1-11.レディ・グロリアの手帖


 翌朝。

 スーリが目覚めたときにはジェイデンの姿はなかった。怠惰たいだな彼女とちがってジェイデンは早起きなのだ。たいていは鍛錬たんれんに出ているらしいが、今朝の書き置きにはアグィネア姫と話してくるとあった。


 スーリは館内を散歩しながら、ロサヴェレの短い滞在についてふり返ったりしていた。ふたりは今日、ダルクールへ戻る予定なのである。だが、駆け落ち王太子ことジョスランはどうするのだろうか?


 正餐せいさん用の広間には酔いつぶれた従者たちが倒れふしていた。なかには騎士の顔も見える。

「スーリ殿」

 屋敷のあるじ、ヘクトルがやってきて、彼女に朝の挨拶をした。よく眠れたか、出立の準備ははかどっているか、などといった当たりさわりない話のあとで、「じつは、昨晩遅くにドーミア皇帝から非公式の親書が届きまして」と教えてくれた。


「ちょうど大祭の時期でもあり、王太子殿下とアグィネア姫を王宮にお招きしたいという内容でした。これで、ドーミア行きの名目が立ちます。騎士たちもそのお供という形になるでしょう」

「まあ」

 思いがけずスムーズな展開に、スーリは口もとをおさえた。昨晩は騎士たちが館にやってきて、一時は一触即発いっしょくそくはつの雰囲気だったのだが……。

 手紙のスピードからして、ジョスランはあらかじめ弟に来訪を打診だしんしていたのだろうとヘクトルは言った。

「『駆け落ち』などという過激な言葉を使っていたのは、要するにわれわれをおどろかせてやろうという殿下の稚気ちきなのでしょう。じっさいには、諸侯たちも今回の件は婚前旅行と理解しているようです。リグヴァルト王も、まだ表立ってはなんのお言葉も出されていません」


「では、これで事態は解決したと思っていいのでしょうか?」

「そうですね……、王妃殿下のお怒りを思うと頭が痛いですが、そこはジェイデン殿下におまかせするしかありませんな」

「きっとわたしのこともお怒りにちがいないわね」

「私のこともですよ。あなたを養女にして、殿下との結婚を後押しするわけですからね」

 ヘクトルは苦笑した。「しかしきっと、ヘイミル王のご加護があるでしょう。彼の妃も、魔女と呼ばれた美しい女性だったそうですから」

 三百年も前の男がいまさら、子孫たちに加護をもたらすとは信じられなかったが、スーリはうなずいておいた。彼女にもこれくらいの社交性はあるのだ。


 ♢♦♢


 ヘクトルとの立ち話がすむと、スーリはそのまま、弟ルラシュクの部屋へ向かった。森のわが家に戻るまでに、教師役から宿題に出された古ドーミア語の戯曲を読もうと思っている。その勉強に、辞書が必要なのだった。


「古ドーミア語の辞書? たぶん持ってきてると思うけど」


 ルルーはそう言って、荷物の入った革袋のなかを弟子のマルクに探させた。


「緑で金文字の表紙のやつですかぁ? 見当たらないなあ」

「そんなはずはないだろ。しっかり探せ」

 姉にむかって、ルルーは「まったく、弟子なんてるもんじゃないね。荷物の管理くらいしっかりしてほしいよ」とぼやいた。


 少年が持ってきた本を手に、ルルーは首を振る。

「いや、サイズは似てるけどこの手帖じゃなくて……あ」

 と言いかけて、それを手に固まった。

「なに?」

「すっかり忘れてた。これ、姉さんにわたそうと思ってたんだった」

「この手帖てちょうを?」

 スーリは手帖を受けとった。緑の表紙に金文字の装飾が入った、かわいらしい印象のものである。


「レディ・グロリアの日記だよ。エトリから僕あてに送られてきてね、姉さんにわたしてほしいとメモが残してあった」

 ルルーがそう言って、微妙に顔をしかめた。

「……ただね、これをわたしたものかどうか、ちょっと悩んでしまって。持ってはきたけど、それで忘れてたんだ」

「悩むって、なにを?」


「その……、姉さんから聞く彼女の人物像と、日記の女性がちょっとかけ離れてるような気がしてさ。読んだら、姉さんががっかりするかもと思って、ためらってるうちに忘れちゃったみたい」

