どうして人を殺してはいけないのですか?
浜風ざくろ
第一部「害虫駆除に、疑問を持つ人間がいますか?」
第一章 一
妹に、監禁されていた。
柔らかいベッドの上で、両手両足を縛り付けられている。起き上がれるのは、妹が気まぐれで拘束を緩めてくれたときだけだ。
六畳ほどの広さがある部屋。おそらくは何処かのアパートかマンションの一室だろう。カーテンで完全に窓が閉ざされており、光さえ漏れてこない。部屋には電灯などはなく、ロウソクの灯りが不知火のごとく揺れている。一つや二つじゃない。幾重にも幾重にも。まるで百物語でも始めるかのごとく、埃臭い部屋の形状を不気味にあぶり出している。
犯人の妹は、部屋の真ん中にいた。
心底幸せそうな微笑みを浮かべて、透を見詰めている。
透を閉じ込めた張本人である。古びた安楽椅子に腰掛けて、編み物をしながらこちらを観ている。それはまるで、健やかに眠る赤子を見ているような感じだが、監視という冷徹な表現の方が本当は正しい。眼差しは優しいのに、無機質で不気味だった。
香澄は毛布をひざ掛けにしている。腹が冷えるのだろうか。時折、お腹をさすりながら溜息をついていた。その様は何気ないものながら、一つの絵画であった。フェルメールを思い起こすほどである。
そう、まるで絵画のような少女なのだ。老若男女問わず、彼女はとても注目された。長く細い眉毛に、やや冷たさを感じる怜悧な目つき、よくとおった小綺麗な鼻に、柔らかそうな桜色の唇。各々のパーツが完璧に成立し、小さな顔に整然と存在している。栗色のショートヘアーはきめ細やかな艶を溶け込ませており、まるで着色された絹のようだ。
しかも、容姿だけではない。彼女は天才だった。絶対記憶能力をもっており、あらゆる学問に精通し、七つの言語を使い熟すことができる。その稀有な才能が国に認められ、親戚が理事を務める私立大学医学部の大学院に所属し、日本最年少の研究者として名が通っている。わずか十七歳で、だ。
透とは、住む世界が違う。
自慢の妹という他ない。存在が重すぎて自慢を口にしたことはないが、たしかに透はそう思っている。
それが、こんなことをするなんて――。
「どうかしましたか、兄さん」
どうかしたのはお前の方だろうが。
そう思ったが、透は言わなかった。ひどく億劫で、口を開くのも面倒だった。
香澄は、返事が返ってこないのを気にしていないようだった。それどころか口元をかすかに綻ばせ、楽しんでいるようにも見えた。
何がそんなにおかしいのだろうか。
もともと独特な感性の持ち主ではある。天才にありがちな、常人では思いつかないような言動をとることもあった。だが、そんなことは些細なことだった。ちょっと変わっているな、と思うくらいのことなのだ。
が、これは明らかな犯罪だ。拉致監禁。そして傷害も……。笑っていられるようなことなんかじゃない。
まだ気力があったころなら、罵声を上げていただろう。あらんかぎり暴れて、喉が狂うほどに叫んだはずだ。だが、そんなことをする精神力は、削られて削られて削られ尽くしていた。
透は、時間という毒に侵されていた。
いったいどのくらい時間が経ったのか。そんなことさえ曖昧になるほど、気が遠くなる時間囚われているように思う。灯りの入らないこの部屋では、昼夜の感覚は狂ってしまう。眠りについて起きても、はたして本当に朝なのか分からない。時計なんて気の利いたものはないし、妹に訊いても教えてはくれない。もう何十回、この中で目を覚まし、「この状況は夢ではなかったんだ」と絶望したことか……。
出たい。出たい。出たい。
出たい。
その言葉ばかりが、思考の鈍った頭に浮かんでは沈み、浮かんでは沈む。何万回も飽きることなく。
だが、思いは思いのまま蒸発する。変わることのない状況が延々と続く。
いったい、いつ、終わるのか?
そもそも、終わりはあるのだろうか?
終わりとは――?
