第三章 一





 ボードゲーム部。


 どうして、そんな部活に入ることになったのだったか。


 空手と柔道を習い事でやっていた透は、中学校のときから部活はしていなかったし、高校に入学してもそれは変わらないはずだった。


 だが、一学期の中頃。クラスのグループが完全に固まり、みんなの制服姿が様になってきたころのこと。透は、ボードゲーム部の入部届けを書くことになったのだ。


 転校生の出現から、そう日が経たないうちに。


 銀城桜南。


 名前からしてすでに秀麗な、芸術という概念をまとう少女。彼女は、香澄にも引けを取らない整然とした容姿でありながら、誰とも馴染もうとせず、教室でいつも石のように口を閉ざし、本ばかりを読んでいた。


 転校初日はそれこそ人集りができていたが、数日もすれば無愛想な彼女に呆れたのか、誰も彼女には話しかけなくなっていた。


 透は、そんな彼女と隣の席だった。


 変わった女だな、と思っていた。こんなにも美人なのに、こんなにも不器用なんて。香澄と同じく、人に対して心を閉ざしているのだろうか。もし妹に器用さがなかったら、こんな感じになっていたかもしれないな。


 そんなことを考えてしまうと、どうしても妹の姿と重なってしまい、放っておけなくなった。生来のお節介な部分が出てしまって、透はことあるごとに桜南へと話しかけるようになっていた。


 彼女は、最初こそ地蔵のように黙り込んでいたが、透が諦めずに挨拶や会話を続けると、少しずつ少しずつ口を開いてくれるようになっていった。


 話していくうちに、色々とわかってきた。純文学が好きなこと。とくに太宰作品を愛読していること。アクション映画が好きで、ジャッキー・チェンの映画のファンであること、最近はKingGnuの曲にハマっていること、好きなお菓子は雪見だいふくで、週一回かならず食べていることなど。意外にも、というか驚くほど、透と好きなものが共通していた。さらに驚いたのが、彼女がブラックナイトシリーズをすべて視聴済みなほど熱烈なファンだったことだった。


 透は、一気に彼女にシンパシーを抱いた。好感を持ったのだ。最初はお節介のつもりが、だんだんと彼女と話をするのが楽しみになっている自分がいた。


 周囲は、透と桜南の関係の変化に驚いていたようだった。親友の茶川充に「姫を狙ってんのか?」とからかわれるくらいになると、透たちの関係を勘ぐる声が聞こえるようになってきた。


 そのくらいのときだった。


 桜南が、ボードゲーム部に透を誘ってきたのは。


「ゲームをしようよ」


 彼女は、そう言って入部届けを押し付けてきた。


「そのついでに、あなたとの会話を楽しみたい。ブラックナイトファン同士、まだまだ語りたいこともたくさんあるからね。でも、教室は騒がしくなってきたからさ、あなたとゆっくり話したくても中々難しい。……言いたいことは、わかるよね?」


「……まあ」透は頭を掻いて、言った。「ようは、周りから変な目で見られたり勘ぐられたりするのが嫌なんだろう? 気持ちはわかるよ」


「そうさ。うるさいのは嫌いだから」


「……気にしすぎな気もするけどな」


「そうも言ってられない。おっかないやつに目をつけられたくはないからね、私も」


「……おっかない?」


 なんでもないよ、と桜南は肩を竦めた。


「まあ、そういうわけで。今後は教室で喋るのはよしておこう。今なら引いてもそんなに違和感を持たれないだろうしね。数日話題にはなるだろうが、人の関心なんてものはすぐに移ろう。私はまた地蔵に戻るとするよ」


「お前がそれでいいならいいけど」釈然としないながら、透は同意する。「でも、俺、空手と柔道でなかなか来れないぞ? 週に三日から四日は練習に行っているし」


「いいよ、それで。私はたまにでもあなたとゲームが出来ればいい」


「……わかった」


 透は溜息をついて、入部届けを受け取ることになったが、内心では悪くない提案だと思っていた。


 この頃、透は家庭内でいろいろと面倒を抱えていたからだ。いけ好かない父親との確執が深まったこともあるし、家の人間たちが、いつまで経っても凡庸な学力しか示せない透のことを白い目で見る向きもあったからだ。ようは、家にいるのが苦痛になっていた時期だ。しかし、異色家という名門に生まれた以上、グレて非行に走るなんて真似もできなかった。そんなことになってしまえば、香澄の顔に泥を塗ることにもなりかねない。


