第一章 四
もはや枯れ果てた。
気力は、ない。
息をするのも重く苦しいほどに、なにもかもが億劫に感じる。
透は朽木のように横たわり、ただただ腐るのを待つだけの存在になろうとしていた。たまに妹が、身体を触ったり気色の悪い柔らかなものを押し付けてきたりしてきたが、それにすら反応をしようとはしなかった。髪切虫の幼虫に身体を食われようと、崩れた幹が抵抗しないのと同じことだ。
捕食者は、それがつまらなかったのだろう。
日に日に、彼女のスキンシップは激しさを増していった。宿ってしまった過ちに対する気遣いをしつつも、ゆっくりと粘っこく骨までしゃぶり尽くそうとするばかりに、身体をまとわりつかせ、密のごとき唾液を交わし、なんとか透の反応を引き出そうとしていた。
が、彼女が必死になればなるほど、透は心を闇へと追いやった。何も感じたくなかった。考えたくなかった。身体だけでなく、心すらも不自由にしてしまったが、彼にとってはそうすることが唯一の逃避になり得たのだ。ある意味では、それが彼にとっての最後の抵抗と言えただろう。
業を煮やした香澄は、ついにスタンガンを取り出した。
透が微かに恐怖を表情に出したのをみて、さらに逆上したのだろう、涙を流しながら睨んできた。
「酷い。私のスキンシップより、これの方がそんなに良いんですか?」
香澄は、透の身体にスタンガンを押し付けた。
電流が、爆ぜた。視界が真っ白にそまり、全身が焼かれたような強烈な痛みが襲いかかってくる。身体は勝手に痙攣し、「あぁぁぁっ」という声が勝手に零れ出てきた。意識は断続的に遠くなり、意識が点滅を繰り返しても、電流は止まらない。
香澄が、止めない。
「酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷いヒドイヒドイヒドイ。私だって、恥ずかしいのに。兄さんに喜んでもらおうと頑張っているんですよ? どうして、どうしてなんですか? そんなに私が妊娠したのが嫌だったんですか? 兄さんが押し倒して私を犯したくせに。そんなのあんまりです。あんまりですよ。この子が可哀想だと思わないんですか? 私を幸せにしてくれるんじゃなかったんですか? ねえ、何とか言ってくださいよ。ねえ、黙ってないで、逃げないで、向きあってくださいよ。兄さん、兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん」
言葉による感情の暴発は、そのまま電流による激痛へと変換されているかのようだった。
痛みのあまり、痙攣を通り越し、身体が勝手に飛び上がり出した。無意識に逃げようとしているのだろうが、手足に縛り付けられたロープがそれを許さない。
透が鼻血を流し、口から泡を吹き出し、目玉が飛び出そうになり、小水を撒き散らしたところで、ようやく終わった。
湯気が、出ていた。
痛みは、余韻と呼ぶにはあまりにも強く残っていた。空気抵抗を受けないピンボールのように何度も何度も身体の内側をバウンドしている。
息を切らしながら、香澄は言った。
「……逃げることは許しませんから。兄さんが向き合ってくれるまで、ずっと痛みを与え続けます。仕方ないですよね。あれだけ尽くしてやっても、目を瞑ったままなんですもの」
兄さんが悪いんです。
香澄の言葉が、痛みの地獄の中で残響する。
透は、思った。
悪いのは俺なのか。香澄じゃなく俺なんだろうか。この現実に向き合うことなんてできるわけがないじゃないか。そうだろう? イカれている。でも妹を孕ませたのは誰だろうな。俺じゃないか。俺なんだよな。おかしいよな。笑えるよな。どうしてこんなことになったんだろうな。薬を盛られたなんて確証はないんだ。だから俺が性欲に狂っただけなのかもしれない。イカれたんだ。あのとき、ネジが飛んだ。間違いないんだ。普通じゃなかったんだ。妹なんだぜ? 妹相手にアクセルがかかることなんてないだろう。でもアクセルを踏んだ。事故を起こしておいて、「アクセルが壊れていました」は言い訳にもならないよな。
