第四章 二





 告白の返事は、まだできていない。


 桜南をどう思っているのか。


 透は、自分の気持ちが分からなかった。友人としてはもちろん好きだ。趣味も合うし、馬も合う。ときどき飄々とした態度やからかってくることが、うっとうしいと思うときもあったが、だからといって嫌なわけではない。じゃれ合いの延長上にある彼女なりの愛情表現だと、分かっていたから。


 そんな彼女を愛おしいと感じたことがないのか。ないと言えば嘘になる。透明感のある彼女の微笑みに惹かれたことは、正直一回や二回どころではなかった。


 だが、それらの好意的な気持ちが果たして友愛以上の感情と言えるのかどうか、透には計りかねたのだ。恋をしたことなんて一度もなかったから、彼はその特殊な感情に対する方程式の解法を一つも知らなかった。物語を読んでいるうちにその概念に触れたことはあるが、現実と物語は言うまでもなく違うから、透は動揺と混乱を抑えることができなかった。


 嬉しくないわけがない。学内でも五本の指に入ろうかという美人に、それも特別仲の良い女子に、好意的な言葉をかけられて喜ばない男などいるはずがない。だが、そのときは喜びよりも心の底から湧き上がってくる複雑な感情のうねりが勝ったのだ。


 桜南に対する思いに確信が持てなかったこと以上に、そのうねりが透の口を重たくした。


 それは、喜びを超える戸惑いと、恐怖だった。


 友人として大切な桜南が、それ以上の存在になる。


 そのイメージが、心の奥底で沈む怖れを引きずり出してくる。


 ――失うのではないかという、虚妄を。


 いつもそうなのだ。


 透は、大切なものを失うことを必要以上に怖れていた。その虚妄に取り憑かれたときの透の目には、大切にしているものが泡のごとく儚い存在に映ってしまう。壊れてしまうんじゃないか、消えてしまうのではないかと。指先で触れることすら躊躇してしまうほどに、そのイメージは脆すぎた。


 苦しみに満ちた経験が、母親を殺されたトラウマが、彼の歪みを生んでいた。誰に対しても気さくに接するはずなのに、彼はある程度の深いレベルで人に踏み込むことができなかった。イメージが浮かぶのだ。焼き尽くされた骨と、それを拾い集める無数の手。それが浮かぶと、彼は震えるほどの恐怖に苛まれる。


 本当は踏み込みたいのに。踏み込む勇気がいつも足りなかった。だから親友の茶川充ちゃがわみつるに対してさえ、根っこの部分では心を許せていない。ヤマアラシのジレンマというやつだ。踏み込めば棘が待っていると思い込み、動けない。


 陽の傾く、最後の文化祭のエピローグ。


 あのとき、透がこう答えたのは必然だった。

 

「考えさせて欲しい」


 保留という言葉で片付けるのは、あまりにも卑怯だろう。逃げたのだ。幻想の棘を前にして足が竦んでしまい、否定も肯定もできないから、時間という効き目の定かではない魔法に頼ろうとしたのだ。


 先延ばしという名の魔法。


 勇気を示してくれた相手に対し、あまりにも不誠実な力を使ってしまった。


 そんな情けない透の言葉を、桜南は受け止めてくれた。不満そうに、それでいて悲しげに頬を膨らませながら、「意気地なし」とチクリと刺しながら、それでも小さく笑ってくれた。


「……わかったよ。透くんらしいね」


「ごめんな……。今すぐ、返事できなくて」


「ううん、仕方ないよ。あなたのそういう臆病なところも含めて好きになってしまったのだから。惚れた弱みだよ」


 さらっと恥ずかしいことを言われ、透は俯くしかなかった。桜南の顔を直視できない。罪悪感と羞恥で、顔が熱くなってしまったから。


 笑われるかと思ったが、桜南は笑わなかった。ちらりと目を上げると、慈しむような、それでいて寂しそうな表情を浮かべていた。


 その美しさは、儚かった。


「でも、そんなには待てないかな。私には時間がないから」


「……え、それはどういうことだ?」


「ま、いろいろあってね。できれば詮索してほしくない」


 桜南はそう言うと、窓の方へと目をやった。夕陽はいつの間にか沈んでいて、夜の帳が降りきっている。気づかなかったことが間抜けに思えるほど、灯りのついていなかったボードゲーム部は暗くなっていた。影の濃くなった彼女の表情は、まるでギリシアの彫刻のように冷たく美しい。


