8-3.ジェイデン、小さな悪魔と契約成立する

 選んだのは城の図書室だった。

 『本棚は持ち主をうつす鏡』と、スーリが言っていたことを思いだす。たしかにここはアーンソールの魔法への傾倒をあきらかにしていた。鎖でしばられた稀覯きこう本の列をながめながら、奥へと進んでいく。


 部屋の四方は壁一面に棚が埋めこまれている。上の書架から本を取るための移動式のはしごの影で、ジェイデンは彼女を見つけた。


「スーリ。……いや、悪魔イェムドゥーシャ」

 かがみこんで呼びかける。「迎えに来たよ」


 十歳にも満たない、おさない少女が、そこにちぢこまっていた。白い髪におおわれて顔が見えず、毛むくじゃらの小さな生き物のように見えた。呼びかけると怖がって、いっそう陰に隠れようとする。

「きみはスーリの姿をしているんだね。スーリがおそれているのは、やはり、自分自身なのか」

 予想が当たったとはいえ、複雑な気分でジェイデンはつぶやいた。あれほどの能力を持ちながら――いや、その能力の大きさゆえに、スーリは自分をおそれている。暴力的だった父親や、彼女を蹂躙じゅうりんしたアーンソールよりもずっと。そう思うと、彼女の抱える孤独があまりにも深く感じられる。


「お腹はすかない?」ジェイデンは尋ねた。

「すいた。でも、わかんない」

「ずっと食べてないから?」

「うん」

「食堂にいっしょに行こうか? 動けないなら、なにか持ってきてもいい」

 とはいえ、食堂がまだあればの話だが。ここはスーリ自身の過去を城に見立てた不思議の部屋ヴンダーカンマーであり、その動力源であるヒューマニスが立ち去ったために、あちこちが崩れかけていた。


 少女の姿をした悪魔はジェイデンに手をひかれ、すなおに着いてきた。が、図書室を出たところで、やはり不安が的中した。廊下は奥にある部分から崩壊が進みはじめている。


「ここはもう崩れる。いそいで外に出よう」

 そう声をかけるが、悪魔はなかなかその場を動こうとしない。

「出たくない。わたし、消えたくないもの」


「消える?」

 ジェイデンは問い返した。「ここから出ると、きみは消えてしまうのか?」


 悪魔はかわいらしく首をかしげた。「すぐじゃないけど」

「でも、近いうちにそうなる?」

 ジェイデンが水を向けると、小さな悪魔はあいまいにうなずいた。

 灰色の大きな目で見あげて、悪魔イェムドゥーシャは続ける。

「『魔法とは世界を観測するための窓だ。だが、外へ出るための扉ではない』と、ヒューマニスは言ったの。『彼女が扉を開けて外に出る日に、魔法という窓は役割を終えて消えるだろう』と」


「窓か」

 ジェイデンは彼女の手をひいたまま、考えこんだ。『魔法とは世界を観測するための窓』。それは比喩ひゆではなかった。すくなくともスーリの過去のなかで、窓はつねに重要な役割をもっていた。窓をひらくとあらわれた鏡の悪魔。アーンソールの前に悪魔があらわれたときにも、その背後に大きな窓があった……。


「そうなったら――魔法が消えたら、きみも消えるのか?」

「たぶん」

 悪魔は首をかしげた。さざなみのような白い髪が額をさらりと落ちる。「わたしはヒューマニスやケブラストルみたいに歳を取ってないから、不安定なの。そのぶん、魔法の力も大きいんだけど。スーリといっしょに成長できないと、消えてしまうかも」


「そのほうがいいの、ジェイデン王子?」

 悪魔が問うた。「王子さまのキスで魔法が消える。それがしあわせな結末なの? お姫さまのもつ魔法が失われてしまっても?」


 ジェイデンは答えようとして、その余裕はないことに気がついた。崩落音はますます激しくなり、視界の奥では部屋ごと消失しかかっている。崩落していく食堂からか、オレンジの実が転がってきた。悪魔はしゃがみこんでそれを拾ったが、オレンジはさらさらと砂になって消えてしまった。


「わからない」

 ジェイデンは彼女の手をひいて走りながら、正直に答えた。「きみの魔法とおれとの人生のどちらかを、スーリが選択しなければいけない日が来るのかもしれない。でも、それはおれたちが決めることじゃない。彼女の選択だ」


――魔法とは窓であって、扉ではない、というヒューマニスの言葉について考える。魔法を介して世界とかかわることは、真の成長ではないという意味なのだろう。だとしても、その力はスーリ自身と深く結びついている。ジェイデンにとってのフィリップの存在のようなものだ。たとえいつか牙をむくとしても、そのすべてが悪というわけではない。その力が彼女を守り、救われたこともあったはずだ。


 いずれ、彼女がその巨大な力と向き合う日が来るのだという予感がした。そのとき、おれは……、傍観者ではなく、彼女とともに戦える男でありたい。ここでこうやって、ヒューマニスや彼女の悪魔とかわした会話は、そのときの武器になるはずだ。


 目の前に、崩落してきた壁。ジェイデンは悪魔を抱えてよけながら、さらに出口へ向かって走る。

 やれやれ、足の速さだけでは彼女を救えないと言ったのはルルーだったか? スーリの記憶のなかで、こんなに走ることになろうとは思わなかった。


「ヒューマニスがきみのことを心配していたよ。消えてしまいたくないのなら、なにか方法を探そう。おれもいっしょに探すから」

 走りながらの会話。

「あなたを信用していいの?」と悪魔は尋ねた。


「そんなふうに聞いちゃだめだ。そこでノーと言う人はいないからね」

 ジェイデンは苦笑した。「おれはスーリのしあわせが第一だけど、きみの協力がなければ、それは難しい。だからきみに協力してもらえるように、おれも手を貸す。これでいいかい?」


 悪魔はしばらく考える間をおいてから、こっくりとうなずいた。「いいわ」


「契約成立だ」

 ジェイデンは周囲を見て立ちどまり、彼女に手を差しのばした。「じゃあ、出口まで抱かせていってくれる?」


 悪魔はすなおに抱きあげられたが、「どうして?」と尋ねた。


「大きな声で言えないけどね、アーンソールが子どものスーリを抱っこしていて、嫉妬したんだ。子どものころからあんなにかわいいんだもんな、まいるよ」

 ジェイデンは口はしに笑みを浮かべた。「やましいから、これは、スーリには秘密」

 そして彼女を抱えて、思いっきり走りだす。


 青年の腕のなか、悪魔はスーリの顔できまじめにうなずき、「秘密」とくり返した。

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