「……」


 スーリは手帖をひらくかどうかしばらく悩んだが、けっきょくはぱらぱらとめくってみた。いかにも貴族女性らしい流麗りゅうれいな筆跡がならぶ。


――〇月×日 今日で、この城に軟禁なんきんされてひと月が経つ。夫のもとに帰れるかどうかわからず、不安でたまらない。


――こちらから手紙を送るも、夫より返信なし。アーンソールによりはばまれているのだろう。


――本も薬草も心もとなく、日中の時間を持てあましてよくないことばかり考えてしまう。


――どうして夫は助けをよこさないのだろうか? 郷里さとと協力して、公にはたらきかけてくれてもいいのに。


「……」

 スーリは紙をめくりながら、恩人たる女性に思いをはせた。彼女が知っているレディ・グロリアはいつも毅然きぜんとしていて、なにごとにも動じず、意見というものをはっきり持っていた。それでいてユーモアとやさしさを忘れず……。彼女のそばにいると、スーリは大樹のそばにいるような安心感をおぼえたものだ。


 だがルルーが言うとおり、この手帖につづられたレディの心境は、苦悩に満ちて弱々しかった。愚痴っぽくなったり、夫や実家への不信感すらつづられていた。献身的に尽くしてくれるダンスタンに対しても「話し相手としてみると夫のようなおもしろみがない」と言ったり。


 たしかに、それは日記とは言いづらい。スーリは眉をひそめながら、さらに読みすすめた。……しだいに内容は深刻味をまし、そして彼女自身のことが日記にあらわれた。


――あのかわいそうな少女をかくまって、助けてやりたいが、自分にふりかかる災厄さいやくのことを思うと積極的になりきれない。


――あの少女が、無自覚にとはいえ、わが郷里の兵士たちを殲滅せんめつさせたと思うと……悪いのは公だが、黒い感情をおぼえてしまうことがある。この手帖にだけ書き残すことにする……。


 スーリはある程度読みすすめてから、ぱたんと手帖を閉じた。ルルーがこちらをうかがっているのが見てとれる。姉がショックを受けないかと心配だったのだろう。


「……レディ・グロリアがなぜこの手帖をわたしにくれたのか、わかる気がするわ」

 彼女はルルーにそう告げた。

「あんなにすばらしい女性でさえ、完璧ではなかった。弱さがあり、他人をねたんだり信用できなくなったりした。それも当たり前よね。家族から引き離されて幽閉ゆうへいされていたんだもの」

 そして、革の表紙を指でそっと撫でた。

「でも、それをわたしたちには見せなかった。手帖のなかだけにしまって、わたしたちにたいしては良い人間でありつづけた。けっきょく、それがいちばん大事なことだったんだわ」


「そしてそのことを、わたしに知っておいてほしいとレディ・グロリアは思った」


「自分は完璧な人間ではなく、弱いところも醜いところもある人間なのだと、彼女は言いたかったんじゃないかしら。だから……わたしが、彼女のような人間になりたいと思うなら……、自分の弱さや醜さを、受けとめてあげてほしいということだと思うの。それが、彼女がわたしにつたえたかったことなんだと思う」


「そうか」

 ルルーはほっとした様子になった。「うん。そうだね」


 それからまた荷造りや今日の予定の話になった。ドーミアでの〈塔〉大会が終わったら、また森の家へ寄ってくれるらしい。身体に気をつけてね、家に来るのを楽しみにしてるわ。姉さんこそ、お金を使いすぎないようにね……。


 非凡なふたりの魔女の、平凡な当たりさわりない会話。しばしの別れのあいさつをして部屋を出ていこうとしたスーリの背中に、ルルーがふと声をかけた。


「あの悪魔が見せた、姉さんの過去は……」

 

 スーリは立ちどまってふり返った。


「あれを見たのが、僕じゃなくてジェイデン王子でよかったのかもしれない」

「? そうかしら」

「僕はけっこう臆病おくびょうなんだ」

 急にそんなことを言う。ふたりがまだ瓜二つだった子どものころ、めずらしい毛虫を手にのせて見せたら青くなって泣きだしたことを思いだして、スーリはおかしかった。

「知ってるわ。……でも、あなたはかわいい毛虫は怖がるけど、ほんとうにおそろしいものにはちゃんと立ち向かってきたと思うわ」

「そうかな」

「ええ。……頼りにしてるわ、ルルー」


 それが、この夏に姉弟きょうだいが交わした最後の会話になった。こののち、ドーミアの〈塔〉大会で大魔導士ルラシュクは予想もしなかった騒動に巻きこまれてしまい、姉に再会できたのはずいぶん後になってしまった。


 しかし、それはまた別の話である。

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