 桜色の口から漏れ出る息が、静謐に優しく溶けていく。銀色の瞳は、星の散りばめられた空を見ているようで、しかしもっと遠くを見ているようでもあった。


「……夏祭り」


「……」


「夏祭りがいい。その日に、返事をくれないか?」


 桜南のいう夏祭りは、きっと飯沢市花火大会のことだ。八月中旬に河川敷でおこなわれる、そこそこ大きなお祭りで、絢爛な花火の催しが有名だからか県外からも人が訪れる。


 たしかに、その日なら告白の返事をするには相応しい日なのかもしれない。文化祭と比べても、遜色のないイベントであることは間違いないのだから。


 だが……いまは六月だ。


「……いいのか、そんなに待たせて。まだ夏祭りまで二ヶ月もあるぞ? 事情はわからないけど、時間がないんじゃないのか?」


「それまでなら大丈夫。……それに、透くんにはゆっくりと考えて欲しいんだ。考えて考えて考え抜いて、その上で出した答えを聞きたい」


「……そうか。お前がそう言うなら……いや、そう言ってくれるのなら、わかったよ」


 透は言葉を切って、桜南を見つめる。視線に気づいた桜南と目が合った。宝石よりも美麗な瞳は、見ているだけで吸い込まれそうになる。その目はきっと花火を見上げたときには、より美しく輝くことになるのだろう。


 思えば、初めてだ。桜南と祭りにでかけるなんて――。


 音が出ないよう慎重に唾を飲みこみ、口を開いた。


「……行こう、夏祭り。そのときに、かならず返事をするから」


 レースのカーテンが、揺れた。室内を通り抜けた風は、祝福を運んできたかのようにあまりにも心地よくて優しかった。


 桜南は、これまで見せたことのないほどの満面の笑みを浮かべて言った。


「うん。かならず聞かせてね? 待っているよ」







 ――しかし、桜南が夏祭りに現れることはなかった。


 時間がないという桜南の言葉。その本当の意味を知ったのは、それから数ヶ月以上先のことだ。


 おそらくは、あのときすでに……。


 すでに香澄からバラバラにされ、人間を辞めていたのだろう。








 

 

 ――死のうか、いい加減。


 「不条理」の言葉を聞いて、透は腕を必死に動かした。匍匐前進の要領で、芋虫のように前へ前へ進んでいく。


 桜南の元へ行かなければ。桜南の元へ行かなければ。


 せめてあいつの盾にならなくては。この事態に香澄が絡んでいるのなら、間違いなく自分が殺されることはない。むしろ、人質として有力なカードにもなり得る。ならば、動かなければならない。桜南のために。これまで自分のために命をかけて戦ってくれた、親愛なる友のために。


 このままでは桜南が殺される。


 そんなことは許せない。たとえ無能だとしても、役立たずなのだとしても、その事態をただぼけっと見ているわけにはいかない。化け物たちに蹂躪される桜南の姿を想像しただけで吐き気がした。


