第四章 四





 曖昧模糊とした記憶の海。


 その水底で。


 錨のように沈む透は、ただ漠然と水面に映る揺らぐ情景を眺めていた。


 赤い。黒い。熱い。眩い。


 血が降りしきっていた。肉が爆ぜ、臓物が溢れる、際限なき死の祭典が開かれている。死に続けるのは化け物たちだった。砕け散る顎、飛び出した目玉、引き千切れる手足。無数に積み重なる絶叫。


 気持ち悪い。


 でも、透は仄暗い笑みを浮かべている。


 このカーニバルを開いたのは、自分なのに。まるで映画でも見ているかのように、他人事だ。沈むように身体が重いのに、心はふわふわしている。身体を突き抜けていく、麻薬のような全能感。拳を血で洗うたびに、光が溢れる。


 水面の景色は、安定せずに変わっていく。


 黒い男。化け物に変わり、炎を撒き散らしながら迫ってくる。閃光と炎、暴力への喜び。身体に刻まれた技術を開放する快楽。爆発。激痛。バラバラになった身体と頭。身体だけが成形される土人形のごとく戻っていく。背後からの強襲。拳が頭にめり込む。ああ、なんて清々しい光景か。暴力とは解放だ。殴る。殴る。殴る。殴る。


 肉風船が、膨れ上がった。巨大な爆発。崩れ落ちる瓦礫――。身を挺して誰かを守った。ヒーローだ。ヒーローらしくできた。絶えず鳴り響く轟音は永遠に続くかと思えるほどで、しかし緩徐に静まっていった。


 瓦礫を突き破る。赤い空があった。血反吐を吐きながら咆哮を上げた。誰かを抱えていた。大切な誰かを。傷だらけの裸の女神を。


 遠くから、憎悪に満ちた気配がして。


 空然とした映像は、さらに淀んでいく。


 もはや影絵のようだった。色彩がない。大小様々な化け物たちに囲われた気がした。流れ作業のようにスクラップへ変えていく。噴き上がった血は墨汁のようだった。何度拳を振るったか、何度蹴りを放ったか、何回飛んだのか、どのくらい走ったか、まるでわからない。景色が高速で流れていく。その遠近感さえ正確ではない。


 水面の映像が、ふっと陽炎のように消えた。


 ふわり、と身体が浮き始めた。鉛のように身体は重いままなのに、何かに後ろから押されているかのように、ゆっくりとゆっくりと。


 泡が、水面へと消え続ける。


 浮上する。まるで溶けた飴のように硬い水面だった。顔にへばりつくまどろっこしさと粘ついた感触は不快の極みだった。水底では目を開けていられたのに、粘液のせいで目を開けるのに労力をつかった。


 真っ白な世界だった。


 ブラックナイトが、見下ろしていた。


 ――よお、お目覚めかい坊や。


 声が出ない。言葉を紡ごうと口を開いても、音にならなかった。


 ――けははははははっ。おめでとう、坊や。戯れであの女から逃してやったときとは違う。正真正銘、お前は「殺意」になったんだ。


 ブラックナイトは、心底愉快げに言った。残酷な事実を告げられているはずなのに、不眠に悩まされているときのような億劫さに包まれて、なんの感情も動かない。


 ――これからは、お前さんのヒーローごっこに付き合ってやるよ。だから、お前さんはもっと滑稽に足掻いてくれ。俺は、それを見てえ。お前さんの無様な姿は、俺にとって最高の娯楽だ。


 黒い指が、透の額に置かれた。


 ――どうせ、あの女のシナリオに逆らうことはできねえんだからな。せめて楽しませてくれよ、坊や。













 おまえは、俺なんだからな。















 目を覚ました。


 無機質な天井と、心配そうに見下ろす桜南の顔。


「……起きたんだね」 


 桜南は硬かった表情を緩め、小さく息をついた。潰れていたはずの片目が開いている。顔の傷も、少なくなっていた。


 透の頭は桜南の膝の上にあった。温かい柔肌の感触が後頭部からじんわりと伝わってくる。


「ここは……?」


「……たぶん、どこかの商業施設の中だと思う。私も目覚めたときにはここにいたから良くわからないんだ」


「……」


 透は辺りを見渡した。薄暗い廊下は真っ直ぐに伸びていて、沿うように様々なテナントが点在している。知っているブランドもあればその反対もある。アウターを着たマネキン、陳列された鞄、靴、ガラスケースに収められた時計と貴金属。安売りの広告。特売の看板。すべての表示は、九月十五日のままだった。


