙案も浮かんでこない。もう負けでいいんじゃないか。やる気のない考えが浮かんでしまったが、それを振り切ってやけ気味に角を置いた。
桜南の眉根が吊り上がる。「なんでそんなところに?」と言わんばかりの顔だった。数秒して、意味がないことを悟ったのか、ゆっくりとジト目をこちらに向けてきた。
「……集中してないだろ?」
「ソンナコトナイヨ」
「いや、してないでしょ。こんなところに角を置いたって、私が金を動かせば死に駒になるじゃないか。……こんなこと、普通しないって」
「ま、まあそうかも」
「……どうかした? さっきからボケっとしているけど。雨はどうして降るんだろう、とか詩人ぶってしょうもないことでも考えていたかい?」
「いや、そんな変なことじゃなくて。ただ、文化祭終わったんだなあって思って」
「……ああ、そういうことか。それにしても、その感想ってもう賞味期限切れかけているような気がするけど」
「うっさい。俺の感動は、人よりも少しだけ保存期間が長いんだよ。ていうか、思い出って消費されて捨てられていくようなもんでもないだろ?」
「そういう側面もあるよ。幼児の頃に楽しかったことなんて、ほとんど忘れているだろ?」
「そうだけど。思い出すこともあるじゃないか」
「それはぬか漬けみたいなものさ。人はいくつかの印象深い記憶を漬けておくものだからね」
「……思い出をぬか漬けで比喩する女子高生を初めて見たよ」
「あはは、君とは文学的才能が違うのだよ」
「漬物で胸を張るな。別に上手くねえから」
透がそう突っ込むと、桜南は予告通り金を動かした。勝負に妥協はしないようだ。
たしかに角を殺されたことを確認し、透の心からさらにやる気が色褪せる。
「しかし、そうして今も文化祭気分に浸っているということは、だ」
桜南が、口元を得意気に吊り上げる。
「私と一緒に過ごしたのが、そんなに楽しかったんだね」
「なっ」
透の頬が一気に熱くなった。
「だって、そういうことじゃん。ほとんどの時間、私と一緒に居たわけだし」
「……あ、いや」
動揺して言葉が出てこない。頭の中でぐるぐる回るのは、語るに落ちた自分に対する後悔の念だった。
「それとも、あれかい? 私に告白されたことがそんなに嬉しかったとか?」
「――」
透は言葉を失って俯いてしまった。あれからまだ三日しか経っていないのに、人によってはセンシティブな内容であるはずのそれを、からかいのネタに変えてくるなんて。
「……透くんって、イケメンのくせに初心で可愛いよね。そういうところも好きだよ?」
「はあっ? イケメンじゃねえし、何いってるし! おかしいんじゃないっ?」
「言葉が女子っぽくなってるよ」
桜南は噴き出して、膝を叩いていた。茹で蛸みたいに頭が熱くなった透は、成すすべもなく口を噤む。
「……可愛いなあ」
「なに、お前なんなの? 急にそういうこと言い出して。というか、可愛いなんて男にかける言葉じゃないだろ」
「かっこいいことは今更言うことじゃないでしょ?」
「……」
沈黙。撃沈。
思わぬ桜南の積極性を前に、机の上の盤面のごとく追い込まれざるを得なかった。
こいつ……実は結構慣れているのか? そんな考えすら浮かんでくる。普段は人を寄せ付けないオーラを放ってはいるが、話してみると普通に気さくだし、顔もかなり整っているしで、恋愛経験があってもおかしくはない。それはそれでちょっと複雑だが……。
それにしても、とんでもない奴に告白されたものだ。
透を弄り倒した桜南は、満足そうに破顔しながら、次の一手を催促してきた。心拍数の乱れた透に、先程よりもいい手など見えるはずもなく、さらなる悪手を生み出してしまう。だが、今度は桜南が眉を顰めることはなかった。
ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。西野カナの「トリセツ」だった。意外なチョイスすぎて、透はまた彼女の知らない一面を見た気がした。
「……ん、これはこれは。詰め路に入ったようだよ透くん」
「そういうこと、対戦相手に言うなよ」
「あはは、だって気づかないじゃん。とくに今みたいに真っ赤になっていたらさ」