悪いのは、俺か。
安易で短絡的な狂気に囚われた結論。責任の所在は曖昧に狂わされていた。透は現実に向き合おうとしているわけじゃない。自罰的な感傷に浸ることでさらに現実から逃れようとしていた。甘い、リストカットのように甘い感傷に。
罰は、続いた。
香澄の予告通り、透が「向き合う」まで続くのだろう。香澄はけっして自分の宣言を曲げるような子ではない。やると決めたら、どこまでも冷酷になれる。数日前まで自宅で可愛がっていたハツカネズミを実験で容赦なく殺したように。透にも罰を与え続ける。
痛みのない日なんてなかった。
それでも香澄の望み通りには動かなかった。悪いのは自分だと思っているのに、宿した命について考えたくはなかったのだ。認知をするくらいなら電流の方がいいとさえ思えるほどだ。恐怖はもちろんある。恐怖しかない。が、それでよかった。
たとえ、パブロフの犬みたいになろうとも。
小便を垂れ流すだけの存在になろうとも。
透は、子供と向き合うつもりなんてなかった。
「……」
もう何日目になるか分からないオシオキが終わったあと、透は一人になっていた。
香澄は、またどこかに食材を取りにいったようだ。なんの肉かすら分からない肉。肉ばかりだ。監禁されて最初の頃に食べていた缶詰が懐かしく感じるほど、肉しか食べていない。
もう、どうでもいいことだが。
ここに至って、中華マンを食べたいとかプリンを食べたいとか、そんな些細な夢さえ見なくなっていた。無期懲役の受刑者にも似た心境か。終わらないからどうでもいいと投げやりになっているのだ。
香澄は、そう遠くないうちに出ることができると言っていたが、透はそう思えなくなっていた。
いつまでも来ない助け。いつまでも続く狂気と痛み。すべてから見放されたかのような孤独感と絶望が、いつか終わるかもしれないという輪郭のない期待さえ打ち砕いていた。
ここは、絶望の極地。
透の心は、壊れていた。
「……」
ロウソクの火が揺れている。
このままあれが倒れて、この部屋ごと燃えてくれないだろうか?
いっそのこと炎に包まれて灰になってしまいたい。
そんなことばかりが、透の頭には浮かんでくる。
ふと、黒い靄が見えた。周囲の仄暗い闇よりも濃い色の靄だ。いや、人影だ。透が知っている影だった。
頼りにならないヒーローだ。
「……ブラックナイトか」
透は、掠れた声を出す。
「……何しに来たよ。助けてくれないくせに。あんた、本当にヒーローかよ」
嫌味を言ってやる。
どうせ返事なんてないのだから、悪態の一つや二つ言ったところでバチは当たらない。
そう、思っていた。
――助けてやろうか?
透は、目を見開いた。
「……え?」
――助けてやろうかって言ったんだよ、坊や。
「……ブラックナイト?」
聞き間違いだろうか?
たしかに声がした。いつもは返事なんてしないで、じっと見ているだけなのに。
唖然とする透の顔が間抜けだと言わんばかりに、ブラックナイトは嗤った。
――お前の目には、オレがそう視えているのか。けははっ、つくづくお目出度い坊やだ。
透は、言葉を発することができなかった。
ブラックナイトの輪郭が鮮明なものになっていた。たしかにそれは、ブラックナイトの形をしている。だが、根本的に何かが違う。ブラックナイトは、本来もっとメタリックな印象だ。なのに、生物的だと感じるほどにしっかりと肉がある。顔つきも違う。プレートアーマーにデザインの着想を得ているから、顔はフルフェイスの兜に似た形状をしているのだが、目のようなものと牙が見える。
あれは、なんだ。
ついに、ブラックナイトの姿を見間違えるほどに狂ってしまったというのだろうか。
「……誰だよ、お前」
――オレは、お前だよ。
ブラックナイトの答えは、理解できないものだった。困惑する透を構うことなど一切なく、ブラックナイトは続けた。
――オレはお前だ。分かんないなら、とりあえずそう思っときゃいいんだよ。そんなことより、坊やよォ。こっから出たいんだろう?
