第一章 三





「にいさん。私、にいさんの子供が欲しいです」


 舌足らずな言葉で、いつかの幼かった香澄がそう言ったことがある。


 そのときの透は、近親相姦なんて言葉すら知らなかったし、子供ができるプロセスというのも分かっていなかった。


 だから、よく考えずに答えたのだと思う。いや、そのときの透は透なりに妹のことを考えて、肯定的な答えを返した。


「いいよ」


 そう告げたとき、彼女は心の底から嬉しそうに笑った。


 ああ、よかった。そう、思った。普段笑うことがほとんどない妹が、表情を緩めてくれたことに安堵していた。


 透はいつも、香澄のことを可愛そうな子だと思っていた。彼女はいつだって人に囲まれていたのに、寂しそうだったからだ。


 彼女は、神童と呼ばれていた。「神の奇跡」と大袈裟なお世辞を言うものさえいた。彼女は、四歳のときに父親の書斎にあった本をすべて暗記し、滔々と語ることができた。日本有数の研究者である父親が所蔵する書籍をだ。小学生に上がろうかという歳になると、四ヶ国語を話せるようになっていたし、父親の研究に新たな解釈を提示できるレベルにまでなっていた。


 周りが、彼女のことを放っておく道理はないだろう。香澄の元には、研究者や経営者、政治家、そしてその家族や関係者……あらゆる人々が集まった。称賛の声は、止むことのない雨のごとくだ。誰もが、香澄を称え、持ち上げた。


 だが、その裏には必ずといっていいほどに打算があり、計算があった。青田買いが目的だったものもいただろうし、父親に取り入るきっかけにしようとしていたものもいただろう。彼らが興味があったのは、あくまで香澄の稀有な才能やブランドであり、彼女の人間性や内面に目を向ける者はほとんどいなかった。


 聡い香澄は、小学生になるかならないかというときから、そのことを理解していたのだろう。孤独を感じながら、求められる自分を演じ続けていた。その苦痛は、察するにあまりあるものがある。彼女が人に心を許さなくなったのは、きっと無理解で自分の都合ばかりを押し付ける大人たちのせいだろう。


 当時の幼かった透には、その辺りの深い事情までは察することができなかった。ただ、妹がいつも寂しそうにしていることだけが気になっていた。


 なんとかしてやりたかった。


 透は、自分だけでも彼女の味方になってやろうと思った。ブラックナイトなら、困っている子供を放っておかない。かならず助ける。憧れの存在に自分を投影しながら、透はたった一人の妹を笑顔にしたかった。


 彼女のヒーローに、なろうとしたのだ。


 だから彼は香澄にたくさん話しかけたし、香澄の手を引いてよく遊びにも連れていった。父親から冷徹な苦言を呈されても気にせず、香澄を一人の少女として扱い、大切にした。


 だが、それが結果的に良くなかったのだろう。


 彼女の抱える心の闇を、透は理解できていなかった。


 ――にいさんの子供が欲しい。


 きっと、香澄がそんなことを言ったのは、より寂しさを埋めたかったからなのだろうと思っていた。


 子供が人形を抱いて安心を得ようとするのと一緒だ。ただ、香澄は人形じゃなくて赤ん坊を欲しがった。それだけのことなのだ。


 だからこそ、その言葉はママゴトに等しいものである。本来、深く考えるようなことではない。それは当時のヒーロー気取りの透にとってもそうだし、多少は成長した十八歳の透にとっても変わらない。


 透にとっては、ただの幼い頃の微笑ましい思い出でしかないのだ。


 それを本気にする訳がない。


 本気にする馬鹿なんて、いるわけがない。


「……」


 蹴りました。蹴った。蹴ったけったケッタ。


 香澄の言葉が、残響となって頭の中にこだましていた。


 ロウソクの火が、揺れる。香澄の白い指先は、慈しむように膨らみのあるお腹に添えられていた。そこだけが、まるで強調されているかのように白く輝いている。


 ケッタ。


 なにが、なにを?


「……よせよ」


 口が勝手に動いていた。声が震え、全身が痺れ始める。


 ブラックナイトの顔が、変わりかけの信号みたいに点滅しながら浮かんでくる。脈絡は壊れていた。思考が正しい回路を見失い、あらぬ方向へと流れ出していく。ブラックナイト。安全ピン。舌を出した美来。狂ったように踊りだしている。ブラックナイトが、美来と踊っているのだ。わけがわからない。いま、こんなことを考えている場合じゃない。でも、浮かぶのがとまらない。踊る踊る踊る踊る踊る踊る踊る踊る踊っている。ボレロが流れていた。


 ああ、なんだこれは。


「……冗談は、よせよ」


 もう一度、言っていた。


「……冗談?」


「いま、蹴ったって」


 ボレロはとまらない。


 モーリス・ラヴェルの曲。ブラックナイト。美来――。


「ああ」


 香澄は、視線を下に落として頬を赤らめた。イカれたボレロはどんどん音量を上げていく。なんだ、その表情は。「恥ずかしがっているね」と、美来がはっきりと言った。つい最近、喋れるようになったばかりの幼子が。