「……お前っ」
思わず立ち上がり、透は手近にあった定規を手に取る。それでペチペチと頭を叩いてやると、「痛いなあ」と言いながらも桜南は楽しげだった。
「暴力反対だよ〜」
桜南が、機嫌良さげに言ったときだった。
透は、気付いた。
ボードゲーム部の入口、引き戸が少しだけ開いていることに。そして、その僅かな隙間から――。
――仄暗い闇を貫くような、真っ赤な瞳が覗いていた。
「――」
悲鳴すら上げることができなかった。温かく高鳴った心音が、一瞬で冷めていく。
突然、言葉を失った透を不審に思ったのだろう。桜南もすぐに気付いたようだ。呆然としてしまった透に変わって、呼びかける。
「誰?」
「……」
「なにをしている? そんなところで」
桜南の呼びかけに反応があったのは、それから数秒してからだった。すうっと引き戸が空いていく。建付けが悪く、普段はガタガタ音が鳴るのに、信じられないくらい無音だった。劇場の緞帳のごとく、のろのろと開いたそこからは、透の見知った顔が現れた。
「……香澄?」
透の妹、異色香澄だった。
「やはり、ここに居ましたか」
「……どうしたんだよ? 学校にいるなんて珍しいじゃないか?」
心臓が冷たく早鐘を打つ中、透は動揺を抑えるように尋ねた。ホラー映画かよ、と内心で毒づきながら、住む世界の違う妹に引き攣った笑みをみせる。
登場の仕方はさておき、香澄が学校に来るのは本当に珍しいことだった。形式上、父親が理事を務めるこの学校に生徒として登録はされているが、それは建前で、あくまでも彼女は研究者だ。普段は異色コーポレーションの研究施設と大学院を往復する研究漬けの生活を送っている。
だから、そもそも学校に来る必要はないはずなのに。卸したて同然の制服は、まるで着慣れておらず、違和感しかなかった。
香澄が、胸元の校章を撫でながら言った。
「まあ、私も一応この学校の生徒ですからね。学会で文化祭に参加できなかったので、先生方にせめて挨拶をしておこうと思いまして、久しぶりに登校した次第です」
それはあまりにも香澄らしい言葉だった。律儀で、形式を重んじる、仮面の姿から発される言葉。
ただ、いつもとは少し違う。普段は温感すら伝わるほどに完璧な演技をしてみせるくせに、今の彼女からは熱を感じない。非の打ち所がない笑みを称えているはずなのに。まるで、福笑いの仮面を被っているかのように不気味だった。
雨の音が強くなった。空調の音すら飲み込むほどに。
「……そのついでに、兄さんへ挨拶しておこうかと」
「……なんでここにいるって分かったんだ?」
誰も知らないはずだ。たしかに、文化祭の一件でまた噂が回っているようだが、桜南がひっそりと作ったボードゲーム部のことを知る者は誰もいない。徹底して、二人の秘密にしてきたのだから。
「ああ、単純な推理ですよ。兄さん、二年くらい前から、習い事以外の日も急に帰りが遅くなったじゃないですか? 図書室や喫茶店で勉強をしていると伺っていましたが、亜加子ちゃんに聞いたら、図書室にいるところを見たことがないと仰っていたので。……兄さんの性格的に、遊び歩いているということはあり得ないですし、部活でも始めたのかなと。それで、先生方に聞いてまわったら、古淵先生がこちらの顧問をしていると伺ったんです。先生は事なかれ主義でいい加減なところがありますから、教室の場所までは知らなかったようですが。ですので、部活動の区分け一覧を見ました。後は使われていないことになっている部屋の中で、電灯がついているところを探せばいい。簡単でしょう?」
「……」
冷や汗が流れる。この妹は、たまに推理ゲームでもするかのように自分の思索を披瀝するところがあるが、今日は雨で空気が淀んでいるせいもあるのか、一層不気味に聞こえてしまった。
赤い瞳が、少しずつ緩んでいく。
「まあ、そんなことはどうでもよいのです。兄さんがしっかり学校生活を送れているか、父様からも確認してくるように言われていましたから。ちゃんと部活をしているようで、一安心です」
「……知っていたくせに」
いまの小さな一言は、透のものではなかった。桜南の方へ目を遣ると、さっきの一言がなかったかのように微笑みを浮かべていた。
