第二章 四
そんなことは、した覚えがない。
香澄のときのように忘れているということでも決してない。
銀城桜南は、香澄とは違う。搦手をつかって人を籠絡してやろうとか既成事実をつくってやろうとか、そんな狡猾なことを考えるタイプではないのだ。少なくとも、そのくらいのことがわかるくらいには、透は桜南と仲が良かった。
同じクラスの同級生で、同じボードゲーム部の仲間。転校生だった桜南は、美人だが少し変わっているところがあって、クラスでは浮いた存在だった。教室で彼女に近づくものはいなかったし、透も部活のとき以外には話しかけなかった。彼女が、それを望んだからだった。
一人が好きなのだ、と言っていた。「自分を見せる時と場所は選びたい」というのが口癖だった。人間関係による気疲れが面倒だったのだと思う。
だから、彼女と話すときはいつも放課後の部室で、ボードゲームをするときだと決まっていた。
そこで、二年近く一緒に過ごした。
将棋やらチェスやら双六やら、野球盤やらバックギャモンやらドミノやら――数え切れないほどのゲームをしながら。他愛ない会話に花を咲かせ、お互いの利害の一致する範囲で、楽しく過ごしていた。
友達だ。関係性は少し変わってはいたが、それ以上でもそれ以下でもない関係だった。
付きあっていたわけではない。ましてや、身体の関係を持ったことなど一度もない。
確信をもって言える。
桜南の言葉は、嘘だ。
「……」
だが、香澄の動揺は凄まじいものだったようだ。たとえ桜南の言葉が嘘だとしても、目の前でキスを見せつけられたのは、紛うことなき現実だ。全身の瞳が、激しく揺らいでいる。酩酊しているかのように、焦点が定まらない。
ぐらぐらと、ぐらぐらと、ぐらぐらと。
香澄が、鬼気迫る様子にかわり、六本の腕で頭を掻き乱し始めた。それは段々と段々と速くなり、段ボールを引き裂くような音が高まっていく。
「――イ、イ、イイイ」
香澄の大顎が引き千切れんばかりに開き。
絶叫が、轟いた。
「イヤアアアアアアアアァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァア! 兄さんがあああああああああああ、兄さんがあああああああああッ!」
汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された汚された――。
声帯は一つじゃない。全身の至るところから、ドス黒い叫びが上がっていた。ぼこぼこと肉が膨らみ、縮み、また膨らみ。まるで次第に熱くなる海水の中で藻掻き苦しむクラゲのように、見るに堪えない暴走状態に陥った。
腹を貫かれたときですら、これほどの狂乱はなかった。香澄にとっては、透を「汚される」ことほど耐え難いことはないのだろう。なぜなら透を奪われるかもしれないという恐怖こそが、彼女が人間を殲滅しようとする動機の源泉なのだから。
彼女にとっては、魂にヒビを入れられたに等しい衝撃。
突然、透の身体が浮き上がった。
「えっ」
桜南に持ち上げられたのだと気付いたときには、すでに突風が鼓膜を叩いていた。目まぐるしく動く景色。その端で、いつの間にか狼に変わっていた桜南の姿と、赤い腕のようなものが形成されていくのがみえる。ない腕の方を、血液で固めた義手で補っているのか。
が、答えが出るより先に間合いに入った。
香澄の瞳が、一斉にこちらを向いた。
「キ、キキ、キサマアアアアッ! よくも、兄さんををををァあああああああああっ!」
膨らんで不安定になった腕が、こちらに向けられた。
が、桜南に避ける様子はない。
「バァカ」
彼女は、透を自分の身体の前に持ち上げた。
透は、驚愕のあまり声を上げることさえできなかった。盾にされた。まさか、桜南に。
香澄の動きが、一瞬止まった。
その一瞬で、よかったのだ。
香澄の身体が、後ろから貫かれた。
三本の赤い刃に。
「――ッ」
心臓の辺りだ。口から血を吐き散らしながら、香澄が振り返る。あの見えない攻撃で刃を破壊し、逃れようとしたのだろう。
だが、それすらも桜南は許さない。
――透を投げつけたのだ。
「――ぐっ!」
背中に走った衝撃に、透は唸り声をあげた。
何が起こった? 桜南の残像が右に消えようとしていた。背後にはよろめいた白い身体。怒りに満ちた複眼。そこに映る無数の透。怯えた顔をしている。膨らんだ腹。流れる赤い血。パンジーのような甘やかな香りと錆びた鉄のような臭い。宙に浮いたままの香澄の腕。三本の右腕。なにもできないのか。透が邪魔で。
