第一章 二
香澄の誕生日から、どのくらいが経ったのだろうか。
確実に分かっているのは、あれから二ヶ月経ったときに監禁が始まったということである。二〇二二年九月十五日。透が最後に外にいた日だ。
あの日は、木曜日だった。学校が終わって、これから空手の練習に行こうと道着を用意していたことを覚えている。黒帯を最後にたたみ、道着をバックに詰め込んで、同じ道場の
だが、なぜかメッセージは送れなかった。スマートフォンをよく見ると圏外になっている。しかも、Wi-Fiにも接続していない。
妙だな、と思った。機内モードになっているわけでもないのだ。だとすると、スマートフォンそのものの異常だろうか? 機械に強いわけではない透には、原因がてんで思い当たらない。
あさって、携帯ショップに行かないといけないな。
そう考えて、一人憂鬱になっているときだった。
突然どこからか、けたたましいアラームが鳴り響いた。おそらく、自動車のセキュリティアラームだろう。
だが、妙に喧しい。それもそのはず、鳴っているアラームの音は一台だけではない。複数の騒音が絡み合い、破壊的になっている。
気になって窓辺に近づこうとした。その瞬間、急に身体が動かなくなった。
戸惑いを口に出す暇もない。今度は背後から口を塞がれた。何が起こったかわからず硬直してしまった透は、抵抗する間も与えられず意識を失ったのだ。
そして、目を覚ますと監禁されていた。
そのときの、香澄の至福に歪んだ表情だけは忘れることができない。透の状況は、野生から無理やりどこかの研究施設に連れてこられたサルやチンパンジーと似たようなものだ。訳のわからない状況に困惑する透に、無邪気な笑顔を向ける香澄は、マッドサイエンティストのように残酷だった。
彼女は、開口一番こう宣った。
「楽園へようこそ、兄さん」
透は、あのときの香澄の言葉を思い出し、重たいため息をついた。
どうして、こんなことになったのだろう。
考えても答えが出ないことは分かっているが、考えずにはいられないし、自分の運命を呪わずにはいられない。そのループを延々と繰り返し、透の神経は、だんだんと腐食を進めていく。
揺れるロウソクの光さえも、自分を呪っているかのように感じるほどに。
絶望が、重くのしかかっていた。
「……」
今は、誰もいない。香澄は、食事を取りに行って以降、帰ってくる気配がない。
圧倒的な静寂。耳鳴りがずっとしている。口笛と歌で気を紛らわせるのは、もはや薬にもならないのでしていない。
かつて、香澄が言っていた。人間から極限まで刺激を奪うとどうなるか。それとまったく同じことが我が身に起こっている。わけがわからない。アイソレーションタンク、REST、感覚遮断、多くの人間が一週間と持たない、洗脳、ヘッブ、神秘家の修行――グルグルと回る、香澄の言葉が。
考えても詮無いこと。
考えても詮無いこと。
考えても、詮無いこと。
いったい、今は何日経った?
考えても、詮無いこと。
考えても、詮無いこと。
なぜ、香澄はこんなことをしたのか?
考えても、詮無いこと。
誰か、教えてくれないか?
答えは、帰ってこない。
「あああアァ……」
枯れたうめきが、血が出るまで胸を掻き乱したくなるほどの狂気を外へと吐き出す。それは、汗だ。絶望への代謝だ。こうしないと、狂った熱に冒されて、透の心が蒸発してしまうから。
「何日、経ったんだよぉオォ……」
いつまで、こうしているんだ。
いったい、いつまで。いつまで。いつまで。いつまで。いつまで。いつまでいつまで。
こんなことをしている場合じゃないんだ。空手の練習に行きたい。携帯ショップにも行かないといけないんだ。充とも会いたいし、亜加子にも借りた漫画を返さないといけない。やることが、やりたいことがいっぱいある。寿司も食いたい。もう、肉はこりごりだ。毎日、毎日、何の肉かもよくわからない肉ばかり食わせやがって。壊血病になるだろうが。このアホ、ボケ、バカ、クズ。
誰か、助けてよ。
誰か、誰か。充、亜加子、兼貴兄、美来。連絡が取れなくなったんだ。不審に思うのが普通だろ? なのに、なぜ警察はいつまで経っても来ないんだ? みんな、見捨てたのか?