 まるで時が止まっているかのように、色だけが褪せた写真を見ているかのように。


 死に絶えた活況に、名残を感じずにいられない。


「……なにがあったんだ」


 その言葉には様々な意味が込められていたが、桜南が拾い上げたのは一つの意味だけだった。


「覚えていないの?」


「……覚えていることと、覚えていないことがある」


 ブラックナイトに魂を売ったこと。そして、「不条理」と戦ったこと。それ以外の印象は霞が纏わりついているがごとく希薄なものだった。


 痛みも、苦しみも薄い。


 夢の中を揺蕩っていたのだと思えるほどに、透は自分のやったことを薄っすらとしか実感していなかった。


「……たしかなのは、俺が人間を辞めたことだ」


 びくりと桜南の肩が震えた。細長い眉が下がり、噛んだ唇から薄っすらと声が漏れていた。


 微かな呻き。


 それはきっと、後悔と名付けられた痛哭だ。


「……透くんは、変わらないよ」


「……」


「……変わっていないよ。私を、助けてくれたんだから」


 そのセリフが苦し紛れに出されたものであることは、考えなくてもわかることだった。そして、その慰めが意味をなさないもので、彼女の慙愧の念がかえって強まるものであることにも気づいていた。


 助けてくれたという言葉は、裏を返せば桜南自身の無力を証明するもので。透の変身を仕方ないことだと肯定することにもなりかねないもので。


 彼女は、涙を零すことさえしなかったが、悲しげに瞳の色を濁らせてしまった。


「ごめんなさい」


 これ程苦しげな謝罪は、今まで聴いたことがなかった。


「あなたを、私みたいにする気はなかったのに。守りたいって思っていたのにさ。私が弱かったせいで、あんなことを……」


「……いいんだ」


 透は、桜南の頬に手を置いてゆっくりと撫でた。


「俺が、そうしたかったんだ。だから、いいんだ。それに、俺がこうなってしまったのはお前のせいなんかじゃない。……香澄のせいだ」


「……透くん」


「お前は、よくやってくれた。本当に……俺なんかのために命をかけてくれて……。そんなお前を責められるわけなんてないだろ?」


「……ごめんね」


「謝ってばかりだな。らしくねえぞ」


 冗談を口にして、小さく笑う。身体を覆う疲労感は重たかったが、いつもより上手に笑えている気がした。


 桜南を守ることができた。その事実が、何よりも大切なのだ。失わずに済んだのだったら、人間を辞めたことなど些細なことに思える。


 透にとって、桜南はそれだけかけがえのない存在なのだ。


「……なあ、銀城」


「……なにさ?」


 言葉は、少なくていい。


 透がいかに語り尽くそうと、桜南の後悔が癒されることは期待できないだろう。魔法使いでもない限り、人は人の感情を容易には変えることはできないのだから。時間という毒にも薬にもなり得るものの力を借りて、ようやく人は人を癒やすことができる。


 だから、今できるのはきっと気持ちを伝えることだけ。それも下手な慰めなんかではなく、相手への好意を形にすることなのではないか。


「……下の名前で呼んでいいか?」


「え?」


 桜南は、唐突な言葉に目を白黒させていた。


「下の名前で呼びたいんだ、お前のこと。俺だけ透くんって呼ばれるのは変だと思うし……。俺たち、付き合っているわけだしさ」


「……え、あ」


 頬を染め、分かりやすく動揺してしまう桜南。いつものニヒルな芝居がかった感じは、どこへいったのか。これではただの少女だ。


 先程までの陰鬱さは、微笑ましさに変わっていて。ついつい透は意地悪したくなった。


「いいか? 桜南」


「……もう、呼んでるじゃないか」


「ははは、顔真っ赤だぞ?」


「うるさい」


 桜南がぺちりと額を叩いてきた。手加減されていたから痛くはないが、痛がるふりをした。


 これでいい。


 責任のないことで悩ませるくらいなら、こうしてからかってしっぺ返しを食らう方が何倍もマシだ。


「……ほんと不器用なのか器用なのか、あなたはよく分からないな。ズルいやつ」


「……そうかな?」


「そうさ。……でも、ありがとう」


 その一言に、単純な感謝の念だけではない、すべての感情が籠もっている気がした。なぜなら桜南の笑顔は、曇が晴れて透明だったからだ。透が惚れてしまった、この世でもっとも美しい表情だ。