その表情に違和感を覚える。クラスメイトに向ける、石像のような無表情とは違ったからだ。
「……ところで、兄さん」
「な、なんだ?」
ビクリ、と肩を震わせて視線を戻すと、香澄もアルカイックスマイルを美麗な顔に刻んでいた。半目だけ開いている。その表情は、まるで怒りを抑えた菩薩のような、あり得ない歪さがあった。
「そちらの方は? 紹介していただいてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
わけのわからない緊張で、上手く言葉が出てこない。
すると透に代わるように、桜南がすっと前へ出た。
「……はじめまして。銀城桜南と言います。お兄さんとは同じクラスで、友達として仲良くさせてもらっています」
「ご丁寧に恐縮です。私は透の妹で、異色香澄と申します。兄がいつもお世話になっているようで。ご迷惑をおかけしていないでしょうか?」
「いえいえ。と……異色くんはとても親切にしてくれていますよ。この部活は私しかいなかったんですけど、異色くんのおかげで何とか部の体裁は保てていますし、非常に助かっています」
「さようでございますか。それは何よりです」
「……ところで」
桜南は、にっと口を歪めて言った。
「堅苦しい口調、やめない? 肩凝っちゃう」
「……」
桜南の突然の提案に、香澄は虚をつかれたようだった。数回瞬きし、やがて静かに桜南を見詰めた。その瞳には、何かを探るような気配が漂っている。
「……駄目かな? 異色くんの妹さんとは、私も仲良くしたいからね」
「……ふうん」
香澄は興味深そうに桜南の言葉を聞いて頷いた。
「わかりました。私も兄さんの友達のことは出来れば知っていたいので、歓迎します。ただ……私は敬語が標準の喋り方なので、これ以上は崩しにくいですが、それでも大丈夫ですか?」
「いいさいいさ。さっきよりは柔らかい」
桜南は相好を崩すと、「コーヒー淹れなくちゃね」と言って、インスタントコーヒーの入った棚を開け始めた。
凍りついていた空気が、わずかに緩むのを感じ、透はほっと息を吐いた。梅雨であることを忘れてしまうくらいだった。脇から溢れてきた大量の汗で、湿った気候を思い出すほどだ。
なんで、こんなに緊張しなければならないのか? 妹と、友達が挨拶しただけなのに。
「……とりあえず、座れよ」
「ありがとうございます」
透が手近にあったパイプ椅子を渡すと、採用面接なのかと思うくらい完璧な所作で、香澄は腰掛けた。心構えからして、何もかもが違う。
「……おや、将棋をしていたのですか?」
「ああ」
「勝負はどうなっているのでしょう? 兄さんが負けているのですか?」
「そこは普通、勝っているのかって聞くところじゃないか?」
「だって、兄さんですし。どうせ負けているのだろうなあって」
「……おい、馬鹿にしすぎだろ」
まあ、負けているのは事実なのだが。
透は溜息をついて、香澄に目を遣る。興味深そうに盤面を見下ろす彼女に、先程までの怪しい空気はなかった。
昔からそうなのだが、香澄はときおり透の人間関係について冷徹な態度を見せる事がある。とくに、女性に対しては当たりが強い。少しブラコンの気があることは透もわかってはいるが、それにしてもさっきの桜南に対して向けた目は、普通ではなかった。
人間不信なのもあるのだろうが。もう少し人を信じてもいいのに、と思ってしまう。周りはそんなに取って食うような人間ばかりではない。そこを、ちょっとは分かって欲しい。
それに、そんなに自分のことが信じられないのだろうか? 異色の名を汚すような人付き合いはしていないつもりだし、透にだって人を見る目くらいはある。きちんと選んでいるのに、そういう態度をとられると、透としても面白くはなかった。
正直、たまにそうした干渉が鬱陶しいと思うこともなくはない。
「カスミンの言うとおりだね」
桜南がコーヒーカップを持って戻ってきた。しれっと、香澄を渾名で呼んでいるところが、なんとも彼女らしかった。
香澄も、「カ、カスミン?」と戸惑っている。そんな呼ばれ方生涯されたこともないだろうから、尚更驚いているのだろう。いいぞ、もっとやれ。透はそう思った。