 踊る。すべてが踊る。ロウソクの火も、安全ピンのピアスも。


 香澄の眼差しは艶っぽい。


「言うのが、遅くなりましたね」


 よせ。


 透の身体に、怖気が走る。ボレロが走った。クライマックスにむけて音を盛り上げながら。


 やめろ。


 やめろやめろやめろやめろやめろやめろ。


 透の拒絶は、虚しく消える。


 香澄の一言によって。


「妊娠しています」


 空白。


 圧倒的な、空白。


「私、妊娠しています。兄さんの子供を」


 目の前が、真っ白に染まった。


 意識が、意志が、思考が、緊急停止したように動かなくなった。危険を察知したかのように。


 身体がブルブルと、あり得ないほどに震えだした。湧き出てきた汗は、体中を雑巾絞りにでもしたかのような凄まじい量だった。一瞬で、頭に血が登った。熱い。苦しい。


 吐いた。


 仰向けのまま、激しくえずいた。


 胃液が、噴水のように飛び出し、また口の中に逆流する。食道が、鼻の中が、焼けんばかりに痛い。それでも、むせ返りながらも、止まらない。


「兄さん?」


 香澄が、泡を食った様子で立ち上がる。


「大変……。気分が悪かったんですか?」


「気持ち、悪い」


「そうですか……。食べ物にあたったのかしら。正直、そんなに質のいい肉ではないから……」


「……気持ち、悪い」


「あ、すいません。それどころではないですね。すぐに拭くものと水を持ってきますから!」


 そう言って、香澄は部屋を出ていった。


 透はむせ返り過ぎて、息も絶え絶えになりながら思う。


 気持ち悪い。


 香澄が、気持ち悪い。なんだあの化け物は。あいつは、あんなにも醜かっただろうか? 兄の子供を身籠っているくせに、心底幸せそうに笑っている。あんなグロテスクな存在が、自分の妹と同一人物だなんて信じたくない。


 穢された。あの化け物に。身体や心だけでなく魂までも――。


 気持ち悪さが、黴のように根を張って離れてくれない。身体中を掻きむしって、取り除きたい衝動にかられた。が、かろうじて動く手足をベッドに叩きつけることくらいしかできなかった。


 獣のような咆哮を上げる。ただ、猟銃で撃たれたあとの獣みたいに、その声は苦しげで死の匂いを感じさせるものだった。


 香澄が、戻ってきた。その手にはペットボトルの水とタオルが握られている。


 透の異様さに、さすがの香澄も目を見開いていた。


「……とりあえず、身体を拭きますから。大人しくしてください」


「う、るせえ。俺に触るな!」


 タオルを近づけてきた香澄に、噛みつかんばかりの勢いで怒声を上げた。胃液で焼けた喉はすぐに悲鳴を上げる。激しく咳き込んだ透は、しかし血走った目で香澄を射抜いた。


「……兄さん?」


「……いつ、からだ。いったい、いつからそんなことになっていたんだ! ふざけんなよ、お前!」


「……」


「なんとか言えよ貴様! こんなの、笑いごとじゃすまねえんだよ! 自分が何をやったのか分かってんのかっ!」


 記憶なんてない。


 子供ができてしまうような、おぞましい行為をした記憶なんて――。ここに囚われている間、香澄はキスや過度の身体の接触を求めてくることはあっても、セックスまで要求してきたことはなかった。何故かはわからなかったが、最後の一線を超えない理性くらいは働いているのだろうと思っていた。


 でも、違った。


 香澄は、気づかないうちに行為に至っていた。どのような手段なのかは判然としないが、妊娠している以上、そう考える他なかった。


「答えろ、答えろよ! いつなんだ、いったいいつから!」


 香澄は溜息をついた。


 髪をかきあげて、冷たい眼差しを透に向ける。


「……九ヶ月ですよ。もうすぐ産まれます」


「は?」


 九ヶ月?


 透の頭は、ふたたび真っ白になった。


 囚われてどのくらいの時間が経過したのかは、わからない。だが、いかに時間感覚を狂わされようとも九ヶ月も経っていないことだけは、断言できる。つまり、つまりだ。香澄が身籠っている赤ん坊は、この監禁中にできた子供ではないということになる。


 外にいるときから、出来ていた子供――。


 プレゼントを買いに行ったときくらいには、きっとすでに妊娠していたのだ。


「お前ええぇっ!」


 喉が千切れんばかりに、透は叫んだ。


「俺にそんな覚えはねえぞ! お前に対してそんなことをした覚えなんか! いったい何をしやがった!」


「……ふぅん」


 香澄の声は、なぜか軽蔑の色を含んでいた。


「忘れたんですね。私に、あんなことをしておいて」


「はあ? 何言ってんだよお前!」


「それはこちらのセリフですよ。兄さんが、私のことを押し倒したんじゃないですか」


 息が、詰まった。


 この女は何を言っているのだろう。押し倒したことなんてあるはずがないのに。


「……世迷い言を」


「世迷い言なんかではありませんし、当然私の妄想でもありませんよ。真実です。兄さんが、忘れているだけでね」


 香澄は、「もう電力は残り少ないんですけどね」と独り言ちて、暗闇の底から何かを拾い上げていた。


「こんなこともあろうかと。ちゃんと、用意していました。兄さんに責任をとってもらうためにね」


 鼓動が速くなる。


 香澄が取り出したのは、ビデオカメラだった。


 嫌な予感しかしなかった。絶対にロクなものは映っていない。だが、透にはもちろん妹相手に過ちを犯した記憶などない。皆無と言っていい。


 皆無と……。


「……」


 本当に?