 なんでもいい。動け。桜南のために役に立て。守るんだ。守らなければ。殺させたくなんてない。絶対に、絶対に、絶対に。


 ――まだ、返事をしていないのだから。


 そんな残酷なこと、許してはいけない。


「あ、ああぁ……!」


 汗を撒き散らしながら呻く。全身の筋肉が力みすぎて痛い。腕を動かせば動かすほど、擦り傷が増えていって血が流れた。


 だが、そんなことどうでも良かった。


 ――失うかもしれない。


 恐怖が、彼を突き動かしていた。


「……ぎん、じょう!」


 桜南が、こちらに顔を向けた。狼の顔がいつの間にか元に戻っていた。ズタズタになった美少女の顔が、静かな微笑みをたたえている。


 ああ。


 透は、分かった。


 あれは、諦めてしまった顔だ。


「……許してね」


 その瞳は、暗く淀みきっていた。


 桜南はふらつきながら、なんとか踏ん張り、残された一欠片の力を振り絞ったようだ。透の元へ一瞬で駆け寄った。


 そんな桜南の様子を、「不条理」が不思議そうに見つめている。


「……人質にでもする気かい? 無駄な事をするのが本当に好きだね」


 桜南は答えない。答えられない。口から血を吐いて、透の目の前で膝をついた。身体が人間の姿へと戻っていく。


「あらら、力尽きちゃっているじゃないか。……何がしたいんだ?」


 黒い男は、感情のない声で桜南の行動を馬鹿にした。


 嘲笑うな。嘲笑うんじゃない。


 透は歯噛みしながら、くしゃくしゃに顔を歪める。


 お前なんかには、わからない。


 死に場所を選んだ、桜南の気持ちなんて。


「……銀城。俺を……俺を人質にしてくれ」


「……」


「頑張ってくれ。そうすればまだ……」


「……ダメだよ。異色香澄に同じ手は通用しない。そんなことしたって、化け物や『不条理』を遣って、君ごと私をバラバラにするだろう。……君は、頭さえ無事なら……生きていられるんだから」


 押し黙るしかなかった。たしかに香澄ならやりかねない。冷酷さに染まったときの彼女は、導き出した最適解がどんなにイカれたものだったとしても、平然と実行する。透の脚すら容赦なく破壊したように。


 もう、はっきりとわかってしまった。


 詰んでいるのだと。


「……透くん」


 桜南は泣きそうな声を出しながら、震える隻腕を動かした。芋虫のように転がる透の頭が、ゆっくりと抱き起こされる。傷だらけの肌からは柔らかな温もりと、苦悶に満ちた血の臭いが伝わってくる。


 少女の胸の中は、紛れもなく地獄だった。


「……ごめん、ごめんね。……もう、どうにもできないよ」


「……」


「約束を守れなくて……ごめんなさい」


「……」


 外に出してやりたい。約束とは、きっとそのことだ。


「あははー、ラブラブだねえ。これは、聖母様が激昂しそうだ」


 棒読みすぎる冷やかしなど、もはやどうでも良かった。


 桜南が泣いている。すすり泣いている。涙がこめかみに落ちてきて、耳の中に流れ込んできた。生暖かい感触は外耳道に滞留し、熱を奪われ冷たく変わっていく。


 ああ、また泣かせてしまった。桜南の気持ちを踏みにじっただけでは飽き足らず、桜南にすべてを背負わせたまま何もせず、絶望させてしまった。情けないなんてレベルではない。男として死んだほうがマシだと思えるほどの、罪深さだ。


 化け物たちが発狂し始めた。仄暗い闇の中で、複数の赤い目が爛然と輝いていた。


 ……もう、終わりだ。


「……銀城」


 透は、なるべく優しい声を意識して言った。


「こちらこそ、ごめんな。ここまで俺のために頑張ってくれてありがとう」


 抱きしめる力が、強くなった。桜南の柔らかさと体温がさらに感じられる。


 透は目を閉じて、優しく湧き上がる実感を心に抱いた。


 ……こんなにも、温かいんだな。


「……お前は何も悪くない。悪いのは俺だよ」


「なにを言っているんだ。私が……」


「違う」透は語気を強めて否定した。「俺が悪いんだ。お前にばかり背負わせて、何もしなかった。できなかった。それに……さえ守っていない」


 風が、抜けていく。蛇のように伸びる鉄パイプが、ひしゃげた車が震えている。狂乱する化け物。その耐え難い臭気。男から漂う焦げた臭い。化け物たちの足音。迫りくる死。


「好きだ、銀城」


 透は、告白の返事をした。


 桜南の短い声。声にならないようなか細い声。荒れていた息が止まっていた。きっと目を見開いている。泣きながら。苦しみながら。


 最悪な告白だった。


 でも、とまらない。


「俺はずっと、ずっと前からお前が好きだったよ。でもな、失うのが怖かった。今みたいに、お前が消えてしまいそうになるのが何よりも怖かったんだ。……俺は、無力だと知っていたから。でも、今は違う」 


「……ダメ」


 桜南は、何かを察したようだった。そして、その内容はおそらく正しい。


 化け物たちの足音が、迫る。地面が震える感触。もう数秒もない。

 