 透は、目をそらしてしまう。クスリと笑う声が、天使の羽のように耳朶に降りてきた。


「私達、付き合っているんだよね?」


「……ああ」


「そっか。そうなんだね。……やっぱりあの告白は聞き間違えなんかじゃなかったんだ」


「……うん」


「最低なタイミングだったけどね」


「うっ」


 透は、言葉を詰まらせた。


「悪かったよ。あのタイミングしかなくて……」


「はは、分かっているよ。透くんはヘタレだから、何ヶ月も待たせてタイミングを逃しちゃったんだもんね」


「……うるせえ」


 お前が夏祭りでいいって言ったんじゃないか、とは言わなかった。照れ隠しで言うにしても、野暮にすぎると思ったからだ。香澄という不可抗力が介在しなければ、桜南は間違いなく約束を果たしていたのだ。


「まあ、それでも待ったかいはあったかな。思ったよりは嬉しかったしね」


「……そりゃ、よかった」


 月並み未満の言葉しか出てこない。こんなにもむず痒いものなのか。透は頬を掻きながらそう思った。


 そして、ふと冷静に考えてしまう。


 このメッキのように脆い幸せに、浸っていたいと思うのは、愚かなことなのだろうか? 


 きっとそうなのだろう。いや、間違いなく愚かしいことをしている。いまこの瞬間だって、危険に晒されていないわけではないし、状況だってほとんど変わらないのだから。


 香澄は、どこにいたって追ってくる。


「……大丈夫なのかな? ここにいても」


「私も多少は気配を感じる力があるけど、今のところは大丈夫だと思う。おそらく、あなたがこの周辺にいる『殺意』たちを一掃してしまったのだろうね。あいつらの気配はほとんどない」


「だけど、『不条理』のときはギリギリまで接近に気づかなかったよな? 本当に大丈夫なのか?」


「……痛いところを突いて来るね。あのときは、かなり疲弊していたから感知能力が鈍っていたんだと思う。今は少し回復できたから、前よりは遥かに鋭敏だよ」


「そうなのか……。しかし、香澄のやつが差し向けた奴らが来るかもしれない。あいつからは大分離れたみたいだけど、それでも俺の居場所は把握できているだろうし」


「え? 透くん、あの女の居場所がわかるの?」


「ああ……。なぜか知らないが、なんとなくな。正確な距離とかはわからないけど」


「……ふぅん」


 桜南は複雑そうに表情を歪める。


「あの雌犬……どこまでも……」


「銀城?」


「……ああ、すまない」


 桜南は、咳払いをすると続けた。


「異色香澄が『殺意』を操ることができる理由は、私もわからない。『殺意の王』が関係しているのかもしれないし、元々あの女が持っている能力なのかもしれないが……いずれにせよ、そこまで万能というわけでもないはずだ。必ず何らかの制約がある」


「制約?」


「『殺意』の権能にも限界があるということだ。私だって、操れる血の量には限度があるし、使えば使うほど体力を消耗していく。……それと同じように、異色香澄も操れる『殺意』の数や、時間、範囲において必ず限界がある。もちろん、体力もね」


「ゲームのMPみたいなもんか。いや、この場合、命を削る系の魔法って言った方が正しいのか……?」


「まあ、そうだね。下手をすると力の使いすぎで脳が焼き切れて死んでしまう。『不条理』と戦ったときは結構危なかったね」


「おい……大丈夫なのか?」


「もう大丈夫だよ。それより君もけっこうギリギリだったと思う。なんせ、一日近くは寝ていたはずだから」


「えっ」


 透は思わず上半身を跳ねるように起こしてしまった。その瞬間、頭に刺すような痛みが走り抜ける。


 顔を歪めながら、透は言葉を発した。


「そんなに寝ていたのか? こんな状況で……?」


「私が意識を取り戻してからの時間だから、きっともう少し長いよ。私の回復ぶりを見ればわかるだろう?」


「……」


「それだけ、リスクが伴うんだよ。強すぎる力はとくにね。君の戦う姿を直接見たわけじゃないから詳しくはわからないが、『不条理』たちと戦った後も異色香澄が差し向けてきたであろう数多の追手を倒し続け、ついにはふりきってしまったんだ。体力の消耗うんぬん以前に、君の権能は普通ではない。強大な力を、異色香澄から与えられているはずだ」


「その分、リスクも大きいってわけか……」


 透は自身の脚に視線を向ける。両足の親指を動かしてみる。神経と血が通っている感覚がふくらはぎで膨らみ、すっかり元通りになったことを実感できた。桜南へと目を移す。彼女の左腕は、肘から先の半分がまだ戻っていない。


 異常だ。


 トカゲの尻尾なんて比喩すら遠く及ばない。異常な再生力だ。思えば、香澄に脚を切り落とされたときも一瞬で傷口が塞がった。


「俺の能力はたぶん、尋常じゃない再生力だ」


「……私もそう思う」

 

「……」


 透は口を閉ざして、思索に入ってしまう。


 桜南の言うとおり、香澄からこの異様すぎる力を与えられたのが間違いないとして。


 その真意は、どこにある?