「異色くん弱いから相手にならなくてさ。最近は勝つことに飽食気味になって困っている」
「そうですか。それはたしかに困りものですね」
「……お前ら、実は仲いいよな。二人して俺を馬鹿にしやがって」
その言葉に、香澄と桜南が顔を見合わせた。一瞬二人の瞼がピクリと動いたのは気のせいか。
「どうでしょう? 兄さんのゲームの弱さに関して意見が一致しているのは確かですが」
「……まあ、仲良くはなれるよ。なんたってあなたの妹さんだしね。それに異色くんと違って、滅茶苦茶可愛いし。美しすぎるね。本当に兄妹なの?」
「ぶっ飛ばすぞ、お前ら」
定規で交互に叩こうとしたが、二人とも避けた。そして、二人して笑っていた。なんだったんだ、さっきの重苦しい空気は。
透は桜南へと抗議の目を向ける。彼女はウインクで返してきた。殴りたい。率直にそう思った。
「……それより、銀城先輩」
「なんだい、カスミン?」
「先輩にお聞きしたいのですが、兄さんとはお付き合いをされているのですか?」
透は思わず身体を引いてしまった。パイプ椅子が床に擦れて音を立てる。香澄の冷たい瞳が一瞬こちらに向けられた。
桜南が小さく息を吐いた。
「……どうしてそう思うの?」
「先輩たちは長い間、この部活で二人きりで過ごしていたのですよね? それに、亜加子ちゃん……私の友達から聞いたのですが、先輩と兄さんは文化祭を一緒に回っていたそうじゃないですか。だから、どうなのだろうかと気になりまして」
「ああ」
桜南が、ポンと手を叩いた。
「そりゃ、二人で文化祭を回ったら周りから勘違いされても仕方ないよね。でも、邪推だから。私達はまだ付き合ってないからね」
香澄の目つきが変わった。まるで、獲物の熱源を感知した蛇のように。
「……まだ?」
「……」
透の額に汗が浮かんだ。緩んでいたはずの空気が、再び締め付けられていく。空調の届ける風が、冷たさを増した。
「あ、ごめん……言葉の綾だった。付き合ってないよ、本当に。ね、異色くん」
「あ、ああ」
顔を引きつらせながら、透はなんとか答えた。なんて神経の図太いやつなんだろうか、と桜南に対して思う。透は、胃の痛みを感じ始めているのに。
「……そうですか」
「うん。カスミンって、すごくお兄さん想いなんだね?」
桜南はなんでもないように伝えていたが、ブラコンと遠回しに言ったようなものだった。香澄の眉が、一瞬吊り上がる。
「……そうですね。私はとても兄さんのことを大切に思っていますよ? 誇り高き異色家の長男として、立派な人になって欲しいと思っています」
「ふうん」
胡散臭いものでも見るように、桜南は半目になった。
「……カスミンは偉いね。異色くんを次期当主として大切にしたいなんて素晴らしい兄妹愛じゃないか。今時ないよ、こんな美しい兄妹愛」
そこに込められた痛烈な皮肉に、気づかないほど透も馬鹿ではなかった。そして、次元の違う天才が透の気付いたことに思い至らないわけがない。
香澄の顔に、暗い笑みが浮かんだ。
ぞっとするほどに暗い笑みが。
「……ありがとうございます。そんな風に言っていただけて嬉しいです。だからこそ、兄さんには異色家の者として相応しい人付き合いをして欲しいと思っています」
桜南の笑みが消えた。
「……透くんの意思は関係ないの?」
「……透くん?」
「……呼び方なんてどうでもいいじゃないか。で、どうなのさ?」
「関係ないわけがないですよ。兄さんの意思を尊重することなんて当たり前すぎて、言及する必要もないと思っていただけです。あなたには、言葉が足りませんでしたか?」
「……は?」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
さすがに見ていられなくなって、透は止めに入った。心中で、前言撤回と叫びながら。
仲良くできそうだ、と思ったのは間違いだった。香澄はともかく、桜南までも突っかかるとは思いもしなかった。香澄をカスミンと気楽に呼んだときのように、飄々とやり過ごしてくれると思っていたのに。
喉がやけに乾いて、言葉が支えるのを感じながら、透は声を出した。