「俺は、お前を守りたい」


「やめて! それだけはダメだよ!」


「ブラックナイト」


 わかっていた。


 どうすればいいのか。


 すべてを受け入れればいいのだ。


 ――俺は、あいつなのだと。


 ただ、それだけ。


「へん、シン」


 すべてが溶けていく。地下駐車場も、桜南から感じる熱も、化け物たちや黒い男の臭いも、風の感触も、音さえも。なにもかも。なにもかもが歪む。走馬灯。溢れ出す記憶。一秒にも満たない時間に膨れ上がった情報量は、脳に光を走らせる。白い。眩しい。苦しい。辛い。寂しい。景色が弾けた。母が倒れている。泣きじゃくる幼い妹。透がハンマーを握っている。ああ、なぜ血まみれなのだろう。優しい。壊れていく。孤独の苦悶。慟哭。怖れ。愛。


 アァ、愉しい――。


 これで、守れるころせる




「ギギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァッ!」




 殺到した化け物たちの中心で、この世のものとは思えない叫びが上がった。鋼鉄のギターをかき鳴らしたかのような、乱暴すぎる鳴き声。


 それは、新たな怪物の産声だった。


 絶叫。一匹の化け物が、血飛沫を上げながら吹き飛ばされる。天井にぶつかり、落ちてきたころには頭を砕かれて絶命していた。止まらない、悲鳴は止まらない。化け物たちから次々と鮮血が上がる。手榴弾が破裂するような轟音。飛び散る肉片。目玉。脳漿。千切れ飛んでいく臓物。次々と次々と次々と次々と次々と――散らばり続ける。


 暴力の嵐が吹き荒れていた。


 その中心から、「何か」が飛び上がった。触手の化け物を潰れんばかりに足で踏みつけ、鋭く腕を突き刺し、狂気の叫びとともにサーモンピンクの小腸を引きずりだした。それを、牙だらけの口で噛み千切り咀嚼する。


 「何か」は、一見人の形をしていた。全身が黒く、プレートアーマーを思わせるメタリックな見た目をしていながら、表皮に走る赤々とした血管と、所々のぞく隆々とした筋肉のせいで、生物的な躍動感に溢れている。フルフェイスの兜を思わせる頭部には六つの目と、針山のように乱雑とした牙があった。


 血に濡れたそいつは、闇を睨みつけた。その先には、「不条理」がいる。


「おいおい。このタイミングか。まあ、このタイミングしかないよね。人間を捨てるのは」


 黒い男は、後頭部を掻きむしった。


「すごい再生能力だ。脚も完全に戻っちゃってるよ。……中のやつが相当気まぐれなんだろうな。ここに来るまで、変わり方すら教えていなかったみたいだしね。……うーん。面倒くさいなあ、面倒くさい」


 男がぶつくさと言っている間に、残っていた化け物たちが動いた。「何か」を脅威と定めたのか、牙や爪をむき出しにして、一息で詰め寄った。


 サイクロプスを思わせる怪物が、無造作に腕を振るう。並みの人間なら、瞬く間に肉塊に変わるであろうその一撃を、「何か」は中段受けで止めきってみせた。衝撃が走り抜ける。だが、びくともしない。


 驚愕に見開かれた怪物の一つ目。そこに、上段の前蹴りが突き刺さった。目玉ごと頭が消し飛んだ。「何か」は喜悦の声を上げ、事切れた肉を振り切り、すぐさま他の化け物に標準を合わせる。肉薄する巨大な牙。それを右回し蹴りで叩き折ると、その勢いを利用して身体をさらに回転させる。旋風脚。遅れてきた左脚が、化け物の頭部を粉砕した。落ちた石榴ざくろのように、頭蓋と脳がバラバラに散らばる。壁が鮮血で塗り替えられたときには、「何か」は飛んでいた。


 目にも留まらぬ速さ。化け物たちが反撃する間も与えられず蹂躪されていく。肉が飛ぶ、骨が砕ける、血の雨が降りしきる。「何か」は、やがて動きを止め、全身にその慈雨を受け、法悦の叫びに浸り続けた。


 それは、ヒーローなどではなかった。


「……コロス、マモル」


 化け物ブラックナイトが、嗤っていた。


「コロスマモルコロスマモルコロスマモルコロスマモルマモルマモルマモルマモルマモルマモルマモルマモルマモル、コロシテ……ヤル」



 




 

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