 様々なしがらみに囚われていた透にとっては、渡りに船ではあった。


 部活は口実になる。それに、体力も気力も使わなさそうなボードゲーム部なら、習い事にもさして影響は出ないだろう。


「よろしくね、透くん」


 桜南の微笑に、ほんの少しの罪悪感を覚えながら。


 様々な打算を内包しつつ、二人だけのボードゲーム部はこうしてスタートした。







 あの頃の輝きは、もう、死んだ。


 ヘドロの中からゆっくり浮上するように、透の意識は少しずつ覚醒していく。


 ヒビ割れた天井だった。ところどころに黒いシミのようなものが見える。剥き出しのコンクリート。蛇のように伸びる水道管。


 どこかの、地下駐車場だった。ところどころに停まった車とバイク。その影に隠れるようにして、透は横になっていた。


「……お目覚め?」


 苦しげで、息のこもった声。


 銀城桜南の声だ。


「……銀城」


 透は、桜南の姿を見つけて絶句した。


 生きているとは到底思えない姿だったから。


 桜南は服を着ていなかったが、そんな些細なことは透の意識にすらのぼらない。まるで腐りきったパンのようだと思った。全身のいたる所が紫色の痣で支配され、ところどころ腫れあがっている。無数のミミズ腫れが、桜南の身体を這い登り、食い散らかそうとしているようにすら見えたほどだ。浅くえぐれた腹部からは、血のまとわりついた白い骨が薄っすらと覗いている。左腕。なくなったはずのそこは、肉が膨れて盛り上がっていた。


 桜南は、うっすらと笑った。片目が潰れた、傷だらけの顔で。ニヒルな笑みを意識したのだろうが、そこには無理しかなかった。


「……ごめんね、あんまり遠くには行けなかったよ。全身の骨がやられているからさ、ここが限界だったね」


「お前……大丈夫なのか?」


「なんとか生きているよ。そのおかげで、あなたとこうして、会話を楽しめる。ここに……」桜南は言葉を詰まらせ、顔をしかめた。だがすぐに笑顔をつくろう。「ここに、ボードゲームがあれば、最高だったんだがね」


「軽口言ってる場合かよ! はやく救急車を呼ばないと」


 言いながら、はっとする。


 自分の脚を見た。ない。救急車なんて来るわけがない。


「……お生憎。どこの病院も、臨時休業中だよ」


「……」


 透は歯噛みして俯いた。


「でも、このままじゃお前」


「大丈夫」


 水面に起こる波紋が、かならず沈静化していくように。この静寂で発せられた一言は、確信を伴って透の耳朶を打った。


 鈴のように美しい声音は、しかし悲しげにも響き。諦めたように、桜南ははにかむ。


「私は死なないよ。この程度ではね、私達『殺意』は死ねないんだ。脳味噌を破壊されない限りは、生きていられる。それにほら」


 桜南は銀色の瞳をなくなった左腕へ移した。断面の肉が、ほんのわずかだが律動し、イースト菌のはたらきで膨れ上がる生地のごとく、ちょっとずつ大きくなっているのが見える。よく見ると、他の部分も。ゆっくりとゆっくりと傷口が癒着しているようだった。


 ゲームや漫画でしか見たことがない光景に、透は唖然とする他なかった。しかし、幻想とは違って、あまりにも現実は肉感的で血生臭い。


「少しずつだけど治ってきている。私は再生が遅い方らしいから、時間はかかるんだけど。体感ではあと二日かな」


「二日だって?」


 オウム返しをする他ない。


 死ぬ寸前にしかみえないほどの重症が、二日で完治する? 実際に再生しているところを見せられたって、そんなことは信じられない。


 透の呆けた表情を見て、桜南の瞳は仄暗い闇に沈む。


「もう、人間じゃないからね」


 その言葉は、透の臓腑の底の底まで染み渡った。水のような清廉さは欠片もない、重油のような重さと粘り気を伴って。


 桜南の変身した姿が、頭に浮かぶ。すると連鎖爆破を起こしたかのように、街を蹂躙する化け物たちが、神聖にして醜悪な香澄の姿が、香澄の腹から突き出た小さな白い手が、映像となって溢れ出てくる。


 彼女は、彼女たちは、人間という文脈で語られる存在ではない。


 では、彼女たちを定義する物差しとは何なのか。


 その名を、桜南は知っているのか?