桜南が、透を投げたのは――。
何かが、香澄の首を引き裂いた。
「――」
白かった。
空が。いや、違う。世界が。
あまりにも突然で。
あまりにも残酷で。
あまりにも現実味に欠け。
あまりにもあっさりと。
血が、噴き出した。
世界は、一瞬で赤に染め上げられた。透の顔に、ぬるく粘り気のある液体がかかり続けた。それは口の中に忍び込み、赤ん坊のミルクのような温感と暴力的なヘモグロビンの異臭を同時に味わわせる。酸化しきったワインはこんな味なんだろうかと、飲んだこともない酒の味を予想してしまうくらい、透は呆然と思考を浮かせていた。何も動けない。何も感じない。すべての情報が脳の中で停滞している。赤い。紅い。アカイ。でも空は白い。灰色? 白? 赤。
目が、滲みた。
目をこする。透はようやく我に返った。一呼吸にも満たない時間。情報の完結はゆるやかで。そして、酷薄な事実が突きつけられる。
香澄の頭が、転がっていた。
「うっ」
透が、叫びの門を開いた。
「うっ、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
絶叫。咆哮。叫声。悲鳴。大呼。叫泣。
空が、嘶いているかのように。
香澄の頭はグズグズに膨れていた。昆虫のような顔が一部分香澄に戻っていて、光のない瞳が透をじっと見詰めている。救いを求めるように。すがるように。泣いているように。
死んだのか?
死んだのか、あの
実感がない。あれが死ぬなんて、あり得るというのか。でも、首。首が切り落とされたのだ。首が切り落とされて死なない生物などいない。いや頭を叩き割られても死ななかっただろう。そんなやつが死ぬか? あり得るのか?
同じ感想をもった者が、居たようだ。
桜南が、香澄の頭に赤い長刀を突き刺した。ごすっ、という音が響いた。まるで、魚の骨を出刃包丁で切り落としたときのような、生命を決定的に破壊する音。
それが、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――。
桜南は、刺しながら、笑いながら、人間の顔に戻りながら言った。
罵り続けた。
「経験が足りないんだよっ、阿婆擦れっ! 私とお前じゃっ、人を殺してきた数も、戦闘のキャリアも、違いすぎるのっ! 自信が、ありすぎなんだよっ! 自分の、力にっ! だから、油断したんだろが! 初心者みたいに大駒ばかり飛ばしているから、周りが見えなくなったんだ! ははっ、アホめ! 卑しい雌猫め! なぜ、透くんを利用されるかもしれないって、発想が、なかったんだっ! あんたっ、天才なんだろうがっ! しょせん、机の上だけってことね! 卑しい雌猫が、卑しい雌猫が卑しい雌猫が卑しい雌猫が卑しい雌猫が――! よくも透くんを! 私の透くんを、好き勝手に扱いやがって! 弄びやがって! 死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」
もはや、原型すらわからなくなるほどに。桜南は香澄の頭を刺し続け、脳漿と肉と血を余すことなく撒き散らし、ミンチ肉を作り上げた。
異様な光景。
異様すぎる光景。
透はまるでついていけない。妹が無惨な姿に変えられ続けているというのに、動けない。身体が、金縛りにあったように自由が効かなかった。
それは、もう刺すところが無くなったのではないかと思えるところまで続いた。
桜南が肩で息をしている。血まみれの汗まみれになりながら、彼女は長刀を潰れた肉塊から引き抜き、冷たい眼差しでしばらく見下ろしていた。
風が、吹いていた。微風だった。耐え難い腐臭と血反吐の臭いを、どこにも運んではくれない。
「……」
息を落ち着かせた桜南が、ぐるりと周りを見渡した。
「……消えない」
何が、とは聞けない。桜南の表情が、だんだんと険しくなっていく。
銀の瞳が、こちらを射すくめんばかりに見つめた。透の背中に寒気が走るほど、その視線には殺意のような悪感情の塊が込められている。
だが、彼女は透を睨んでいるわけではなかった。正確にいうなら、その後ろにある香澄の身体を睨みつけていたのだ。
腹部の膨らみを。