なあ、なあ。
なんとか言ってくれよ。
透の思考は、大麻を吸ったかのように乱れていた。おかしくなりかけていた。崩壊寸前のところを、ずっと歩いている。
だから、彼の目にはおかしな物が見えたとしても、不思議ではない。
黒い、人影が佇んでいた。
透はそれを、ブラックナイトだと思った。子供たちの、そして透にとってのヒーロー。ブラックナイトは、どんなときにでも駆けつけてくれる。
「……ブラックナイト」
返事はない。
「……どうにか、してくれよ」
返事は、返ってこない。
「……悪いやつが、いるんだ。だからやつけてくれ。ほら、ヴィランだよ。ヴィランに苦しめられる人たちを守ることが、あなたの使命だろ?」
人影は、笑うかのように揺れている。
「なあ、頼むよ。悪いやつを」
「――誰が、悪いやつなんですか?」
全身が凍りついた。
すべての感覚が、香澄へと収束する。ブラックナイトはどこかへ去り、発狂しそうになっていた心も、恐怖という氷塊を押し当てられて、熱を殺された。
悲鳴すら、こぼれない。
捕食者が突如草陰から現れたときのウサギのように、ただただ身体が震えるだけだった。
「もう一度、訊きますね」香澄は、口元を緩めて優しい口調で言った。「いったい誰が、悪いやつなんですか? 兄さん」
「あ、あの……」
「まさか、私じゃないですよね?」
「ち、違う。違うよ! 言葉の綾というか、その……違うんだ!」
「ふぅん」
香澄は目を細めると、鞄を開け始めた。
「仕方ありませんね。嘘をつく悪い子にはオシオキしないといけません」
「ひっ」
スタンガンが出てきた。
「兄さんは酷いです。ここまで甲斐甲斐しく世話をする私を、ヴィラン呼ばわりするなんて。どうしてです? こんなにも愛しているのに、どうして兄さんは分かってくれないんですか?」
「やめ、やめて! それだけは嫌だ!」
「私も嫌ですよ。失禁する兄さんなんて見ていて辛いですから」
何でもないように、香澄は息をついて、目の前でスタンガンのスイッチを押してみせた。光が爆ぜる。あまりにも暴力的で、あまりにも恐ろしい光――。
息が、苦しい。
「パブロフの犬って知っていますか? 兄さん、あまりにもオシオキばかりされていると、そのうち電流を見ただけで粗相するようになるかも知れませんね。あ、静電気なんかでもそうなりますよ、きっと」
「嫌だ。そ、そんな風になりたくない!」
「でしょうねえ。兄さんには特殊な性癖はありませんから。これまで兄さんが性に目覚めてから閲覧した性的な刺激物は、合計で四百三十七件ですが、特殊な性癖に関するものは統計上0.7パーセントにも満たないですしね。妹物の0.3パーセントより多いのは許せませんが、まあ及第点です。いい傾向ですよ」
不気味な情報をとうとうと語り、透を褒めながらも、香澄はスタンガンを近づけようとするのを止めなかった。
透は、暴れた。ベッドの木枠が軋み、毛布が乱れたがそれだけだった。手首足首に括られた縄が動こうとすればするほど喰い込み、激痛を走らせる。
「兄さぁん。まさかこの期におよんで逃げようとしているわけじゃないですよね?」
「嫌だイヤダイヤダイヤダイヤダァァア」
「あはは、もう。兄さんったら。可愛い反応するじゃないですか。そんなに嫌なんですか、これが」香澄は、スタンガンを人差し指で叩きながら言った。「……ん〜、そうですね。さすがに可哀想ですし、やめておきますか」
「……え?」
「なんです、その意外そうな目は? それとも、本当はオシオキを期待していたとかですか?」
「ち、違う! そんなわけない、やめてくれ!」
「冗談ですよ。心配しないでください」
そう言って朗らかに笑うと、香澄はベッドに腰を下ろしてきた。彼女の冷たい指先が、胸板に触れる。
いったい、何をする気だ。あんなにあっさりと引き下がってくれたのが逆に不気味で、透の顔の引き攣りはまったく緩んでいなかった。
「兄さん。可愛い妹をそんな目で見ないでくださいよ。私だって、兄さんを閉じ込めるのは心苦しいんですから」
「……」
「本当ですよ」
絶対に、嘘だ。
「楽園って、言っていたじゃないか」
香澄は一瞬眉を顰めたが、すぐに思い当たったのか得心に至ったようだ。
「ああ、言いましたね。楽園ですよ。それは間違いありませんが、なんというか不完全でして。こうやって兄さんを捕まえておかないといけないことが、その証左と言いますか」
「……お前の言っていることが、俺にはよくわからない」
「いま分かる必要はありませんよ。そのうち分かることなんですから」