「兄さん」
妹の顔が、目の前にあった。引き攣った悲鳴がこぼれた。
「これからご飯を取りに行きます。お願いだから、大人しくしていてくださいね」
返事ができない。身体の震えがとまらない。目尻を和らげる彼女の手には、スタンガンが握られていた。電流。この身体は、失禁するほどの電流の怖ろしさを覚えきっていた。
香澄は、口吻を落としてきた。かわせない。ナメクジが落ちてきたかのような気色悪い感触に、寒気が止まらない。
ナメクジが蠕動し始めた。唇の上で生暖かい舌が踊っているのだ。
だが、逃げられない。逃げてはいけない。
逃げれば、制裁が待っているから。
舌が口内に入ってくるのに時間はかからなかった。透のくぐもった悲鳴は、貪るような舌技に虚しく殺された。抗議など受け付けない、という明確な意思がそこには込められていた。
どろりとした熱い粘膜が、透の意識を包み込んでいくかのようだ。それなのに、心臓は冷えていく。身体の震えが止まらない。
おぞましいまでの禁忌だった。
妹に、犯されている。
そして、その陵辱を許さざるを得ない。
それはまさに、巨大な怪物の口内で転がされているかのような、粘りついて離れない不快感。
透は、泣いていた。
そのことに気づいた香澄が口を離し、どうして泣いているのか分からないといった風に眉をひそめている。妹は、天才のはずなのに馬鹿だった。だって、すぐに天使のような笑顔を浮かべたのだから。
「泣くほど嬉しかったですか。うふふ、私も……嬉しいですよ。兄さんと、こんな風になんの制約も気にせず繋がれる日が来るなんて」
イカれている。壊れている。狂っている。正常じゃない。気狂い。化け物。妹の皮をかぶったナニカ。
異色香澄という名の悪夢。
「兄さん……ああ、兄さん。すぐに、帰りますから。私だって、本当は今すぐ……ああ、でも破廉恥ですね、こんなこと言っては。うふふ、ふふ。うふふふふふふふっ」
香澄が恍惚と嬌笑をあげて頭を振るう。右耳のピアスが揺れていた。安全ピンが鎖のように繋がったピアス。
それは、彼女の十七歳の誕生日にあげたプレゼント。
いったい、あれから何ヶ月経ったのだろうか。
ずっと、つけているのだ。一日と欠かすことなく。プレゼントを買ってやったときの、香澄の笑顔は鮮明に思い出せる。純粋な、パンジーよりも華やかな表情だったのだ。
そのときの面影は、欠片もない。
目の前にあるのは、欲動をむき出しにしたドス黒い獣の顔だ。
買ってやらなければよかった。
プレゼントなんて。
「安全ピンって好きなんですよ」
駅のホームで帰りの電車を待っているときに、香澄が唐突にそんなことを言い出した。
夕陽が、山陵にオレンジの輪郭線を与えながら消えていこうとしている。ゆっくりとその後押しをするかのように降りてくる夜の帳には、微かに星が散りばめられており、息をつくほどに美しかった。
蜩の声が、消え入るように漂っている。
眼の前の光景に見惚れていた透は、反応が遅れた。一瞬、何のことだろうと思ったが、先刻ショッピングモールで買ってやったプレゼントのことだと気づいた。
「……なんで?」
「だって、可愛いじゃないですか。安全ピン」
「安全ピンを愛でる対象として見たことないから、わからないな」
相変わらず独特なセンスだなと思いながら、首を傾げる。
安全ピンは、服に名札やら腕章やらを取り付けるための道具でしかない。パンクファッションとして取り入れられていることは知っているが、パンクという言葉とは縁とゆかりもない透にとっては実用品以外の観点でしか見ることができないものだ。いや、透にとってというより、ほとんどの人間がそうであろう。あくまで無機質な物の見方こそが、マジョリティだ。
が、天才に一般論は通用しない。
香澄にとっては、安全ピンは十分鑑賞に耐えうる装飾品なのだろう。あるいは美術品か、あるいはキャラクターなのか。マジョリティには見えない可愛らしさが、彼女には視えているようだ。
「わかりませんか? あんなに可愛いのに」
「うーん……そうかなあ」
