第四章 三
牙をむき出しにして、六つの目を柔らかく歪め、全身を血に染めながら。
ドス黒い殺気のすべてを、「
「……さて」
顎に手を当てて、黒い男は視線を走らせる。
化け物たちのほとんどは徹底的に壊されていた。内側から爆発されたかのように頭を砕かれた死体が、累々と横たわっている。その断面はまるで落ちた柘榴のようだった。飛び散った脳漿。血。汚い肉屋の見本市のごとく、あたりに転がる内臓。新鮮でシワひとつない腸が、巨大なミミズみたいに怪物の周りを覆っている。てらてらと光りを放ち、サーモンピンクに彩られた肉の群れは綺麗だった。
まだ息があるものも居るにはいる。頭を砕かれずに済んだものたちだ。だが、下等種は再生能力が弱い場合がほとんどだから、使い物にはならないだろう。男はそう判断した。
「僕がやるしかないかな」
男は小さく息をついた。
「聞いてないよ、こんなに強いだなんて。聖母様はどれだけ過保」
拳が頬に突き刺さった。
メキッという音が頭蓋を貫通し、脳に直接響いてくる。衝撃は後から襲った。視界が真っ赤に染まった瞬間、男は後方まで吹き飛ばされていた。コンクリートの床を何度も転がって壁にぶつかり、亀裂を刻む。
轟音。頭と首が引き千切れたかのような鋭い痛み。殴られた。暗転を繰り返す視界の中で、男は痛覚の遮断を試みた。晴れていく視界。
踵落としが、眼前に迫っていた。
「――」
男は咄嗟に身体を捻り、マサカリのような蹴りをかわした。コンクリートが轟然と砕け散る。男は破片に当たりながらも、左に飛んで素早く距離をとった。
首が、折れていた。
噛んだストローのように頭が横に倒れていた。口の端から勝手に赤色の泡が湧いてくる。
「調子に乗っちゃ駄目だよ」
その状態のまま、黒い男は言った。まるで小学生のイタズラを注意するかのような口調で。
爛然と輝く怪物の目が、男を射抜いていた。嗤っている。愉しげに、殺したいと言わんばかりに、顔が歪んでいる。
砲弾のような勢いで怪物が飛んだ。その瞬間、男の身体が猛烈な勢いで膨れ上がった。肉風船は瞬間的に収束し、大量の煙が広がる。拳を振り上げた怪物がその煙に飲み込まれ、姿を消した。
――絶叫が轟いた。
煙を引き裂きながら後方に飛翔した怪物の左腕は、焼き切れていた。身体のところどころが炎に包まれ、焼け焦げている。苦痛の叫びに喉を引き裂きながら、怪物は暴れた。
「アハハー、やはりイイモノだネ。殺意のチカラを解放するのハ」
煙の中から現れたのは、地獄の使者と呼ぶに相応しい存在だった。
炎に包まれた黒く大きな体躯。龍の顔をした太い尾。そして、背中から覗く日輪を模した輪――。折れ曲がったままの頭には、悪魔のような角が生えており、容姿は醜悪と表現せざるを得ない怪物そのものだった。辛うじて人間の形を保っているような感じで、鼻がなく、無数の目があり、口は耳元まで裂けていた。
その右手には、炎の形をした禍々しい鎌が握られている。あれで、怪物の腕を断ったのだ。
「不条理」は自分の頭を掴むと、一息で元に戻してしまった。ボキボキと音が鳴る。
「……サテ」
「――アァァッ」
「……これからガ、お楽しみダヨ」
「不条理」が走る。炎が閃光のように後ろへ流れていく。はやい。悶え苦しむ怪物は、彼の接近に気づいて火に焼かれるまま腕を再生させた。瞬きする間だ。
両者が肉迫する。
「不条理」が鎌を振るうと同時に、怪物は身体を回転させた。横薙ぎの一撃をかわしながら蹴りを放つ。胴回し回転蹴り。風を切る黒い踵は、巨大なハンマーのようだ。頭蓋を破壊されるイメージが電流のように走り抜ける中、「不条理」は紙一重でかわした。彼は着地した怪物に向けて猛火を放った。火炎放射。事切れた化け物たちの肉塊が一瞬で炭化し、奥にあった車が連鎖爆発を起こす。