「……出たいけど」
透の答えは、ほとんど反射に近かった。
この状況に、頭がまるで追いついていない。
――けははっ、正直でヨロシイ。オレもそろそろお前さんの痴態を見飽きたところだ。外に出した方が、絶対におもしれえしな。
「……何いってんだ?」
――馬鹿だな。何回も言ってんじゃねえか、出してやるよ。
「……出れる、わけない」
――出れるさ。オレが、坊やをタノシイところに連れて行ってやるよ。外は、イマ、おもしれえからな。
「……いったい、どうやって。この拘束が外せるわけない」
――いいから寝てろ。
ぐわん、と視界が歪みだした。
ブラックナイトが、蜃気楼のように揺れている。透を見下ろすその顔は確実に笑っていた。
あの、笑顔どこかで……。
混濁していく意識の中で、記憶の扉が乱暴に開いた。駅のホーム。香澄の楽しそうな笑顔。美来の写真。そして、回送電車で見た人影。
そうだ。こいつは、あのときの。
透が確信に至った瞬間、意識は深く曖昧な闇の中へと落ちていった。
そこからは空然たるものだった。
記憶はところどころで途切れている。まるで、バラバラになったフィルムのように。
轟音。急激に軽くなる身体。何かを破り、壊した感触。わけのわからない全能感。ただ視界は闇ばかりを彷徨う。唐突に開ける。空。どこまでも続く灰色の空だ。浮いているのか落ちているのか飛んでいるのかわからない。ビルが映る。ふたたび闇に閉ざされる。なにかの叫び声。なにかの笑う声。それに導かれるように闇を彷徨い動いている。いや、動かされている。
眠い。ずっと眠気がする。
それなのに、完全に眠りにはつけない。そんなよくわからない感じ。
夢? 夢なのかもしれない。だが、わからない。
一体、どこへ向かうのか。
「――」
急に目覚めた。
薄汚れた、落書きだらけの壁が目の前にあった。錆びついた排水管が幾重にも連なり、その上に灰色の雪のようなものが積もっている。何かを背にして座り込んでいたようだ。背中に当たる冷たくて硬い感触は、巨大なゴミ箱のものだった。
どこかの路地裏だった。
「……」
透は、動けなかった。
あまりにも唐突な事態の変化に、脳味噌の処理が追いついていないのだ。外に出たという実感さえも湧いてこない。不自由だった身体が、急に自由になって持て余している。まるで、動物園から自然に返されたライオンのような感じだ。
何をどうすればいいのかが、まず、わからない。
分からないから、空を見詰めた。
「……明るい」
灰色に濁りきっているのに、そう感じた。
ここにはロウソクの光はない。網膜を腐らせるような陰気な暗さもない。外の明るさがあった。圧倒的な空の広がりに、しばらくの間意識を奪われた。
その間に、脳味噌の処理は進んでいく。
ここは、どこかの路地裏だ。見覚えはない。果たしてここが、透の住んでいるF県の飯沢市かどうかさえ分からない。自分は、そのどこかわからない路地裏に座り込み、動けないでいる。空は曇っていて、ほんの少しだが雪が降っている。やけに灰色の雪だ。つまり、いまは冬だ。何月なのかはわからない。しかし、空気はまったく冷たくない。むしろ生暖かいと言っていいくらいには暖かい。半袖のシャツを着ているのに。季節感があべこべだ。わけがわからない。
ただ、一つ、たしかなこと。
あの監禁生活が終わった、ということだ。
どうやって、あの状態から逃げられたのかはわからない。ブラックナイトの幻影が、本当に助けてくれたのか。そんな奇跡のようなことが果たして起こりうるのだろうか? しかし、現実は外に出ている。ブラックナイトはともかく、何か超常的な現象が透を助けたことだけは間違いない。
もしくは、あの監禁自体がすべて夢だったのか。そちらの方が、客観的に見ればまだ現実味があるだろう。しかし、あれを夢というにはあまりにも長すぎたし、妹の感触も与えられる痛みもリアリティがありすぎた。それに、いま着ている半袖シャツの汚れ。あきらかに吐瀉物やなにかで汚れきっている。証拠が揃いすぎていて、夢と片付けることが難しい。
つまり、あれは現実で、透はどうにか逃げることに成功したのだ。
間違いなかった。
ようやく、現実味が湧き始めた。透の肩から力が抜けるのを感じる。圧倒的な安堵で、涙が溢れて止まらなくなった。
よかった。
よかった。
あの地獄のような日々は終わったんだ。