「なんでそうなるんだ。ついさっき、仲良くできるって言ったばかりだろ?」
「私は言っていないですよ?」
「いいから! 頼むから仲良くしてくれよ」
香澄は溜息をついた。
溜息をつきたいのはこっちの方だ。
「……仲良く、ですか」
「ああ」
香澄は桜南を一瞥すると、視線を机上の将棋盤に移した。
「……そうですね。まあ、兄さんがそこまで言うなら」
「私は仲良くしたいと思っているよ?」
どの口が言うのだろうか。
「では、私から一つ提案があります」
桜南の言葉を黙殺して、香澄は将棋盤に指をさす。
「……私と一局指しませんか? 銀城先輩」
「ほう」
「仲良くできるかはまだわかりませんが、交友を温めるにはゲームが良いと聞きますでしょう? 悪い提案ではないと思いますが」
「……面白いね。いいよ、やろうか」
桜南は唇を舐めながら愉快げな表情を浮かべる。ボードゲームが心から好きな桜南にとっては、香澄の提案は満更でもないのだろう。
だが、問題が一つある。
「……いや、香澄。おまえ将棋やったことないだろ?」
「ええ、ありません」
桜南が、ずっこけるような反応をみせた。無理もない。あれだけ得意げな表情で対戦を申し込んできた相手が、初心者どころか未経験者なのだから。
「カスミンさあ。それはないよ」
「……大丈夫ですよ。今から覚えればいいだけの話です」
「……まあ、教えるのは問題ないけど」
唇を尖らせてそう言った桜南に、香澄は掌をつきつけた。余裕のある表情を見せながら。
「大丈夫です。そこにある本を数冊貸していただければ、それだけで」
「はあ?」
「今から全部暗記すればいいんですよ。指し方も戦法も定石というやつも。三十分あれば、銀城先輩とも戦えるようにはなると思います」
「……」
桜南は困惑したように眉根を寄せた。無理もない。香澄の言っていることは、普通に考えれば不可能としか思えないことなのだから。「頭が沸いているのか?」と思われたとしても、おかしくはないようなことだ。
それに、桜南はかなり強い。透が四枚落ちにしてもらっても勝てないくらいには実力がある。
「……君さ、私の実力を知らないだろう?」
「はい、知りませんが」
「それなのに、本を読んだだけで戦えるって……。将棋っていうゲームを舐めない方がいいよ」
「舐めていませんよ。ただ、戦えるようになるだろうって自信があるだけです」
「言うじゃないか。……ひょっとして喧嘩売っているのかい?」
「ご随意に」
「仲良くしろって、頼むから!」
それから、三十分。
天才は、将棋の分析を冷めた表情で行っていた。この部屋にある五冊の将棋の教本を、五分もかけずに読破した彼女は、残りの時間のほとんどすべてを思索に費やしていた。顎に手を当て、瞑目し、広がり続ける思考の宇宙に身を委ねている。
彼女が将棋を覚える間、透と桜南は一局指していたが、パラパラ漫画かと思えるほどの速読を披露した香澄に度肝を抜かれ、勝負に集中しきれなかった。透は見慣れていたからそれほど驚かなかったが、初見の桜南は唖然としていた。無理もない。あれで読んでいると言われて誰が信じられるだろうか。しかし、読んでいるのだ。
いや、それどころか完全に記憶している。香澄には、完全記憶能力という天性の能力がある。それを読書に転用すると、かような現象が目の前で展開されることになるのだ。凡人には、到底真似できない芸当だろう。
しばらく、雨の音と将棋を指す音が響いていた。
透が投了寸前まで追い込まれたとき、香澄が目を見開いた。
「……もう大丈夫です。戦えるようになったかと」
桜南と透はお互いの顔を見合わせた。
「……本当なのかい、カスミン?」
「ええ。頭の中で三百回近くシュミレーションしましたから。問題ありません」
「……三百って」
「思考を並列に行えばさほど難しくはないですよ? かなり複雑多岐ではありますが、将棋には一定のルールと特徴があるので、考えやすかったです」
「なに言ってんのこの子……? わけわからないんだけど」
桜南の引き気味な言葉に、透は思わず苦笑を浮かべてしまう。わけがわからないのは、透もまったく同意見だからだ。十年以上同じ家で生活していても、彼女の思考回路の仕組みは理解できていない。できるはずもない。