「……それ、なに?」桜南は、ゆらりと長刀の切っ先を向けて言った。「さっきから気になっていたのだけど、そいつ、そんなに太っていたっけ?」
「い、いや」
恐怖のあまり声が上擦る。
答えられるわけがない。答えたくもない。自分と香澄の過ちが作り上げた赤子などとは。
「……透くん。答えられないんでしょ? 私はね、あなたのことはよぉく知っているの。あなたがどんなときに笑って、どんなときに怒って、どんなときに悲しむか。そして、どんなときにそうやって目を逸らすのかも」
くつくつと、くつくつと、不気味な笑いを上げる桜南の瞳には、曇天すらも飲み込まれるほどの深い闇が生じていた。硫化水素によって変色を遂げた銀のように、ドス黒い。
「それさあ。それ、まさかだけど……」
――透くんと、そいつの子供じゃないよね?
確信を突かれ、透はまた目を逸らした。
狂わんばかりの、狼の遠吠えのごとき哄笑があがった。
「――ふざけやがって。ふざけやがって、阿婆擦れめ! どこまで透くんの魂を汚せば気が済むのよ。汚らわしい、嫌らしい、不潔、不潔不潔不潔不潔不潔不潔だわっ!」
剣の切っ先が、怒りに震えていた。
透は、これほどまでに怒り狂う桜南を見たことがなかった。さっきからの生死のやり取りでアドレナリンが出すぎているのか、それとも香澄のしたことが、それだけ彼女の逆鱗に触れるようなことだったのか。もしくは、その両方か。
桜南は、大人しい性格というほどでもないが、静かな方だ。二年近く一緒にいて、一度も声を荒らげるところを見たことがない。いつもニヒルに笑って、穏やかにひょうひょうと透をからかってくる。そんなやつなのだ。
しかし、いまの桜南は透の知っている彼女ではなかった。明らかに冷静ではない。怒りに囚われ、我を失っているようですらある。
桜南は、言った。
「わかった。そいつね。そいつが諸悪の根源なのね。そいつを消さないと、何も解決しない」
桜南は香澄の肉片を踏みつけ、剣を構えた。
「――消毒、しないと」
桜南は飛ぶような勢いで、香澄の身体めがけて突進する。長刀を大上段に振りかぶり、空気を破らんばかりに神速で振り下ろした。
だが、そこで有り得ない事態が起こった。
剣が、途中で止まったのだ。
「は?」
桜南が、思わず声をこぼした。
一瞬、透は桜南が思いとどまって剣を止めたのかと思った。なぜなら、何もないところで、中空で、剣が停止していたからだ。
だが、様子がおかしい。
桜南のあの表情。明らかに、自ずから斬るのをやめたという感じではない。果たされるはずの目的が、わけのわからないトラブルで中断されて、困惑しきっているという状態にみえる。それが証拠に、桜南はさらに踏み込み、力を込めていた。
しかし、まったく微動だにしない。
剣は、なにか見えない力で押さえられたかのように動かなかった。
その瞬間、透は見た。
最初の不意打ちで香澄の腹に空いた穴。
そこから覗いた、小さく柔らかそうな手を――。
全身が、総毛立った。
身体中の細胞が恐怖という大寒波で震え始めたかのようだった。そこに込められた殺気は並大抵のものではなかった。化け物になったときの香澄をはるかに凌駕する、圧倒的すぎる絶対的な絶望。すべての人間が、すべての生物が、それを見たら必ず震撼し、必ず動けなくなると、確信をもって宣言できるほどに、異常すぎる存在感。
あれは、まずい。
出てきてはいけない。
「銀城っ!」
半ば泣くように叫んだ。だが、透がそうするまでもなく、怒りが露と消えた桜南は、必死の形相で後ろに飛び上がった。
しかし、遅すぎた。
桜南の身体は、宙に止められた。絶対に有り得ないタイミングで、動画の一時停止を押したかのように、急に止まったのだ。
小さな手が、揺れていた。無邪気に。まるで目の前の親に手を振るように。
それは、拳を握った。
その瞬間、香澄の身体から夥しい量の手が伸びた。まるで、地獄の亡者たちが天上の釈迦に救いを求めるかのごとく。その手の軍勢は、飛び抜けた悪意と殺意を伴って、桜南へと襲いかかった。
桜南の悲鳴があがった。
手が彼女の身体の至るところに絡みつき、万力を込めて彼女の圧殺を試みていた。骨が折れ、砕ける音が、桜南の絶叫をテノールに、異様な合唱となって響き渡り始めた。
首を振り回し、口から血と泡を飛ばしながら悶絶する桜南を、透は呆然と見つめることしかできなかった。
あれは、なんだ。なんなのだ。
あれが、香澄が産もうとした赤ん坊だとでもいうのか?