地獄の業火。
爆風が駆け抜け、常人なら肺を焼かれるほどの高温にあたりは包まれた。地下駐車場は焦熱地獄へと姿を変えていく。
「不条理」はその熱をもろともせず、冷たい目を周囲に走らせる。いない。おそらくはかわされたはずだ。
殺せないというのは厄介な縛りだな、と思った。やろうと思えば、もっと強力な火力でこの空間すべてを焼き尽くすこともできるが、力が強くなりすぎると制御が効かなくなってしまう。弾みで殺してしまったら、今度は自分が異色香澄から殺される。「世界の不条理」が崩壊するときを目にするまで、死ぬわけにはいかないのだ。
だから、炎のコントロールが可能な範囲と力でやるしかない。あれの首以外を焼き尽くし、再生しないように傷口を焼き続けながら持ち帰る。
それが――最善手。
「不条理」の視線が右に動いた。
炎の揺らぎを捉えたのだ。身を焦がしながら現れた怪物は、失った組織を再生させながら飛び蹴りを放ってきた。頬にかすり肉が抉られる。鉄のヤスリで削られたかのようだ。「不条理」は鎌を振るい、着地した怪物を袈裟斬りにしようとしたが、すでに消えていた。懐だ。急上昇する拳。アッパーカット。顎を砕かんばかりに迫ったそれを、仰け反りながらなんとか避ける。
連撃が始まった。
刺突のごとき突きが、閃光を走らせる。その中に織り交ぜられたフェイント。数々の小手技。貫き手、掌底、熊手、足刀蹴り――。あまりにも洗練された数多の打撃。そのすべては、とてもじゃないがかわせない。ブロックに徹した。顔面の前で交差した腕が衝撃に悲鳴を上げる。骨が軋み、肉が削れる。
一撃一撃が重い。
なんてやつだ。「不条理」はそう思った。痛覚の遮断なんてまだ使えないはずなのに、自分の再生能力を頼りに炎に突っ込んでくるとは――。
防御の間隙を縫うように、三日月蹴りが鳩尾に突き刺さった。
「――カハッ」
痛覚は消している。だが、本能的に横隔膜が迫り上がり、一瞬息が止まる。
右回し蹴りがブロックの上から叩き込まれた。
踏ん張りの効かない身体は、ゴム鞠のように容易に吹き飛ばされた。視界が回転する。地面天井地面天井地面天井地面天井地面天井天井天井。床を削りながら滑り、ようやく止まった。
体勢を立て直そうと、右手をつこうとした。だが、折れて使い物にならなかった。ため息をついて飛び上がると、怪物が柱や天井に飛び移りながら、こちらに迫ってきているのが見えた。
「……あア、遠ざけていたノカ」
力尽きた銀城桜南を巻き込まないように。殴り飛ばしたことや蹴り飛ばしたことといい、「殺意」のくせに随分と生温いことをする。
いや、もしかするとそれこそが、彼の「殺意」としての本質……殺人の動機なのかもしれない。
「守る」という動機。「守る」ために殺すという歪みきった理屈。
不条理そのもの。
「クハハハッ」
破壊してやりたい。骨の髄まで灰にしてやりたい。この不条理を、己の不条理によって踏みつけにしてやりたい。殺したい。殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したいコロシタイ。
ああ、もう、我慢できない。
「不条理」の身体が燃え上がった。左手を向かってくる怪物へと翳す。全身の炎が一瞬で掌へと集約されていき、目がくらむほどの光りを放ち始めた。
怪物が警戒したように目を細め、柱を蹴り上げて横へと飛んだ。
その瞬間――怪物の身体に、炎の形をした鎌が突き刺さった。
「――ギッ」
何が起こった、と言わんばかりに目を見開き、脇腹に突き刺さったそれを見つめる怪物。
左手の閃光は、ブラフだ。
蹴り飛ばされた際に落とした鎌。それが本命。