 頭の中に、もやのかかった部分がある。その先へ進むことを躊躇わせる何かがそこにはあった。


 香澄は、ビデオカメラのスイッチを押した。画面には、見覚えのある部屋が映っていた。本棚がずらりと並んではいるが、しかし花やぬいぐるみも飾られてもいる女の子の気配を漂わせる部屋。


 香澄の部屋。


 そこに、間をおかず二人の男女が現れた。激しく抱き合い、口吻を交わしながら、ゆっくりと移動している。男が、女をベッドへ押し倒した。荒い息遣いが妙に生々しく、微かに香水の匂いのようなものを漂わせながら聞こえてくる。


「……嘘だ」 


 どう見ても、あれは香澄と透だった。透は、肉を貪る獣のごとく激しいキスを香澄の華奢な身体へと落としている。喜びを微かに含んだ控え目な嬌声。悩ましげに動く、足先と手先。


 透が、香澄の下半身へと手を伸ばした。


 溶けるような、声がした。


「……違う。嘘だって。俺にはこんなことをした覚えは、本当にないんだ」


 靄が、ゆっくりと晴れようとしている。何かの間違い。そう思いたくても、記憶の輪郭が少しずつ確かなものになろうとしていた。


「嘘つきは、そちらでしょ?」見透かしたように、香澄が言った。「本当は、分かっているんですよね? これが、作られた映像でないことも。自分がやったことも」


「……違う。俺は、そんな鬼畜がするようなこと」


「したんですよ兄さんは」


 香澄の言葉に、透の弁解は殺された。


「妹を押し倒して、キスをして、セックスをしたんです。いい加減認めなさい。あなたは、妹を犯して孕ませた。あなたにはその責任があるんです」


「……あああ」


 違う。違う違う違う違う違う違う。


 やっていない。そんなことを、妹相手にするはずがない。でも、映像が確かな証拠となって、透の記憶を激しく揺さぶる。靄は、消えようとしていた。そこにあるのは、目と鼻の先にある香澄の濡れた顔。汗で濡れ、唾液で濡れ、涙で濡れている艶っぽい女の顔。熱っぽい眼差し、上気した頬、絹のような髪の感触、汗の香りを含んだ体臭、すべて。すべてが、鮮明に――。


「……ああ、ああああああああああああああぁぁ」


 犯した。


 たしかに、透は香澄を犯した。


 香澄は処女だった。挿入したときの熱と血の滑りをはっきりと思い出せる。痛みに耐えながら、至福の喜びに涙していた香澄も。


 熱に浮かされたように、何かに取り憑かれたように、そのときの透は腰を動かしていた。明らかに正常じゃなかったし、理性というブレーキが壊れていた。ただ、眼の前にいるメスを犯すことしか考えていなかったのだ。なにかがおかしかった。なにかが狂っていた。夢を見ているような感じだったのだ。ふわりと、浮いていた。透の意識も世界も。


 だから、過ちを犯してしまった。


 透は、首を激しく振り回した。ベッドが激しく軋んでいる。香澄の勝ち誇ったような微笑に飛びついて、噛みちぎってやりたいとさえ思った。暴れたかった。でも、そんな自由すらなかった。


 香澄が何かをやったことは間違いない。意識を混濁させる薬でも盛ったのか、いわゆる理性を溶かす媚薬でも盛ったのか。香澄は、医学者だ。研究で様々な薬を扱うとも言っていた。用意するのは難しいことではないだろう。


 だが、たとえ薬を盛られたとしても。透が妹と姦通に至り、孕ませた事実になんら変わりはないのだ。


 救いにはなり得ない。


 頭の芯まで痺れていた。


 爆発した感情の種類がわからないほどに、心が荒れ狂う。涙が止まらない。咆哮のような悲痛な叫びが、痛々しいほどに室内を轟いた。


「……ふふっ」


 香澄が、嗤う。


 叫ぶことしかできない哀れな存在を、愛でるかのごとく。


 暴れる透の胸板にキスを落とした。胃液で汚れていることなんて忘れているかのように。熱に浮かされた表情で、透を見詰めながら。


 幸せだと、言わんばかりに。


「名前、考えているんですよ」


 慟哭を上げる透は、聞いていなかった。


「『澄空そら』にしようと思っているんです。澄んだ空と書いて『そら』と読みます。文字通り、澄んだ空のように純粋で優しい子に育って欲しい。そう思ってこの名前にしたんですけど、安直すぎますかね?」


 透には届かない。そんなことすら楽しんでいるかのように、香澄の表情は柔らかい。


 安全ピンが、揺れていた。


「ちゃんと真剣に考えてくださいね。あなたの子供のことなんですから」


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