「……まあ、香澄だからな」
そんなことしか言えなかった。
「なんというか……信じられないね。神童だって噂を聞いてはいたけども」
「対局すれば、嫌でも信じられるようになりますよ」
「……ほう。じゃあ、どうやって証明するのか見せてもらおうじゃないか」
こうして、やや喧嘩腰になりながらも二人の対局が始まった。
お互いに駒を整列させ、深々とお辞儀し合う。桜南は経験者ということで、先行を香澄に譲った。香澄は飛車道の歩を上げ、桜南は角道を切り開いた。
それからは駒を打つ音だけが響いた。雨音は静まり、部屋の空気はやや熱をましているかのようだ。喉の乾きを覚え、唾を飲む。意識のすべてが、二人の指先と盤面に集約されていく。
やがて、中盤戦になってから。
これまで長考することがなかった、桜南の手が止まった。盤面を見つめる目が鋭くなっていく。
対する香澄は、余裕綽々と微笑んでいた。
初心者に毛が生えた程度の透には、盤面で何が起こっているのかなんて理解できなかった。まだ、有利不利が別れているようには到底見えない。
「……」
「……」
「……」
風雨が、まるで桜南を急かすように窓を叩いた。渋面を作った桜南は、それからさらに二分ほど考え、ようやく一手を繰り出した。
返す刀は速かった。まるで、想定していたかのように香澄が駒を走らせた。桜南の表情がさらに厳しくなっていく。局面を理解できなくても、その様子だけで桜南が押されていることがわかった。
それからは魔法でも見ているかのようだった。あれよあれよと桜南の形は崩れていき、気づくと王が危険な状態にさらされていく。完全に、香澄がイニシアティブを握っていた。
「……参りました」
桜南の頭が下げられたのは、数分後のことであった。微かに肩が震えているのは初心者に敗れた屈辱のせいか、信じられないという気持ちのせいか。
香澄は悠々と微笑むと、透の方へ顔を動かした。
「意外と楽しいのですね、将棋」
「……あ、ああ」
透は、顔を引き攣らせるしかなかった。
怪物。頭に浮かぶのは、その一言。
「……銀城先輩、対戦ありがとうございました」
「ああ……」
「……あの、大丈夫でしょうか? 顔色が優れないようですが」
桜南の瞳が鋭くなる。香澄に挑発する意図はなさそうだが、負けず嫌いの桜南にとっては面白くなかったのだろう。
人差し指を立てて、こう言った。
「もう一回やろうよ」
「……ええ、いいですよ。私も面白くなってきたので、ぜひお願いします」
その後、二局の対戦が行われたが、いずれも制したのは香澄であった。
三連敗を喫した桜南は、さすがに笑うしかなかったようだ。悔しそうではあったが、素直に負けを認め、香澄の実力を称えていた。「ありがとうございます」と相好を崩してみせた香澄が、どこまで本心で言っているかは透にはわからなかった。他人の称賛など、学校のチャイムよりも聴き飽きているはずだから。
雨音は、また喧しくなっていた。
「……あ、もうこんな時間ですか」
香澄が腕時計に目を落とし、そう呟いた。窓の方を見やると、灰色に烟っていた景色の明度が下がっていた。夜の帳は知らぬうちに降りていたようだ。
「そろそろ帰らないとですね。レポートのチェックが残っているので……」
「そうか」
透は無意識に息をついていた。
安堵していたのだ。香澄が、この空間からいなくなることに。およそ妹に向ける感情としては褒められたものではないだろう。だが、突出しすぎた才能というのは、凡人たちの居心地を悪くする毒にもなりうるのだ。その毒に、これまで何度も苦しめられてきた。
いなくなって欲しいと思うのも、無理はない。
心に広がったモヤのかかった想いに、透ははっとさせられる。
香澄は悪くない。悪くないのだ。
「……」
香澄と目があった。赤い瞳は、家族の食事のときに目にする父親の赤ワインよりも深く淀んでいて、光がなかった。
心の澱を見透かされているように思えた。香澄は白い手を腹部にあて、そっと撫でていた。最近、よく見かけるようになった香澄の癖。暗く目元を緩めた香澄。透は耐えきれず、視線を外してしまった。