「はい、オしまい」
淡々と告げると、「不条理」は左手を握りつぶした。
鎌が爛々と発光する。
刹那――雷鳴のごとき爆音が轟いた。絶叫を上げる間もなく、怪物の身体は粉微塵になった。猛然とあがった煙に遅れ、彼の肉片が雨霰と周囲に降り注ぐ。「不条理」は、汚い豪雨の中を走った。見届ける暇などない。頭が無事な場合、再生されてしまう恐れがある。
肉片の雨の中から、「不条理」は一際大きな塊を見つけた。背骨の一部だけ辛うじて繋がった頭部。ボウリングの玉のように掴んで拾い上げる。顔の半分はグチャグチャだったが、至るところの断面が激しく蠢いていた。再生が始まっている。
「不条理」は、首の断面に炎を集中させた。盛り上がり続ける肉を、再生速度よりも速く焼き続ける。
こうすれば、再生はされない。
「……結果オーライだネ」
あの一瞬、「不条理」は殺す気になっていた。おそらくは「殺意」としての本能が、怪物の不条理に触れて激しく反応したのだろう。殺すつもりで爆発させたが、運良く生き残ってくれた。
「僕もまだまだだナア。本能に負けソウになるなんて、いけないネ」
独り言ちていると、頭に雑音が響いた。「不条理」は肩を竦める。聖母様からのお説教だ。
「……ハイ」
――約束が違いますね。
その言葉は氷のように冷たかった。彼女から与えられた「殺意」の細胞が反応し、勝手に震え上がる。
――私は、傷つけるなと言ったはずですが?
「不条理」は、これ程の理不尽があるだろうかと嘆息したくなった。
「不条理ダ。とんでもないパワハラだネ……。勘弁してクレないかナ、彼を無傷で捕捉スルなんてできるわけナイよ」
――でしょうね。私が兄さんに与えた細胞は特別製ですから。私以外の人間が無傷で捕らえるのは不可能に近い。
「……それを分かっているナラさ」
――まあ、あの約束は兄さんが覚醒めなかったときの保険……ただの釘刺しのようなものです。あなたが余計な気を起こさないように、ね。
バレている。苦笑いをこぼしたくなった。本当に恐ろしい女だ。
――兄さんが覚醒めたときは、多少荒っぽくなっても致し方ないなとは思っていましたよ。
「先に言って欲しかったヨ、それ」
――だって、本来は耐えられないんですもの。私以外の人間が兄さんを傷つけるなんて。しようがないとはいえ、なるべく丁重に扱って欲しいじゃないですか。だから、言いませんでした。
「イカれているネ、相変わラず」
――ふふふっ、そうでしょうか? 私はただ兄さんを大切にしたいだけなんです。
「不条理」は、左手に掴んだ頭を見た。
たしかに、ずいぶんと大切にされている。こんな風になっても死なないのだから。
「……それにシテも、ご機嫌だネ」
――ええ、だって兄さんがもうすぐ戻ってくるんですから。嬉しいに決まっているじゃないですか。それに……やっとあの女も殺せますし。
「……アァ、やらないト」
――お願いしますよ。一つの垢さえ残さずに消してください。兄さんをさんざん汚した悪い細菌ですからね、完全に消毒してしまわないと。
そういえば、君のお兄さんがその細菌に告白していたよ。そう言ってやろうと思ったが、やめておいた。せっかく機嫌がいいのに、気分を害してやったところで大したメリットはない。少しだけ面白いだけだ。
それに、この生首がこれから被る不条理を考慮してやるなら、言わないでおいてやった方がいいだろう。教えてしまえばきっと、言葉を訂正させようとあらゆる拷問にかけられることになる。
――帰ったらたくさん可愛がらないとですね。私の聞き間違いじゃなければ、おかしな事をあの害虫に言ってましたし。
ああ、無理だったか。
「……ごめんネ」
「不条理」は生首に小さく謝る。もはや救えない。さよなら。