「いま、知りたいよ」透は弱々しく絞り出すように言葉を続ける。「お前は、いったい何がしたいんだ。こんなことをして、いったい何の意味がある?」
「この世に意味のない事象なんて、人体の中の微量ミネラルほどもないと思いますが」
「……はぐらかさないでくれよ」
透の哀願にも似た言葉を聞いて、香澄は「何度も言っていると思うんですけどねえ」と苦笑を浮かべた。
「兄さんの安全のためですよ。外は危ないですからね」
「危ないって、どういう意味なんだよ」
「いるからですよ、害虫がまだたくさん」
香澄の言っていることは、まったく要領を得なかった。これまで何回か似たようなことを訊いてきたが、何回訊いても訳のわからない曖昧な回答をよこしてくるのだ。
「頼むから、もう少し分かりやすく言ってくれないか? それじゃ、わからないんだ。納得なんてできるわけない」
「納得しないでしょう、どう説明したって」
「……そうかもしれない。でも、せめてちゃんとした理由を知りたいんだ。俺がどうしてこんなことをされないといけないのか」
「あははっ」
香澄が腹を抱えて笑いだした。
「何を言っているんですか、兄さん。私の行為に兄さんの望む『ちゃんとした理由』とやらを求めることができるわけないじゃないですか。監禁ですよ、監禁。あなたが一番分かっているはずなのに、どうしてそんなに可笑しなことを求めようとしているのですか」
「……お前」
「いいですか、兄さん。そもそも私には、あなたが納得する理由を説明する義務や必要など一切ないんですよ」
氷のように冷たい指がのぼってくる。
「なぜか、わかりますか?」
透は何も答えることができない。
首筋に、香澄の指が当たった。まるで刃物をあてられたかのような戦慄が、全身を貫いていく。
「それはね――私がすべてを握っているからです。あなたの意志も自由も命さえも」
「……あぁ」
呻くしかない。
目の前にいるのは、悪魔だ。
ロウソクの弱々しい光の中で、仄暗い闇の中で、白衣を着た悪魔は笑っていた。見るものすべてに絶望を与える、そんな笑顔で。
「だから、そんな下らないこともう聞かないでください。いいじゃないですか、いずれは必ず自由になれるんですから。そんなに遠くない日にね」
「それに」と間を開けて、香澄は続けた。
「私たちの間には確かな愛がありますから。だからね、私がこのようなことをするのは、言うならば愛ゆえです。心の底から愛している兄さんを、毒まみれの害虫どもから守りたいと思うのは、当然のことでしょう?」
「……こんな」
こんな、一方的な愛があるか。
「なんです? なにか、言いたいことでも?」
透は押し黙る。
何も言えない自分が情けなかった。
「兄さんは、私だけを見ていればいいんですよ。その他の害虫どもが、兄さんの視界に入るだけで虫唾が走るんです。ずっと前から、我慢してきました。兄さんを、一人の男性として愛していると気づいた日からずっと。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、ずうっと」
「……」
「だからね、兄さん。兄さんも我慢してくださいよ。私たちが、何者にも邪魔されずに愛し合えるようになるまでね。それまでは、おとなしく私の鎖に繋がれていてください」
そうすれば、痛いことはしませんから。
香澄はそう言って、お腹に手を当ててさすり出した。嬉しそうに楽しそうに、優しげな表情を浮かべながら、ゆっくりと。
その手付きが、妙に気になった。
そして、気になり出すと、それまで意識にのぼらなかったことが見えてくるようになった。これまで灯りの乏しい暗がりの中にいたせいか、香澄がずっと丈の長い白衣を身に着けていたせいか、もしくは異常な環境に置かれて余裕がなかったせいなのか……まったく気づかなかった。
香澄の、身体の変化に――。
それは、最悪の連想だった。
冗談だろう、と透は思った。まさか、それは、それだけは、絶対に間違ってはならない道徳であり、壊してはならない理そのものだ。そんなこと、あってはならない。もしあったとしたなら、透は社会という枠から消えてしまわねばならなくなる。
心臓が早鐘を打って、息が苦しかった。嫌な汗が止まってくれない。
気のせいだ。気のせいにきまっている。
だが、香澄の一言が、透を絶望の底へ叩き落とした。
「……あ、蹴りました」
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