香澄は桜南に一瞥をくれ、さらに瞳の彩度を落としていく。「……だいぶ毒されていますね」と、小さな不穏を口にして、続けた。
「……将棋というゲームは、たしかに面白いです。ニューロンの樹状突起のように膨大な選択肢があって、それこそ脳の働きを見ているかのように奥も深い。ですが、不完全なところがあるんですよ」
「……不完全?」
桜南が、怪訝そうに目を細めた。
「ええ。勝負事全般につきものなことですから、別に将棋に限った話ではないですが」
香澄は、桜南の使っていた王を摘み上げた。陶器のような指先に摘まれたそれは、少しずつ 少しずつ、目元の高さまで上がっていく。
「それはですね……負ける可能性があるということなんです。だから、私はそもそもあまり勝負事が好きじゃないのです。いかに面白くとも。負けたくありませんからね」
反論しようとしたのだろう。桜南の唇が動きかけた瞬間。
パラパラと、香澄の指先から破片が零れ落ちた。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。透も、おそらくは桜南も。二人とも目を見開いて、香澄にさらわれた王を見つめていた。
ヒビが入っていたのだ。固い
「……あら、ごめんなさい。壊してしまいました。だいぶ傷んでいたようですね」
言葉など出てこない。偶然なのか。香澄の言うとおり、気づかないうちに駒にガタがきていたのか。そうじゃないと、駒が壊れる説明がつかない。だが、そもそもあんな風に壊れるものか?
理解できない事象に、思考が揺さぶられる。
「……でもね。こんなもの、いらないと思うのです。逃げるだけしか脳のない、無能の王なんて。必要なのは絶対的な強さをもった王です。そして、絶対に負けることのない状況なんです。千人の兵を、近代兵器のすべてを駆使して包囲するような、勝負とは呼べないほどの作業です」
香澄は、机上に散らばる残骸を指先で転がし、笑った。
「それが、私の望む完全なるゲームです」
電灯が、パチパチと明滅した。
狙い澄ましたようなタイミングに、透は悲鳴を上げそうになる。香澄の不気味な表情が、浮かんでは闇に消え浮かぶ。空気を引き裂くような雨が、窓ガラスを容赦なく叩きつけていた。
「……そんなの、ただの蹂躙だよ」
桜南の反論は、どこか弱々しい。言っていることは間違いなく正しいし、ゲームの本質を見過っていないのに、不思議と論拠に乏しいとさえ思えた。
「ええ、そうとも呼びますね。ですが、それこそ天才の楽しめる本当のゲームだとも思えるのです。あくまで、私個人の感想でしかないですが」
香澄は椅子から立ち上がった。椅子の脚が床を引き摺る音すら、不協和音に聞こえて、透の肩が跳ね上がる。
「……それでは、失礼します。今日は楽しかったです」
「……お、おう」
「銀城先輩。兄のこと、よろしくお願いします」
桜南は無言のまま頭を下げていた。そこには、天才の暴論を拒絶する苦し紛れの頑なさがあるように思えた。
引き戸を開け、出ていこうとした香澄が、ふと止まった。
「ああ、そうだ」
廊下に伸びる彼女の影が、ぐにゃりと形を変える。見間違いなのか。気のせいか。それは、六本の腕がある昆虫のようにも異形の人間のようにも見える影。
香澄の目が、爛々と輝いていた。
「くれぐれも――健全な交友を」
引き戸が閉められ、香澄の姿は廊下へと消えた。豪雨のうねりに混ざる足音が遠ざかるのを聞いて、透はずるりと背中をずらした。
大量の汗が、シャツに滲んだ。
言葉など出てくるはずがない。
ただひたすらに安堵だけがあった。帰ったら、香澄に謝らなければならないだろう。きっと、帰ろうとしたときに透がこぼした至らぬ感情を、読み取られてしまったから怒っていたのだ。骨身に染みて知っている。香澄を怒らせない方がいいことは。
……来月の誕生日、なにかいいものを買ってやろう。
そんな俗なご機嫌取りしか浮かんでこない、自分の頭の悪さが呪わしい。
壊れた駒を見下ろしていた桜南が、真剣な表情で独り言ちた。
「……はやく、しないとね」
「害虫駆除に、疑問を感じる人間はいますか?」
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