第二章 一




 誰かを守れる人間になりたい。


 透が進路調査票に研究者と書かずに警察官と書いたのは、そんなささやかな願いがあったからだ。


 ブラックナイトほど、救えなくてもいい。

 ただ、自分の見える範囲の人たちだけでも助けたかった。


 少しでいい。少しでいいから、ブラックナイトのような強いヒーローになりたかった。柔道や空手を始めたのも強くならなければ誰も助けられないと思ったからだし、ボランティア活動に顔を出すようになったのも「ヒーローらしいこと」をしたいという安直にすぎる動機があったからだ。進路に警察官と書いたのも、言うまでもない。ヒーローなんて仕事はないのだから、警察官になるしかないと思ったのだ。


 彼の願いは、言うならば幼稚だった。それは透もわかっていたことだが、彼はその願いを恥ずかしいことだとは思っていなかった。


 たとえ、小学生に上がる前に忘れてしまう夢だと馬鹿にされようと。


 彼にとっては、切なる夢だったのだ。


 母親を強盗に殺された、透にとっては。






 あれ以上の苦しみはないと思っていた。


 母親を殺された経験より悲壮なものなど、想像できるわけもないだろう。


 だが、あの事件から十年が経ったいま、想像にも及ばなかったはずの経験というものに、次から次へと襲われている。


 妹に監禁されたうえに虐待を受け、ようやく逃げ出したと思ったら、街が死体で溢れかえる地獄になっていて。


 透を殺そうとした化け物たち。


 その化け物を殺した香澄。化け物たちが頭を垂れるほど、恐ろしい怪物の姿へと変わった妹。


 夢だ、と信じるしかなかった。


 これが、現実の光景なわけがない。


「心配しましたよ」


 香澄は、足元に転がる腐った肉塊など歯牙にもかけなかった。ローファーで踏みつけても、昆虫を踏みつけたくらいの不快感や罪悪感さえ沸かないようだった。


 透のもとにきた香澄は、靴底にこびりついてきた茶色い皮膚を蹴り剥がし、ゆっくりと顔を近づけてきた。


 透は、尻餅をついたまま後退る。


「くるな」


「……」


「くるなよ、化け物……!」


 香澄の表情が凍りついていく。膨張した右半身に開いた無数の瞳が、一斉にこちらを睨んだ。


「ひっ」


 にいさん、にいさん、にいさん、ひどい、かわいい私に、自分のツマに、こどもがいるのに、わたし可愛くない? みにくい? きれいですよね? きらわないで。大好きだよね? 大好きだよ。小さい頃から。赤い糸。運命デスもの。あははっ。わたしだけみてて。ほかをみないで。ほかをコロシますから。ほかを、ほかを、ほかを。


「そんなこと言うんですか。かわいい妹にむかって」


 無数の声がした。すべてが香澄の声で、しかし透の知っている秀麗な響きは欠片もない。膨れた肉塊が、声がするたびに蠢いている。どこかに口があるのか。不気味なコーラスをつくれるほど。


「なんだよ、なんなんだよ!」


 この夢はいったいいつまで続くんだ。


 はやく、覚めろよ。


「オレが、何をしたってんだよ! どうしてこんな酷い夢ばかり」


「安直なこと」


 ころころと香澄は嗤った。


「三流漫画の主人公ですか、兄さん。夢、夢って。自分が理解できない現実をそうやって解釈して逃げようとするの、防衛機制にしても御粗末に過ぎますよ。ヒーローになりたいくせに逃げ癖があるなんて、可笑しいですね兄さんは」


「あああっ!」


 叫ぶしかできなかった。透は頭を抱えて掻きむしりだした。


 香澄への恐怖から開放されたのか、化け物たちが嘲笑いだした。耐え難い下品な声が渦となり、獣臭い息の熱さに吐きたくなる。その中で、どうして香澄は平然としていられるのか。化け物たちの中心にいながら笑えるのか。


 頭がおかしい。


 いや、すべてが決定的に歪んでいる。


 歪曲した世界。


 あまりにも醒めない悪夢。


「仕方ないですね」香澄が、溜息をついた。「現実を分からせてあげましょうか」


「え」


 衝撃が、両足を貫いた。


 熱い。透は視線を両足に向けた。穴が空いていた。太腿に、千切れそうなほどの巨大な穴が。


 焼かれるような痛みが、爆発した。


「――」


 声にならない絶叫が、透の喉を破壊する。


 太腿の細胞の一つ一つが、発狂しているかのような激痛だった。痛みの上に、次々と熱した痛みが注ぎ込まれていき、溢れかえっても止まることがない。痛い。痛覚神経が悲鳴を上げるほどの、圧倒的な痛さの波だった。


 壊れた排水管のように、血が噴き出した。透は、白目を剥いてのたうち回った。


「わかりました? これが夢ではないことが」


 香澄は、なんでもないようにそう告げた。兄の苦しむ姿にも、アスファルトに広がる鮮血にも眉一つ動かそうとしない。


 それどころか、彼女の表情は氷よりも冷たかった。


「憤慨しているんです」香澄は言った。「あれだけお願いしたのに。あれだけお世話して尽くしたのに。兄さんは逃げたのですからね。もうただのオシオキだけでは済ませられませんよ、ええ」


