9-2.遠雷、そして陽が沈む前に
ふたりは
「雨か」
だれかの声。地面にぽつぽつと、水の輪がひろがった。
「今日は降らないと言ってたのに。あの魔術師はヤブだわ」
「
「そうね」
恋人たちの会話が遠ざかっていく。ずぶぬれになるほどではないが、ぱらぱらと雨が来かかっていた。
雨……。
ジェイデンは一気に気分が重くなった。今日こそ、プロポーズの返事を聞こうと思ったのに。そのためにロマンチックな景色が楽しめる場所をえらんだのに、しょっぱなから地獄の混雑に
ポケットに手をつっこむと、スーリ用に持ってきていた菓子の包みが死んだ小動物のように丸まって出てきた。
「今日はダメだな、失敗ばかりだ」
隣で失望しているかと思いきや、スーリはなぜかおもしろそうな顔をしている。
「あなたにもそういうことがあるのね」
そう言うと、彼の手のひらから濡れた包みをつまみあげた。「あとでよく乾かせば、食べられるわよ」
せっかくの夕焼けも雨では拝めないと判断したのだろう、黒山の人だかりだった遺跡前の広場からも、しだいに人影が消えていった。さきほどまでの大混雑が嘘のように、静けさのなかで雷鳴が響いてくる。
「これ、ルラシュクの雷じゃないか?」
ジェイデンは冗談めかして言った。「きみとここに行きたがってたのに、おれが先を越したから、ヤキモチを焼いてさ」
「そうかもしれないわ」
スーリは笑った。ふさふさした小さな生き物のようなギンバイカの花が、白い顔のまわりをふちどっている。緑のなかの白い女王のようだ、とジェイデンは彼女にみとれた。
「子どものころ、海に雷が落ちるのを見るのが好きだったわ。紫色に光って、はげしい音がして、とてもきれいだった」
スーリは続けた。「今でも好きよ。雷はルルーのものだから」
ルルーの雷か……。そう思うと、この自然現象へのおそれもすこしやわらぐ気がする。ジェイデンはスーリを胸に抱き寄せた。しっとりと濡れた髪から甘い匂いが立ちのぼる。ギンバイカの匂いにまじったその香りは、たまらなく彼を駆りたてた。彼女の目をうかがい、眉の上に口づけ、唇をあわせた。あの過去を見たあとでは当分、そんな気にはならないと思っていたが、残念ながら男の欲望はそう簡単に処理できないもののようだ。
♢
スーリもジェイデンを見つめていた。濡れたダークブロンドはほとんど黒く見え、そこから滴った水が、高い鼻筋へと流れ落ちている。いつも笑みを浮かべているので柔和に見えるが、触れると男性的なラインに気づかされる。
「怖い?」
「いいえ」
「……よかった」
ジェイデンはそう言うと、しばらくそのまま彼女を抱きしめていた。いったいなにを思っているのか、ふだんの彼からは想像できないほどの腕の強さだ。まるでなにかにおびえているように、スーリには感じられた。
「なにか、怖いことでもあったの? 鏡の悪魔の魔法にかかって……」
そう尋ねると、耳もとでかすかに笑った気配がした。甘い息が耳をくすぐる。
「そうだな。怖かったよ」
ジェイデンはつぶやいた。「きみをすごく近くに感じたし、二度と触れられないかと思うほど遠くも感じた。……スーリ、おれが見たのはきみの過去だったよ」
「わたしの過去……」
スーリの胸がすっと冷えた。サロワの寒村で生まれ、王宮とはほど遠い劣悪な家庭に育ち、魔女と化した母親が故郷をほろぼした。そしてアーンソールに拾われた。平穏を得たと思ったのもつかのま、戦争兵器として利用され、そして……。
「不可抗力だったけど、見てしまった。すまない」
「いいえ……。いつかは話さなければと思っていたわ。うれしいことじゃないけど、見てもらってよかったのかもしれない」
「わたしの母は魔女になって村を焼いた。わたしもおなじように魔女になり、サロワの戦争兵器になってしまった」
スーリは顔をあげずに続けた。「わたしにふさわしい場所は戦場か、あの貧しい村なのかもしれない。アーンソールのもとから逃げだしてきたことさえ、まちがいだったかもしれない。わたしがいるべきは、あなたの隣ではなく……」
腕の力が強まって、ジェイデンが彼女をしっかりと抱きしめてくれていたのがわかった。スーリの心はまだ迷っていた。ジェイデンのことだけではなく、歩きはじめたばかりの第二の人生のなにもかもに圧倒されていた。お金はあるだけすぐに使ってしまうし、外に出るのは苦手だし、まだサロワ王の影におびえていた。こうやってジェイデンに抱きしめられていると身体がとけそうなほどに安心する。だが、それは彼にとってよいことなのだろうか? ……
ずいぶん長いことそうしていたような気がするが、ほどなくしてジェイデンの声がふってきた。
「雨が上がったよ」
「やっぱり、水道橋のいちばん上に登ってみたいわ」スーリは迷いながら言った。
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