「可愛いですよ。あの控え目な感じがいいじゃないですか。けっして主役にはなり得ない、目立たないものの良さがあります。それにほら、私、繋ぎ止めるものが好きじゃないですか。鎖とか鉄輪とか」
「初耳なんだけど。お前ってそんな物騒なものが好きだったの? ちょっと怖いんですけど」
「そんなことありませんよ。使うとしても兄さん以外には使いませんから」
「会話が噛み合っていないんだよなあ」
冗談ですよ、と香澄は破顔する。
「まあ、安全ピンを好きなのは本当ですけどね。兄さん知っています? 安全ピンって、イギリスでは労働者階級の若者たちが反逆の意思を示すために使っていたんですよ。あと、そうですね……少し前ですが、ヘイトクライムが海外で増加したことがあったじゃないですか。そのとき、差別にさらされるマイノリティの支援者たちが、自分たちが安全であることや、差別に対抗するために連帯していくことへのシンボルとしても使ったんです」
「……へえ、知らなかった。恥ずかしいけど、あんまりニュース見ないからなあ」
「私達が小学生のときの話ですから、知らなくても無理ないですよ」
香澄はそう言うと、左耳についたピアスを宝物を扱うように触った。三つの黒色の安全ピンは、もう彼女の容姿の一部として馴染んでいる。店先で、母親の形見のピアスを取り替えたときに感じた違和感はなくなっていた。
香澄が口を開こうとすると、回送電車が通り過ぎた。高速で過ぎていく車両には、当然ながら人は一人も乗っていない。人という色を知らない無機質が、腹の底に響くような音を立てて通りすぎていく。
その中に。
ほんの一瞬、人を見た気がした。
黒い人影。かなり大きかった。ホームにいる他の乗客の影か? いや、それにしては鮮明すぎた。確実に中にいた。
そして、確実に笑っていた。
あれは――どこかで。
「……なあ、香澄。見たか?」
「なにをですか?」
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
気のせいに決まっている。
回送電車に、人が乗っているわけがないのだから。もし見たとしても、きっと鉄道会社の関係者か何かだろう。
「そういえば、さっき何か言いかけただろ。なんだったんだ?」
「……」
香澄は、じっとこちらを見詰めていた。
「香澄?」
そっか、と小さく呟いて、香澄は相好を崩した。お腹に柔らかく手を当てながら。
透は訝しく思った。今のやり取りのどこに、嬉しがる要素があったというのだろうか。自分の妹ながら理解に苦しむ。
「そういえば」香澄が、何かを思い出したかのように言った。「美来ちゃん、明日誕生日でしたよね」
「えっ?」
唐突な話題変換に、透は一瞬ついていけなかった。
「明日は美来ちゃんの誕生日ですねって言いました」
「……あ、ああ。そうだったっけ?」
「そうですよ。従妹の誕生日を忘れたら駄目じゃないですか。叔父様に怒られますよ?」
「いや、急に話題が変わったからさ。ちょっと出てこなかったんだよ」口調が言い訳がましいものになる。叔父の
「はい。言葉もたくさん喋れるようになっているみたいです」
「一番、可愛い時期だよなあ。赤ちゃんのときも可愛かったけどさ、天使になっているだろうな。……プレゼント何にしてやろうか」
「あまり高いのは感心しませんよ」
「そんな高価なやつは買わないって。そうだ、ブラックナイトの変身セットにしてやろうかな」
「女の子のプレゼントに、それはどうかと」
「おいおい、そのくらいの年の女の子は、意外と変身ヒーロー好きな子多いんだぜ? 美来がブラックナイトシリーズを見ているかは知らないけど、見たら絶対ハマるから。布教もかねてさ」
「そっちが目的なんでしょう? まったく、兄さんはブラックナイトのことになると見境がなくなりますよね……」
「ありがとう、嬉しいよ」
「褒めていませんから、駄目兄さん」
透の冗談をばっさりと切り捨て、香澄は鞄からスマートフォンを取り出した。メールか論文のチェックでも始めるのかと思ったが、違うようだ。表示された画面をこちらに見せてくる。
美来だった。おそらく最近の写真なのだろう。柱にもたれかかり、恥ずかしそうにベロを出してピースサインをしている。