「……ううぅっ」
辛かった。苦しかった。いつ終わるのかわからない恐怖と絶望感。無限に思えたあのドス黒い日々は、これまでのどんな経験よりも痛苦に満ち溢れていた。
母親が死んだときでさえ、こんなには辛くなかった。
異様なほどの静謐の中で、透はしばらく啜り泣いた。膝を抱え、丸まり、自分の体温を感じて生きている実感を精一杯味わおうとしている。身体中が訳のわからないくらい痛かった。もはやなんの痛みかすらわからないほどに。それだけのことをされたのだ、あの悪魔じみた妹から。
それだけのことを――。
「……っ」
透は、急に顔を起こした。
全身に痺れるような恐怖が走り抜ける。
あの妹のことだ、追ってこないわけがない。透が逃げたとわかったら、泡を食って死物狂いに探すだろう。もし捕まりでもしたら、今度はいったい何をされるのかわからない。
助けを求めないと。
透は、立ち上がろうとした。だが、足がもつれたのか転んでしまった。ゴミ箱に背中を打って、うっと息を吐いてしまう。それでも、すぐに起き上がろうとしたが、また失敗した。
舌打ちをしてしまった。
長期に及ぶ監禁で、透の足は萎えきっているようだった。香澄は最低限の筋力トレーニングとマッサージしか許してくれなかった。こうなるのは、ある意味では当たり前と言えただろう。
この状態で、よく逃げられたものだ。自分の身体が不思議で仕方がない。
「おらぁっ!」
透は、思いっきり太腿を叩いた。空手の練習や試合中によくやる儀式だ。動きの悪いところや怪我をしているところに活をいれる。治るわけではないが、気合いは入る。
「ここまで、逃げてきたんだろがっ! 動け馬鹿!」
透こそ、死物狂いだった。
絶対に捕まりたくなんてない。絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に――。
叩いた。叩いた。叩いた。
そうしたことが功を奏したのか、壁に捕まりながらなら立ち上がることができるようになった。足は震えるが、少しずつなら前に進める。前に進めるなら、助かる可能性がある。
幸い、ここは路地裏だ。ここを出ればすぐに街中に入る。そうしたら、通行人の誰かに助けを求めて警察を呼んでもらえばいい。
それさえできれば、透の勝ちだ。
絶対の安全が保証される。
「はやく、はやく……」
なめくじのような速度で動きながら、透は呪文のごとくそう唱える。数歩進むだけで、スパーリングを数本こなしたくらいの疲労度があった。
それがどうした。
透は、歯を噛み締めて思った。
あの日々に比べたら、この程度の苦痛がなんだというんだ。
もう、あそこには戻りたくない。
「あ、あああ……!」
街が見えてきた。どこかのビルの壁に、ひび割れた窓ガラス。路肩に停まっているタクシー。見慣れた光景が、天国のような景色がそこにある。
しかし、微かに違和感を覚えた。
あまりにも、静かすぎた。
生活音が一切ない。街にいれば感じるはずの車の走行音、信号の変わる音、商業施設の音楽や音声広告、人々の喧騒、鳥の鳴き声……そうしたものがまるで感じられなかった。
まるで、ロックダウンした街のように――。
だが、違和感を振り切って、透は進んだ。
歩みを止める理由にはならない。生きるか死ぬかの問題を抱える透にとっては、街の変化など些細なことだった。
あと少し、あと少しだ。
路地裏の出口は、目と鼻の先まで来ていた。
「……がんばれ」
自分を励まし、出口へと足を進める。息が激しく乱れていた。頭が下がる。それでも、前へと進む。
地面の色が変わった。
頭を上げて、目の前の景色を眺めた透は絶句した。
路地裏を抜けると、地獄だった。
「――え?」
目の前のタクシーの上に、女性のようなものが転がっていた。
それは、体の下半身が千切れて無かった。ぬらぬらとした粘液で輝くサーモンピンクの小腸が、女性の首にマフラーのように絡みつき、地面まで伸びていた。顔は、半分崩れて無い。大きく空いた口からはみ出た舌が、眉間の先まで届いている。失われた顔の断面から脳味噌が見えた。その中にウジが湧いている。元の脳味噌の色がわからなくなるほど、大量に。
「……は、えっ?」
なんだ、これ。
死体?
女の人が、死んでいるのか。なぜ? どうして? どうして、タクシーの上で、こんな姿になって死んでいるんだ?