 そこを考えるべきではないとわかってはいても、考えずにはいられない。


 あの天才が、閉じ込めておきたいほど重要な存在に、わざわざ反逆の理由になりかねない強大な力を与えていたのだ。不合理でしかない。拉致監禁した人間に、ナイフを渡すようなものだ。そんなことをする意味が、どこにあるのだろうか? 


 そうせざるを得ない理由があるのか?


 それとも、透に対する狂気的な執着にその答えに繋がる何かがあるのか?


 香澄の赤い両眼だけが、イメージとして浮かんでくる。爛々と輝きながらも粘り気のある、狂気の愛が込められた眼差し。


 ぞっとした。


「……あいつは」


「なぜ、自分を『殺意』に変えたのだろうかって、気になったの?」


 桜南の察しの良さには今更驚かない。


「……ああ」


「……」

 

 桜南は、少しだけ沈黙した。


 その間が気になった。視線を上に向け、眉根を寄せて、やがてゆっくりと透に目を向ける。


「……わかるわけないよ。あんなイカれたやつの考えなんて」


「そう、か」


 きっと、思い当たる理由が一欠片でもあったのだろう。それでも言わないということは、憚れるほどの狂った事由なのだ。


 もしくは、嫉妬を誘う何かか。


「……あいつに聞かない限り答えは出ないよ。考えても仕方ないことさ」


「わかってる」


「そんなことより、重要なのはさっき私が言ったことだよ。権能のリスク」


「あいつが追手を差し向けてこなくなったのは、そのリスクに理由があるってことだろう?」


「ああ。あいつの『殺意』を操る力も、能力的にはかなりの負担がかかるはずだ。精神と肉体の操作を、遠距離からやるなんて普通では考えられないほどの体力が必要だろうしね。しかも大量の『殺意』を操作していた。一つのコントローラーで、何台ものゲームを動かすような感じだろう。疲れないわけがない」


「……あいつは、俺と同様に力を使いきって動けなくなっているのか?」


「たぶんね。もしくは、『殺意』を動かせなくなる何らかの事情が生じたか」


「……その事情って?」


「異色香澄の命を狙っているのは、別に私達だけじゃないってことさ。『上位者』の中には、彼女達の実験で人生が狂ったやつもいるからね」


「……なるほど」


 恨みを買う理由なんて、おそらくは星の数ほどあるのだろう。裏の事情なんてほとんど知らないが、それだけははっきりわかる。


 人間を鏖殺しようとしているやつだ。憎悪を向けられていたとしても、なんの不思議もない。


 唐突に、桜南が咳払いをした。


「ここで、何よりも重要なことに気づかないといけない」


「……なんだ?」


「君なら気づくと思ったが」桜南は肩をすくめて続けた。「……なぜ、異色香澄本人が追ってこないんだろうね?」


「……あ」


 透は目を見開いて、手を叩いた。


「そうか。あいつの性格なら、力尽きるまで人任せにするのは不自然だ」


「それも、最強に近い権能を持っているにも関わらずね。殺し合いをして改めて思い知ったけど、『狂愛ファム・ファタル』の力は神の領域だ。見えない攻撃と防御。未だに底が知れない。……あいつが追ってこない理由がないんだよ。君への執着の強さから考えてもね」


「……それはつまり、人任せにせざるを得ない理由ができたってことか?」


「うん。あいつはたぶん、能力の一部ないし全部を使えなくなっている。私に一度殺されたことがきっかけになったのだろう」


「……」


 桜南の考察は、おそらく間違いではない。それだけの根拠が揃っている。


 気づくと、透の手のひらに何故か汗が溜まっていた。心臓の鼓動も心なしか速まっている気がする。


 口が乾くのを感じながら、透は口を開いた。


「……ということはだ」

 

