8-2.名前を教えてくれ

「そうだ」

 悪魔は思いついたように言った。「おまえにも能力を与えてやろうか?」


「なぜだ?」

 ジェイデンは問い返す。「成人男性のおれは魔女にはなれないか、なったとしてもたいした能力は持てないはずだ。アーンソール王とおなじように」


「うーむ、まあ、そうだな」

 悪魔はすなおに認めた(あるいは、そういうふうに取りつくろった)。「ただ、おまえは私のほしいものを持っているとわかったので、交換を申し出ただけだ」


「おまえが欲しいものを、おれが持っている? アーンソール王のときのようにか?」

「そうだ」

 悪魔はうなずいた。「人間がわれわれと交換するのに使える資質は、当人がそうと知らずに持っているものであることが多い」

 そして、残忍さがかいまみえる笑みを見せた。「あの男が持つもので真に価値があるのは、だけだ。『騎士の高潔な魂』などではない、ということだな」


「人間の価値は、おまえが決めるものなのか?」

 ジェイデンはたんたんと言った。「その調子では、おれに見出した資質とやらもたかが知れているな。……おまえは、でもある。そうだろう?」


「それも見抜いたか。まあ、やつの過去があれほど鮮明に出てくれば、さもありなん」

 悪魔は机の前に立ち、そこに置いてある本を上に積み重ねた。そういう動きをすると、まるで人間の魔導士そのものだ。

「では、やつの魔法もおぼえているな? 私は、時間にまつわる魔法を人に与えられる」

 明るい緑の目をこちらに向けて、悪魔はそう提案した。


「時間を巻き戻すこともできるのだよ。フィリップ伯を助けることができる。むろん、それなりの対価はいただくことになるが」

 

 フィリップ伯。父の親友。親友の父でもある。家族同然に育ち、もしかしたら父よりも長い時間を過ごしたかもしれない男。「ジェイデン」と呼びかける荒っぽい声や、目もとの笑いじわ……。それを、取り戻すことができるかもしれない。誘惑は大きく、その力に目をあけていられないほどだった。


「おれは……。やめておくよ」

 ジェイデンは迷いながら答えた。

「過去をやりなおせば、フィリップがやったことを止められるかもしれない。オスカーの苦しみも取りのぞけるかも。……だが、いつ、どこまでやりなおせばいい? 短刀でおれに襲いかかろうとしたときか? 狩りの誘いを断ったとき? 秋にイドニ城へ行かなければよかった? それとも、伯がおれにはじめて剣を握らせたあの遠い日か?」

 ジェイデンのなかにつぎつぎと、なつかしい過去があらわれては消えた。あたたかい感情がとめどなくあふれ、自制していた心が引き絞られるように痛んだ。

「いいや、鏡の悪魔。フィリップとおれのあいだの糸は深くもつれていて、正しいものだけをり分けることはできそうにない。それでもおれは伯を愛していたし、彼にもおそらく、そんな瞬間があったと思う。正しくなくとも、これがおれたちの結末だ」


 悪魔はジェイデンの苦しみを興味ぶかそうに見守っていたが、「ふむ。まあよかろう」とうなずいた。

 

「おまえと契約するのはいったん、あきらめよう。さきほどの取引は忘れていないな? 彼女の悪魔を見つけ、私と対話するよう仕向けてくれると?」

「それは約束しよう。その悪魔が対話をこばんだ場合も、理由だけはつたえられるよう努力する」

 ジェイデンは部屋を出ようとしたが、ふと思いたってふりかえった。

「最後に、名前を教えてくれ。鏡の悪魔」


 悪魔は緑の目をぱちぱちさせて驚きをしめした。

「契約しないのに、私の名が必要なのか?」


「せっかくだから、知りあいになっておこうと思って」

「『何者だ』とはよく聞かれるが、悪魔と知って名を尋ねられたことはないぞ。おかしなやつだ。そう言われないかね?」

「たまにね」

 ジェイデンはいつもの調子で肩をすくめた。「だけど、うちの兄弟はみんな変わってるらしいから」

「足が速く、現実を見る賢さと胆力があり、おそれ知らずでもある。……盗賊むきの資質だな」

「いちおう、これでも王子なんだけど……」

「王と盗賊にもとめられる資質はほぼおなじだよ、リグヴァルトの息子。だが、王にだけもとめられるものがあり、おまえはそれを持っている。……それこそ、私がおまえから欲しいものなのだ」


 王の資質……? ジェイデンには思い当たる節がなかった。

「おれが持っている程度のものなら、兄たちでもよさそうなものだけどな。……でも、おぼえておくよ」

「契約をするつもりがないのにか?」


 ジェイデンはそのことについて、すこし考えてみた。今もロサヴェレの部屋で眠っているはずの女性のことを……。

「おれはこれまで、なにかのために命をけたいと思ったことはなかった。でも、そういう日が近いうちに来るような気がするんだ」


「ふむ」鏡の竜は握手を受けた。「そういう日が来ないほうがよいのだよ、おまえのためには。……だが、楽しみだ。

 私の名前はヒューマニス。鏡の竜ヒューマニスだ」


 ♢♦♢


 悪魔ヒューマニスが消えると、ジェイデンはふたたび、扉の前に立った。スーリの悪魔を探さねば。


 今度は、ケブラストルやヒューマニスを探すときほどの確信はなかった。スーリの悪魔についての情報はほとんどない。


(だが、彼女がなににおびえているのかはわかる。父親や、アーンソールがいる場所ではないはず)


 ひとつめの扉に手をかけようとして、砂が落ちるようなさらさらした音に足をとめた。見ると、扉のひとつがゆっくりと崩れ落ちようとしているところだった。


「ヒューマニスが彼女の夢から出ていったからか。夢が保持できなくなっているんだ」


 急がねば。ジェイデンはやみくもに扉を開くのをやめ、目をつむって考えに集中した。失敗はできない。一度の挑戦で、彼女を見つけ出さなくては。


 自分を鼓舞するように、王子はと笑った。

「……でもおれは、隠れ鬼は得意なんだよ。待っていてくれ、スーリ」

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