「うん、じゃあゴミ掃除するヨ」
――よろしくお願いします。
異色香澄からの通信は途絶えた。「不条理」は軽く伸びをすると、まず手始めに周囲に散らばっていた肉片と血を焼くことにした。万が一、銀城桜南が動けた場合のことを考えて、不意打ちを喰らう要素を消していく。
男は血肉を焼きながら、歪んだ声で歌い始めた。
「――I'm singing in the rain(雨の中で、僕は歌う)」
炎を吹きながら、生首をかかげる。この歌を彼に捧げたいと思ったから。
「――Just singing in the rain(雨の中で、ただ歌う)」
「雨に唄えば」だ。ジーン・ケリーの映画に同名のミュージカル映画があるが、彼にとって思い入れがあるのはそちらではない。「時計じかけのオレンジ」という映画の方だ。主人公がこの歌を口ずさみながら、押し入った家の主人に暴力を振るうシーンがある。それが印象に残っていたから、不条理を感じたときに度々口ずさんでいた。
火が上がる。火が揺れる。棒読みの壊れた歌とともに。
「――What a glorious feelin(なんという素敵な気分か)」
焼き尽くされた肉の先に、銀城桜南が倒れていた。
彼は、歩きながら手を上げた。折れた右腕が振り子のようにリズムをとった。
「――I'm happy again(幸せが込み上げてくるよ)」
幸せ。
そんなもの、感じたこともないくせに。
歌をやめた。この冒頭しか覚えていないから。
「……遅くなったネ、死のウ。愛スル人に告白サレタ幸せに浸ったマま」
「不条理」は、万が一の不意打ちに備えて距離をとる。無数の冷めた目で見下ろすと、折れた右腕をかざした。
彼の身体中が
「――ッ?」
「不条理」は、あり得ない音を聴いた。
――自分の顔面の骨が砕かれた音だった。
何かがこめかみにめり込む重たい衝撃。視界の端に映ったのは、首のない
コンクリートの地面に叩きつけられた。まるで巨大な落石を受けてしまったかのように、凄まじい圧で頭蓋が潰される。首の筋という筋がプチプチと意識ごと千切られていく。
地響きで、駐車場が震えた。
「――」
まさか。
頭がコンクリートの先に沈んでいくのを感じながら、「不条理」は思う。
まさか、頭以外からでも再生できるのか。鎌で切り落とした腕。もしくは爆発のときの肉片。あれから――。
思考は途切れた。追撃。内側から頭蓋が砕ける音がした。耳から血が吹き出す。視界が歪む。追撃。拳が減り込む。追撃追撃追撃追撃追撃追撃。
「――ギギャアアアッ」
怪物の叫び。いつの間にか頭が戻っていた。死ぬ。殺される。無味乾燥とした「不条理」の心に、仄かに灯る暗い火。
初めて感じた、恐怖。
記憶が溢れる。押さえつけられる自分と、目の前で不良にのしかかられ、悲鳴を上げる少女。雨。雨が降っていた。曇天は彼女の心だった。彼女は、震えながら泣いていた。後日。太陽が眩しかった。鎌とガソリン。不良を刺して焼いてやった。炎が上がる教室。悲鳴と涙。逮捕、裁判。懲役二十三年。ああ。ああ。俺は、間違えたことはやってないのに。
不条理だ。
「アアアアアアアアッ」
雨に唄えば。雨に唄えば雨に唄えば雨に唄えば雨に唄えば雨に唄えば。
こんな不条理、許せない。
「不条理」の身体が膨れ上がった。肉風船が赫々とした光りを伴いながら際限なく広がり始める。
「……ッ」
怪物の動きは素早かった。肉風船を蹴り飛ばし、飛ぶように駆けて桜南の身体を抱える。地面を蹴り飛ばした瞬間――。
巨大な爆発が起こり、地下駐車場は崩壊した。
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