 同じ、「怪物」として。


「……知りたい?」


 透の心を読んだように。質問に答えられない生徒を労る教師のごとき優しさで、桜南の言葉が紡がれた。


「……あぁ」


 知りたいに決まっている。


 透は、何も、何一つ、一切合切理解できないまま、この地獄に放り込まれたも同然で。地図もコンパスも持たないまま、焼け付くような激痛を与え続ける砂地の中に愕然と佇むことしかできなかったのだ。


 せめて、地図とコンパスくらいは欲しかった。


 しかし――。


「……でも、その前に訊いていいか?」


「なに?」


 透は、目を細める。ボロボロの桜南を、香澄という悪魔から開放してくれた恩人を、そんな目で見るべきではないと思いながらも。


「お前は、俺の味方なのか?」


 どうしても、声が震える。


 勝つために、香澄の急所を抉るために、容赦なく嘘をつき、口吻をしてきた桜南。挙げ句には透の身体を盾にするほど、彼女は手段を選ばなかった。


 透の知っている桜南の姿。ときに彫像のように物を言わず、ときに驚くほどにおどけて饒舌になる。二律背反の仮面を持ち合わせる、掴みどころのない少女。だが、その仮面は、果たして一つなのか? 透が知らないだけで、二つどころではない仮面を、彼女は隠しているのではないか?


 化け物の仮面を、もっていたように。


 透は彼女を信ずるに値するかどうかを迷っていた。


 ……いや、違う。


 本当は、ただ……言葉が欲しいだけ。


「当たり前だ」


 その声には、凛とした力強さが込められていた。透の心に落ちて、波紋をつくるほどに。


「私があなたの味方じゃないなら、あのときキスなんてしていない」


 それは言外に、敵ならば殺していたと言っているに等しく。事実、透を殺していたほうが、「二人だけの世界を創る」という香澄の願望、その大前提を破壊できていた分、より深い心理的なダメージを与えることができていたはずで。


 だからこそ、殺さなかったのは何よりの味方の証拠なのだと、桜南は伝えているのだ。


「私があなたの敵に回るなんてありえないよ。それは一番、あなたが分かっていると思っていたのだけど」


「……あれ?」


 透の目から、何かがポロポロと溢れだした。


 自分の情緒がわからない。どうして、こんなにも急に……。


 桜南は、静かに見つめていた。涙で歪んだ視界でも、その冷たくも静謐な優しさを感じ取ることができた。


 とまらない。


 涙が、言葉が、溢れてくる。


「香澄が、俺を……俺を閉じ込めて、光もないところで……ずっと苦しかったんだ。気に入らないことがあると、電気を流されて。無理やり、気持ち悪い、あんなことを……」


 嗚咽混じりに述べられるのは、透のキャパシティを超えた数々の絶望だった。あまりにも膨大すぎたそれは、目まぐるしく変わる事態の中で処理をする暇など与えられず、透の中でパンク寸前に膨張していた。


 それがすべて決壊し、慟哭となって暴れ出した。


「あんなことをするやつじゃ、なかったんだ。香澄は、あんなやつじゃない。今でも、信じたくなんてないんだ。あいつが、誰よりも神様から愛されていたはずのあいつが、あんな下らない理由で、取り返しのつかないことをするなんて!」


「……知っているんだね。彼女がすべての元凶なんだと」


 透は、頷いた。


「なんでなんだ。なんでこんな……あいつが、香澄が……自慢の妹、だったのに。俺の脚までぐちゃぐちゃにして……。わけわからねぇよ! なんでこんなことになったんだよっ!?」


 拳を握りしめる。監禁生活で伸びきった爪は、透の手のひらに深々と食い込み、血を溢れさせた。だが、どうしようもない怒りと悲しみは、そんなささやかな痛みすら帳消しにしてしまう。