透は、固まってしまった。
あまりにも理解不能すぎて、なんの感情も湧いてこない。さっき、意識を取り戻したときの混乱を容易に超えてくる、津波のような混乱。
蝿が、目の前を飛んでいた。耳元で羽音がなって、透は驚いて壁から手を離した。
「わっ」
うつ伏せに倒れてしまった。起き上がろうとした透の目に、さらなる惨状が飛び込んでくる。
「……なんだよ、これ」
死体。
死体死体死体死体死体死体死体死体――。
数え切れないほどの人間が、死んでいた。そのほとんどが、まるで飛行機事故のあとのように原型を留めていない。腕だけになっているもの、足から上が無いもの、街路樹の幹に百舌鳥の早贄のごとく刺されているもの、潰されてピザ生地のように伸びたもの、無数に転がる頭、無数に転がる臓物、無数に転がる肉のへばりついた骨、そして、辺りを飛び交う悍ましいまでの蝿の大群。
街は血に染まっていた。
建物の壁が、元の色がわからなくなるほど赤黒く染まってしまっている。あるいは、血が乾いてドス黒く変色している。地面も、血で水溜りができた箇所があるほどだった。
血の霧で、街が霞んでいる。
その地獄そのものの光景の中で、雪が降っているのだ。空から降りしきるそれだけは、この事態になんら関心を寄越していないかのように。無視をして、街を凍りつかせている。
異常すぎた。
異常すぎて、透は乾いた笑いをこぼすしかなかった。
「……ひでえ、夢だよ」
たぶん、たぶんだ。
透は、まだ香澄に監禁されているのだ。その中で眠ってしまい、その生活から抜け出すというチープすぎる夢を見てしまい、あげく出来の悪い悪夢に発展したというオチなのだろう。それなら、ブラックナイトが喋ったことにも、逃げられたことにも、納得がいく。
だいたい、あの妹から逃げられるわけがないだろう。次に目を覚ましたときには、きっとまた、うんざりするような妹の笑顔を見ることになる――。
そう思って、透は笑い続けた。
それが、良くなかった。
透の笑い声は、呼んではならないものへの呼び水となってしまった。
背後のタクシーが、プレス機にかけられたかのような音を立てて拉げた。
振り返ると、化け物がいた。
「――」
化け物。そう形容するしかない存在だった。暴力的なまでにグロテスクで、現実の生物以上に生物的な、ホラー映画に出てきそうな巨大なクリーチャーがいたのだ。
そいつには、顔が二つあった。人間のそれではない。蛇やトカゲに近い爬虫類の顔だ。しかし、その口に生えた牙は肉食獣のように鋭く、一つひとつが大きい。そして、人間の体など簡単に切り裂けそうなほどの巨大な爪が、左右の筋肉質な腕に突き出ていた。
化け物の目が、見開かれた。
一つ目のそれは胸辺りについていた。破れそうなほどに血走った、真っ赤な瞳が透の姿をまっすぐに捉えている。
圧倒的捕食者の威圧感が、透を貫いた。
透は、悲鳴を上げながら全力で逃げた。萎えて動かなくなっていた足は、何度かもつれながら、それでも動いた。火事場の馬鹿力というやつだった。絶対的な命の危機が、本当の意味で活を与えた。
――逃げられなければ喰い殺される。
怪我や身体が弱っていることは、言い訳にもならない。
身体中の筋肉から、プチプチと千切れるような音が響いていた。
それでも、走った。
もと来た路地裏を引き返し、遮二無二足を動かし続けた。
「なんだよ、アレは!?」
後ろを振り返る。
化け物の目が、じっとこちらを睨みつけている。まるで、品定めでもしているかのように。
追ってこないことが、逆に恐怖となった。透の足にさっきより力が入った。
肺が飛び出そうになるほど息が上がっても、全力を止めなかった。なるべくあの化け物から遠ざかりたいと思った。
透が反対側の道路に出た瞬間、何かが目の前に降ってきた。潰れた音を立てて、それは赤黒い液体を水風船のように撒き散らした。
その液体を顔面に受けた透は、小さく悲鳴を上げて尻餅をついた。
必死に目をこすり、落ちてきたものを見た。
人間の頭部だった。さっきの衝撃で半分が潰れ、コロンブスの卵のように地面に突き刺さっている。虚ろな目玉がこちらを睨みつけて、恐怖を煽りたててくる。
「……あ、ああっ」
あのクリーチャーが、上から降りてきた。
建物の屋上から追ってきたのだろう。あっさりと追いつかれ、ショックのあまり透は動けなかった。
そして、気づいた。
一匹だけじゃないことに。
「――」
あの化け物とは違う化け物が、無数に蠢いていた。その中には、五階建ての建物に匹敵するほどに巨大なものもいたし、空を飛ぶものもいた。芋虫のように地面を這うもの、全身に口がついていてどこに顔があるかわからないもの、羊の顔に無数の目がついたもの、人間の下半身に内臓のような触手がついたもの――。