「あ、可愛い」
息をするように言葉がこぼれた。
「先日伺ったときに、ついでに撮ってきました。改めて見ると大きくなりましたよねえ」
「だなあ。子供の成長って早い……」
「可愛いですよね、子供って」香澄は愛おしそうに画面に目を落としていた。「私、幼児が苦手だったはずなんですけど、美来が生まれてからは苦手意識がなくなったんですよね。不思議なものです」
「食わず嫌いしているような感じだったんじゃないか? ピーマンとかトマトとかと同じだ」
「そうなんでしょうね、きっと。……兄さんはどうなんです?」
「あ? 子供は昔から好きだよ。だから、美来が生まれたときは嬉しかったなあ」
「……そうですか。よかったです」
「なにが?」
「美来ちゃんは兄さんに懐いていますからね。そう言ってくれて、本当に嬉しいです」
「兼貴兄みたいなこと言うんだな。お前の娘じゃないのに」
「娘じゃないですが、私の分身みたいなものだと思っていますから」
「捉え方が娘より重くない?」
まあ、それだけ可愛がっているということなのだろう。透としても、妹が歳の離れた従妹を可愛がっているのは喜ばしいことではあった。
香澄は、人に心を開くことがほとんどない。コミュニケーションが苦手というわけではないが、他人に対してどこか壁がある。非常に慇懃で丁寧だが、だからこそ他人に気安くすることがないし、気安くされることも許していない。表面上の付き合いに徹していて、それ以上見せようとしないというか、他人の介入を静かに拒絶しているのだ。
それは、家族にも当てはまることだ。父にも叔父にも、彼女はけっして本音を言わない。建前ばかりを顔に貼り付け、言葉にし、あくまで従順な娘の姿を演じている。
あの血の通わない父親に対してならまだ分かるが、情に厚い叔父に対してすらもそうなのだから、頭を抱えたくなる頑迷さだ。
もう少し人と仲良くした方がいいと何度かアドバイスしたことはあるが、「善処します」の一言で躱されてきた。善処する気など、まったくないくせに。
だからこそ、美来を可愛がるのはいい傾向なのではないか、と透は思った。
幼子が相手ではあるが、これをきっかけに人と触れ合う楽しさを少しでも学んでもらいたいものだ。論文や研究からでは得られないものが、確実にあるのだから。
「……」
会話が途切れた。香澄は、スマートフォンに目を落としている。今度は本当にメールのチェックを始めたようだ。
手持ち無沙汰になった透は、空を眺めた。
いつの間にか、完全に夜になっていた。先程よりも輝きを放つ星々は、確かに鮮烈な美しさがあったが、闇の深みの中で囚われてもがいているようにも見えた。
電車は、まだ来ない。
どうやら人身事故があったようだ。駅員からのアナウンスが流れている。だいたい二十分ほど遅れるとのことで、思わず溜息をこぼしそうになった。
キリギリスの声が、飽きることなくさざ波を起こし続けている。闇の中で轟く生命の息遣いを一掃するように、向かい側のホームで電車の到着を告げる甲高いベルが鳴った。
向かいの電車が入ってきた。
ふと、何気なく香澄の方へと視線を向けると、彼女はこちらをじっと見詰めていた。
「ねえ、兄さん」
「……なんだよ」
「先程の話の続きですけど」
「先程って、美来の話か?」
「いえ、そっちではなく安全ピンの話です」
「……ああ。その話か」
香澄はゆっくりと頷いた。彼女の栗色の瞳が、少しずつ闇を吸い込んでいくかのように暗くなっていく。吸い込まれそうなほどに深い。
香澄は左耳のピアスにそっと手を当てる。
「安全ピンは、安全を示すために使われたと言いましたよね?」
「……うん、言っていたな」
答えながら、透は奇妙な違和感を覚えた。
なんなんだ一体――。
夏なのにも関わらず、寒気を感じていた。
「私も、示したかったのかもしれません」
赤茶色く濁った瞳の奥の奥。
透の影が、その中に囚われている。
「この世界で、私だけが安全であることを」
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