 さめざめと泣いた。友達の前で、恥も外聞もなく感情を発露させた。胸が痛い。苦しい。呼吸が詰まる。


 どれくらいの時間、泣き叫んだろう。


 俯いていた透は、ゆっくりと涙で歪んだ顔を上げる。


「……銀城」


 血走った目を、桜南へと向けた。


「……教えてくれ。なんなんだよこれは? いったい、なにが、起きているんだ? どうしてあんな化け物みたいなやつらがいるんだよ……」


「……」


「頼むから、教えてくれ」


「……分かっているよ」


 桜南は、ゆっくりと息を吐く。


 まるで、何かの覚悟を決めたかのように。


「ただね、透くん。話す前に言っておくわ。これから私がする話は、けっしてあなたが抱えるわだかまりや不安を解消するものにはならないから。むしろ、君を深く傷つけることになるかもしれない。あなたが知るのはね、あなたにとっても残酷な事実だから」


 桜南は言葉を区切り、鋭い視線を返してきた。


「この絶望に底はない。――それでも、いいの?」


 一瞬、その迫力に呑まれそうになりながら。それでも透は、力強く首肯した。


「わかった。じゃあ、教えてあげる」


 傷だらけの桜南は天井を見つめる。


 しばし、そうしていた。


 何かを考え込むように、何かを後悔しているかのように。そして、何かを怖れているかのように。


 銀色の瞳がふたたびこちらに向けられたときには、感情は消えていた。



「『殺意』」



 桜南は、短く言い切った。


「それが、私達の呼び名。街をうろつくあの化け物たちも、異色香澄も、そして私も。残念なことに同類なの」


「……」


「『殺意』はね、文字通り人間の殺人欲求や殺人へ至る意思から生まれるの。そして、彼らは私達とは違う次元に存在し、私達人間に影響を及ぼし続けてきた」


「……影響?」


「世の殺人の大半、ほとんどすべては『殺意』の影響によって起こるのよ。彼らのいる次元……平行世界は、人間の心に繋がっている。彼らは意識するにせよ無意識にせよ、その繋がりから人間の心に干渉して、殺人を実行させるの。……魔が差すって言葉があるでしょう?」


「その『魔』だと言いたいのか?」


「そのとおり。こと殺人においてだけだけど」


「……なんのために、そんなことをするんだよ?」


「『殺意』が生まれてくるプロセスを考えればわかるよ。殺人における欲求や感情から彼らが生まれてくるとするなら、それが存在理由と生存基盤になっていても何もおかしいことではないだろう? 霞を食って生きる仙人ではないけどね、彼らのエサなんだよ。殺人者の思考と想いは」


「……ふざけんなよ」


 透は思わずつぶやいてしまった。頭によぎったのは母親の笑顔だった。


 桜南の言葉は嘘ではない。突拍子もない話には違いないが、これまで見てきたすべてが、桜南の説明に説得力を与えている。なにせ、桜南自身があの化け物でもあるのだから。


 ならば、母さんを殺したのは――。


「あなたの母親のこと?」


「え?」


 心を読んでいるとしか思えない桜南の発言に、透は面食らった。


 それに、桜南には母親が強盗に殺されたことは言っていないはずなのに。


「……なんでそのことを」


「悪いけど、話を先に続けてもいいかな? 私がそのことを知っている理由は、あとでわかるから」


「……あ、ああ」


 透は釈然としない気持ちに蓋をして、続きを促した。


「『殺意』はね、ずっとその平行世界にいるの。何千年も何万年も昔から。集団や文明のプロセスが成立していく中で、人間の欲求は当然複雑なものへと変化していく。その過程で、足並みを揃えるように彼らは生まれ、進化していった。だけどね、いかに進化していこうと、彼らはその平行世界から外には出られなかった」


「え?」


「せいぜいが、人間の心に干渉するくらいで。まれに人間の心を通して現実世界に出た『殺意』もいるにはいるけどね。それが、様々な怪異や伝承の怪物の元になっているとも言われているわ」


「ちょっと待ってくれ」


 話の腰を折ってしまった。


 だが、桜南の表情は変わらない。強いて言うなら眉を少し下げている程度で、責める様子はない。透の頭に浮かんだ疑問が、当然のものだと彼女も認識しているからだろう。


「……あの化け物たちが、外に出られないだって? なら、どうして街の中にあいつらはいるんだよ。おかしいじゃないか」


「そう思うでしょう? でもね、あの化け物たちが自分たちの世界から外に出たのではなくて」


 桜南は、言葉を切って続けた。


「この世界そのものが、その平行世界と繋がってしまったんだとしたら、どうだろうね。水と油が、油と油になって境界線をなくしてしまった。――そうなったら『外』なんて概念は消えるよね?」