 香澄の握られた手が震えていた。


「最初からこうすればよかった。こうすれば、兄さんもも、馬鹿なことなんて考えなかったはずですよね。悪いことをする脚なんて、なくしてしまえばよかったんですよ」


 私が馬鹿でした。


 香澄はそう言って何もない空間に手を伸ばす。そこには、たしかに血が滴っていた。


 その血を指で掬うと、彼女は口の中に運んで舐めた。


「……ああ。兄さんの血。いつ舐めても甘露ですね。まるで濃厚な巣蜜のようです」


 透は思い知った。


 狂気の世界にいるのだ、と。


 この痛みが、狂った現実を嫌というほどに教えてくる。夢なんて見ていなかった。そんな都合のいい幻想は、透のいる世界には存在しない。


 透は、這うようにして動いた。明滅する意識の中で、必死に逃げようとしたのだ。


「さて」


 そんな透を、悪魔が許すはずもない。


「まだ、脚はついてますね。――千切れるまで刺しましょうか」


「やめ」


 言葉が終わるより先に衝撃がきた。


 右脚が脱輪したタイヤのごとく道路を転がった。つんざくような悲鳴をあげて悶え苦しむ透に、香澄の容赦ない破壊は続く。左脚に、強烈な熱がねじ込まれた。絶叫。左脚は、かろうじて皮一枚で繋がっていた。香澄が笑いながらその脚を掴み上げ、カブを抜くがごとく捻じりとった。


「これで、断捨離できましたね」


 香澄は、用をなさなくなった脚を投げ捨て、満足そうに言った。


「うふふっ、兄さん、まるで『芋虫』じゃないですか。知ってます? 乱歩ですよ。私の大好きな作品の一つです。あの作品を読んでから、たまに『あんな感じで兄さんと二人だけで過ごせたら幸せだろうなあ』って夢想したものです。まあ、でも、私は優しいですからね。兄さんを傷つけすぎるのもどうかなって思っていたんですよ。でも、仕方がないですよね。逃げた兄さんが悪いんですから」


 透に、香澄の戯言を聞き分ける余裕などなかった。


 蟹のように口から泡を吹きながら、白目をむいて痙攣している。血が流れ続けていたのだ。死に至ることを予感させる夥しい血が。


「大丈夫、死にませんよ。その程度では」


 香澄の声は、遠かった。


 死なないと言ったのは、わかる。だが、虚言としか思えない。深い闇が、猛烈な眠気を伴い、透の意識を蝕んでいく。


 死に至ることが、幸福だとさえ思えた。


「はやく血を止めろ」


 香澄が、言ったのか。


 闇の底で感じた幸福が一瞬で枯れていくほどに、その声は怒りに満ちていた。


「――王に、殺されたいのか?」


 意味不明な言葉が、馬鹿みたいな事態を起こした。


 水を掛けられたかのように、急速に意識が覚醒したのだ。失血でいまにも消え入りそうになっていたのに、火がついたがごとく視界が晴れていた。


 灰色の世界。肉塊と血の雨に濡れた街。無数の化け物。


 恐怖を具現化した、少女の皮を被った悪魔。


「わかればいいんですよ。……まったく、最初から大人しく言うことを聞いていればいいのに」


「……」


 血が、止まっていた。


 それどころか傷口が塞がっていた。両足は膝から下がなかったが、その断面にはまるで痛みがない。


 もはや、疑問すら口をつかなかった。


 感覚が麻痺しつつあるのか。それとも狂ってしまったのか。驚きよりも、呆れにも似た疲労感に襲われていた。


「あれ、驚かないんですね? びっくりした顔を見られると思ったのですが」


 香澄は、意外そうに首を傾げた。


「まあ、別にいいんですけど。驚かないなら驚かないで。なだめる手間が省けてよかったですよ」


「……」


「それにしても兄さん、勿体ないことをしてしまいましたね。もうすぐで私たちの『楽園』は完成していたのに……。あと少し待てなかったせいで、これから一生歩くことができなくなったんですから」


「……らく、えん?」


「はい。楽園です。害虫のいない、私達二人だけの世界のことです」


 香澄は、街の方へと視線を投げた。


 その先に転がる無数の肉塊に想いを馳せているのか。陶然と濡れた赤い瞳。酔いしれるように、快楽へ溺れるように、香澄の表情は緩んでいく。


「――兄さんと私だけの理想郷をつくる。それが、幼い頃からの私の夢でした」


 独白が、始まった。


「ずっと、怖かったんですよ。ずっと、嫌だったんですよ。兄さんが、他の害虫どもと仲良くするところを見るのが。でも、害虫どもの作り上げた社会で生きていく以上、やつらとの接触はどうしたって避けられませんから。それに、私も兄さんのことを四六時中見ているわけにはいきませんでしたしね。害虫どもに毒されていくのは、致し方ないところがありました。……だったら、どうすればいいのか? 幼い私は考えました。そして、思いついたのですよ。もっとも合理的で、もっとも確実な方法を」


 香澄は言葉を切った。


 透を見詰め直す。


 赤い瞳が、透の引き攣った顔を吸い込むように捉えて離さない。子供が待ちわびたプレゼントを、じっと見つめるように。


 純粋ですらあった。


「この世から、兄さんと私以外の人間がいなくなればいいんです。それですべてが解決しますよね」

 

 

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