「うん」


「チャンスでもあるよな? あいつを……倒す」


 殺すとは言えなかった。未だに覚悟が足りないのか。


「……今なら殺せるかもね」


 殺せる、という部分を桜南は強調させた。そこには危険な感情が込められていて、透とは比べ物にならない覚悟もあった。


「……しかし、あの女は無理をする必要がないんだ。『殺意の王』さえ産まれれば、あいつの勝ちは確定する。だから、あいつが次に取りうる行動は一つしかない」


「……逃げに徹する、か」


 透が答えると、桜南は頷いた。


「それが最も合理的だ。『殺意』や仲間の『上位者』に時間稼ぎをさせながら、逃げ続ける。他の『上位者』たちに能力を失ったことがバレるリスクを考えても、そうするだろう。もうすぐ産まれるわけだしね」


「……時間がないんだな」


「残念ながら。君とボードゲームを楽しむ暇もなさそうだ。久しぶりに一局指したかったがね」


 桜南の冗談には答えなかった。


「……お前の言うことは、たしかに合理的だ。でも……」


 あいつは、そんなに思い通りには動かない気もする。逃げに徹するのはおそらく間違いないが、桜南が予想している以上の何かしらの仕掛けを用意しているような気がしてならないのだ。あいつには合理性を無視するだけの狂気がある。だからこその天才。果たして、そんなやつに通常の論理が通用するのか。


 それに、あいつの中にはもいる。桜南をズタズタにしたが、何をするかもわからない。静観をして、大人しく殺されてくれるはずもない。


 口を閉ざした透に、桜南は諭すような口調でこう言った。


「……いずれにせよ、私達に選択肢はないよ」


「……」


「やるしかないんだ。私達は、あの女を追うしかない。逃げたところで待っているのは地獄と破滅だ」


「……そう、だな」


「あの女のことだ。そんなことは当然読んでくるだろうし、こちらの想像を超えるような動きをしてくる可能性は十二分にある。ボードゲームなら慎重に長考を重ねるのもありだが、このデスゲームはあいにく早指しなんだ。状況も、盤外から目まぐるしく変えられる可能性も高い。私達が消極的になる理由は一つもないだろう?」


 透は口を噤むしかなかった。


 臆病風に吹かれそうになった自分を恥じた。まだ、透の精神には香澄への恐怖が色濃く残されている。それに負けるわけにはいかない。


 空手でもそうだ。相手が怖い。どんな技が来て、どんな痛みを受けるのか分からない。最大の敵は、いつだって自分の中にある未熟さと恐怖心だった。それを克服していくことが勝利につながる。


 だが、いかに言い聞かせたところで、身体はあまりにも正直すぎた。


 手が震えていた。


 恐怖との向き合い方はわかっているはずなのに、力も手に入れたのに、香澄という存在がどうしようもなく――。


 どうしようもなく、怖い。


 そのとき、透の恐怖を優しい温かさが包み込んだ。桜南の手が、震える手に重ねられたのだ。


 透は驚いて桜南を見た。電灯の死に絶えた仄暗い空気の中で、彼女の浮かべた微笑みはランタンのような優しい光を思わせた。


「……大丈夫」


「……桜南」


「大丈夫だから。――私が側にいる」


 言葉を失うという事象が、こんなにも優しく起こったことが、かつてあっただろうか。


 心に生まれたのは空白だった。


 あまりにも、その白さは温順で。


 あまりにも優しい、光による抱擁だった。


「……あぁ」


 その手を見ながら思う。


 モナ・リザの手よりも、デューラーが描いたキリストの手よりも、どんな芸術作品の美麗に誇張された手よりも。


 その手は、神聖だった。


「……ごめんね」


 聖性すら感じられた少女は、何度目になるか分からない似合わない謙遜を見せた。


 しかし、その目には暗さを超越した輝かしい愛が籠もっていた。


「……必ず、透くんをこの絶望から解放してあげるから」




































 ごめんね。


 あなたの言葉を呪いにしたくないと思っていたのに。


 呪われるのは私だけでいいと思っていたのに。


 かつてあなたは、私の愚かな問いに対して「人を殺した人間は幸せになれない」と答えた。


 それは間違いじゃないと思う。


 でも、間違いじゃないからこそ残酷だ。


 透くん。


 あなたが「殺意」を受け入れることができたということはね。


 あなたが「上位者」になれたということはね。


 すでに、ってことなんだよ。


 ――透くん。


 あなたは、もう、幸せになれないんだよ。








 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る