「……」


 言葉を失ってしまう。


 スケールが大き過ぎて、ついていけないと思った。だが、ついていかなければならないのだ。そうしないと、今何が起こっているのか、その本質を見落としてしまうような気さえしたから。


「……だから、あいつらは街にいるんだな」


「ええ」


「……それじゃあ、なんでそんなことになったんだ? 鍵が閉まっていて扉が開けられなかったんだとしたら、鍵をつかってそれを開けたやつがいるって、ことなんじゃないか?」


 言いながら、はっとした。


「鋭いね」桜南の目は、冷却した水銀のように相変わらず冷たい。「それをやったのが、異色香澄なんだよ」


「……あいつ」


 恐怖と怒りが、同時に湧き上がってくる。わかっていたことだ。その確認に近い気づきなのに、それでも鳥肌が立つのを抑えられない。


 香澄は言っていた。


 召喚したのだと。


 あの妹は、絶対に交わらないはずの世界を、そのうちの地獄にも等しい異界そのものを、呼び寄せたのだ。


 たった一人のエゴによって、水が油へと変えられた。


 戦慄する他、ないだろう。


「……まあ、彼女だけではないけどね」


 ぽそり、と桜南はこぼした。透が疑問を差し挟む前に、説明を続ける。


「二つの世界が交わり、化け物たちが現れて人間を蹂躙する。彼らはね、殺しの権化だ。今まで回りくどい手段でしか関われなかった殺人に、自分たちが直接関われるようになる。嬉々として人間を殺しまくるよ。それは、あなたも見てきたとおりだ」


「……ああ」


「この現象には、名前があるんだ」


 ごう、という音が駐車場を這い回った。どこからか入ってきた風が、パイプを揺らしたのか。不吉な音を立てながら、通り過ぎていく。


「――『みなごろし』というんだ。『殺意の王』誕生によって起こる、世界の融合と人間の大量虐殺。私達は、いま、その途上の中に当事者として立ち会っているんだよ」


「……」


 その現象の名は、あまりにも端的で。あまりにもわかりやすい響きだった。


 そしてだからこそ、何よりも残酷な言葉でもある。その現象の不穏すぎる音色は、今まで浮かぶことがなかった、しかし何よりも考えねばならないはずの、当然の疑問を手繰り寄せた。


「……みんなは?」


「……」


「みんなは、どうなったんだ? 充は? 亜加子は? 兼貴兄は? 美玖は? 学校のみんなは……どうなったんだよ」


「透くん」


 その声は、けっして強いものではない。


 なのに、透の細胞の奥の奥まで冷たく響くほどに、理解を促す力強さがあった。


 それ以上先を言わせるんじゃないと、言っているのだ。


 口を噤むほか、ないだろう。


「……」


 涙は、流れなかった。枯れるほどに泣いたからか、それとも感情が受け入れられないのか。事故で身内を失った直後のような現実感のなさが、透の心を麻痺させていた。


 みんな、殺された。


 その事実を、咀嚼などできるわけがない。


「……慰めになるかわからないけど。おそらくあなたの従兄妹は無事よ。緑川兼貴が、こうなる前に飯沢市から逃していたようだから。たぶん、まだ、『鏖』には巻き込まれていない」


「……」


 安堵をするのすら、不誠実と感じてしまう。沈む泥船から一人が助かったとして、それを喜ぶのは当たり前のことではあるだろう。だが、その他の人間はみんな死んだ。沈んでしまったのだ。


 透は、唇を噛みしめる。


 浮かびそうになる様々な顔や思い出に、必死に蓋をしようとして。でも、できるわけがなくて。麻痺したはずの感情が徐々に徐々に揺れ動くことを感じながら、それでも彼は涙を流せないでいた。


 揺れ動く感情の中で、一番最初に飛び出したのは怒りだったから。


「……許さない」


「……」


「俺は、香澄を、あいつらを、決して許さない。俺から大切なものを奪ったあいつらは、絶対に」


 拳は血まみれだった。それでも彼は握ることをやめられない。


「……もし、俺に力があったなら」


 透は自分の脚を、不自然なほどに傷が治った患部を睨みながら、吐き捨てるように言った。


「全員、ぶち殺してやる」


 

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