――自分の、子供だと。
「……めろ」
透は、震える口を必死に動かす。
口を動かさなければ、この狂気と恐怖に耐えられそうになかったから。
「やめろ! やめてくれ、澄空!」
小さな手の動きが、止まった。
名前を呼んでしまった後悔は、一瞬で霧散した。手の軍勢が万力の締付けから桜南を解放する。彼女の身体が、鈍い音をたてて地面へと落ちた。
駆け寄る余裕はなかった。そもそもその脚が透にはない。ただ、動きを止めた小さな手を、畏怖の感情をもって見つめることしかできない。
小さな手が、こちらに向いた。
――おと、さん。
声が、頭に響いてきた。音は鼓膜と中耳を通過していない。直接、知覚に訴えかけてくるようだった。
その声は香澄に似ているようで、透にも似ているような、独特の気色悪さがあった。
それは、続けた。
――まだ、はやい、よ。おかあ、さん……起さ、なきゃ。
「……起こす、だと?」
その疑問に、答えは返ってこなかった。
香澄の身体から生えた無数の腕が、一挙に収束して形を変えた。四本の巨大な腕となり、四足獣のような形態と体勢になって、首のない香澄の身体を動かしたのだ。
呆然とする他ない。
香澄の身体が飛び上がった。巨大な腕が、崩れたビルの壁を掴んで、器用に登っていく。そして頂上に登ったとき、香澄の身体から目を疑うようなものが形成されているのが見えてしまった。
無くなったはずの、粉々に砕かれたはずの香澄の頭が、ゆっくりと生えてきていたのだ。それは、マウスの身体から人間の耳を精製した細胞実験を想起させる、狂気にも似た現象だった。重たい何かが、身体にのしかかる。
もはや、神の領域だ。
人間が踏み込んでいい、場所ではない。
――お、とさん。
最後に、声を響かせた。
――また、ね。
香澄の身体は、ビルの影へと消えていった。
「……」
透は、しばしその姿を見送った。否、魂が抜けたように動くことができなかったのだ。
なにかが這う、音がした。それでようやく我に返った。
「銀城……!」
透は彼女の元に行こうと、歯を食いしばって匍匐前進をした。それしか、動く手段がなかった。
牛歩と呼ぶにも頼りない速度で、透と桜南はお互いに近づいていく。桜南からは、血が尾を引いていた。満身創痍という言葉を数十回繰り返しても足りないほど、全身がグチャグチャになっているのだろう。左肩と左腕を破壊され、横腹を抉られ、身体中の骨を砕かれたのだ。これで動けている方が、おかしいくらいだった。
桜南の目は、淀んでいた。
透が間近に迫り、彼女に再び声をかけようとしたときだった。
視界が、急激に歪んでいく。
なぜ?
その疑問は、次第に深まっていく闇で閉ざされていく。意識が、意思が、気力が、限界を迎えたというのか――。
遠ざかる世界の端に、ブラックナイトが座っていた。
彼は、愉快げに言った。
――なぁ、坊や。オモシレェことになってただろう?
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