すべてが、グロテスクだった。すべてが、絶対に分かり合えないと確信できる、常軌を逸した存在感を放っていた。やつらは、人間の死体が転がる中をゆうゆうと歩き、愉しげに踊っていた。あるいは死体を拾い上げ、バラバラに引き裂き、喰い、投げて弄んでいる。
その振る舞いは、まるで自分たちがこの世界の支配者であると言わんばかりのものだった。
透の身体が、自分のものじゃないかのように震えていた。
「……はやく、醒めろよ」
爬虫類型の化け物が、透に近づいてくる。
その化け物は、愉しげに嗤っていた。音声合成技術で作られた声を思わせる、甲高いが非人間的な声だった。どこから出しているのかさえ分からない。
嗤いは伝播する。周りにいた化け物たちの顔は、すべて透に向けられていた。その顔が、口が、目が、圧倒的な愉悦に歪んでいた。
「……」
爬虫類型の化け物が、牙を向き出した。
ああ、食われる。
そう思ったが、足が一切言うことを利かない。逃げられない。死ぬ。死んでしまう。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
が、化け物の口は、透を噛み千切らなかった。
突然、化け物が固まってしまったからだ。
それは、周りを囲む他の化け物たちもそうだった。さっきまでの法悦に取り憑かれた顔が、気のせいか恐怖のようなもので歪んでいる。
「あーあーあーあー」
間延びしたその声には、明らかな苛立ちが込められていた。
透の背中に、氷を当てられたような寒気が走り抜ける。条件反射の恐怖。その声の主は、透にとってもっとも馴染みのある人物のものであり、恐怖の象徴そのものだから。
「あーあーあーあー、やってくれちゃいましたねえ。本当に、許せないです」
壁に包丁を突き立てたような音が鳴った。
あまりにも唐突すぎて、何が起こったのか分からなかった。
爬虫類型の化け物が、呻き出した。驚いてそちらに目をやると、腹部に大きな穴が空いていた。真っ赤な血が噴水のように吹き出す様を、透は呆然と見ている他なかった。
化け物が倒れた。その瞬間、身体に無数の穴が足し与えられた。化け物は、元の型がわからなくなるほど穴だらけにされ、絶命した。
「厳命しましたよね。兄さんに指一本触れるな、絶対に傷つけるなって。それなのに、食べようとするなんて……。下等種の分際でそんなことしていいと思うんですか? いいわけないでしょう。他の害虫共ならいざ知らず、私の大切な兄さんですよ。許せない、許せないです。万死に値する愚行ですね」
ブツブツと何かを言いながら近づいてくるシルエットは、透の知っている妹の可憐な姿とは、掛け離れたものだった。
体の右半分が、膨張していた。質量保存の法則など知ったことではないと言わんばかりに肉が盛り上がり、異形に変形している。
それは、明らかに人間の領分を超えていた。人間に、蜂と蜘蛛の顔を混ぜ合わせたかのような感じと言えばいいか。長い触覚に、鉄さえも切り裂けそうな大きな顎。そして複数の複眼。だが、そこに人間の手が不自然に無造作に、何本も生えている。その合間を縫うように、人間の目のようなものが無数に開かれ、あらぬ方向を向いていた。
半分はそれで、半分はいつもの香澄だった。
もはや、この光景をどう理解すればいいのか透には分からなかった。妹は本当の意味で化け物で、同じ化け物を惨殺した。言葉にするのは簡単でも、受け止めることはあまりにも難しい。
夢にしては、あまりにも残酷すぎないか。
「それにしても最悪ですね。兄さんは逃げ出してしまうし、この姿を兄さんに晒さなくてはならなくなってしまうし、本当に酷い話です。どうしてかしら? あいつのせいなのは分かってるんですけど、父様の力も完全ではないと言うことですかね。下等種どもも上手くコントロールできていなかったし……。色々な制約があるようですね。もう少し色々と試さなくては駄目だったみたい」
香澄が近づくほどに、化け物どもは恐れをなしたように、頭を下げた。まるで絶対的な力を持つ飼い主に怯える犬のように。化け物たちの間を悠々と歩く香澄は、グロテスクな見た目に反して神々しくすらあった。
降りしきる雪さえ、彼女のために存在しているかのように、透には見えてしまった。
「……香澄」
「もう、兄さんったら」
残り半分の確かな香澄が、お腹をゆっくりと撫でながら、いつものように微笑んだ。
まるで聖母のごとき光を称えて。
「言ったじゃないですか。――外は危ないって」
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