7-3.我輩は、貴殿に加勢(かせい)しよう
スーリのなかにある、もっとおそろしく暗い記憶。暴力と
ルルーは「わが暗き窓たる悪魔」と呼び、彼の悪魔は「ルラシュク、わが光さす窓よ」と答えた。そのやりとりと、これまで見てきたスーリの過去の光景が、ジェイデンに「もしかしたら」と思わせたのだった。
分の良い賭けとは思えなかったが、効果は劇的だった。
世界は前後にぶれ、ぐんにゃりと曲がりながら遠くなりはじめる。足もとが不確かになり、回転する景色に吐き気をおぼえる……。
なにかに捕まろうとして手を伸ばすと、案外としっかりしたものに手が触れた。見ると、見慣れない意匠の家具がそこにあった。ゆっくりと目を動かす。もはやそこは、あの部屋ではなかった。洗練された書斎のような場所である。
「窓の秘密に気がついたな、ジェイデン王子。やはり、
おもしろそうな声が返ってきた。「彼女の過去に耐えられなくなったかね?」
「彼女はこの先を見られたくないはずだ」
ジェイデンは顔をあげ、迷いなく答えた。「見せたいのはおまえの側だ。おそらくは、おれに取引をさせるため。しかも、おれからではなく、スーリから奪う気だ」
「おお、おお。なんたる
手を打つ音から、悪魔がおもしろがっているのがわかった。だが、本体となるものは見えない。どこかに姿を隠し、声だけを響かせているのか。
「運よく彼女を確保したのはいいが、過去のなかを探っても、目的のものが見当たらず困っている」
悪魔は言った。「おまえが急に入ってきて、どうなることかと思ったが、その手助けになりそうだ」
「彼女の過去は、彼女だけのものだ。おまえが勝手に扱って、おれを動かす材料にするのは許されない」
「そうはいっても、意識にはたらきかける以外に、こちらも方法がないのでねぇ。おまえが気に入らないとしても、まだやってもらうつもりだよ」
声は邪悪な笑いをにじませた。「彼女の過去を最後まで体験してもらおう。おまえは記憶という森に放たれた猟犬……いや、トリュフを探す豚といったところか」
「おれになにを――」
させるつもりなんだ、という言葉は、途中でさえぎられた。部屋がまたゆがみはじめたのだ。
「くそっ」
このままでは、またスーリの過去に戻ってしまう。あの場面の続きを、ふたたび彼女とともに体験することになってしまう。それは、彼女の尊厳を踏みにじることだ。 ジェイデンは剣を抜いた。意図があったわけではない。やみくもに剣を刺す。どこかに、この奇妙な夢を打開するものがあるのではないかと。
「おお、わが姿が見えないからといって、めったやたらに部屋を傷つけてくれるなよ」と、悪魔の歌うような声。
「剣で解決しようというのは、おろかな考えだぞ。我に実体はないのだから」
ほかに方法があれば、もうやっている。唇をかみしめたジェイデンに、思わぬ助けがあらわれた。
「そうかね?」
悪魔の声とはちがう方向から、
ジェイデンがはっと目を向けると、先ほどまで誰もいなかった机の隣に、見知らぬ男が立っていた。三十代のなかばから四十代あたりに見える、鎧姿の男だ。濃い栗色の短髪をぴしりと撫でつけ、ヒゲを美々しく整えている。中肉中背ではあるが、きたえられた騎士の雰囲気だ。
「若者よ。わが友の記憶に土足で踏み
男が細身の長剣をすらりと抜く。さっと突き出すと、獣のような黒い毛が切れて飛び散った。
「おっと」悪魔の声。
「悪魔というものに、たしかに実体はない。だが、ここは悪魔の意識によって作られていて、やつらなりの
男はジェイデンに説明してくれた。「われわれ人間と交渉するとき、彼らはわれらとおなじ次元に上がってくる。かならず、接触できる状態にあるのだ」
男はさらに剣をふるった。「触れられるものは、むろん、攻撃できる」
机上から地球儀がふわりと浮きあがり、高い位置で剣を受けた。木くずがぱらぱらと落ちる。
男はジェイデンに目で合図をした。動いた地球儀。『触れるものは攻撃できる』という、彼の言葉。
「そこかっ」
ジェイデンは地球儀のあった下あたりを剣で突いた。
推測は当たった。
「ぐふっ」という声とともに黒いもやのようなものがあらわれ、周囲をただよって消えていった。「おお、迷惑な
「消えた……」
ジェイデンは油断なく周囲を見まわしていたが、やがてそうつぶやいた。「死んだ……のか?」
「いいや」
騎士は首をふった。「別の次元に逃げたのだ」
「そうか。殺してしまうとまずいと思っていた、よかった」
それを聞いた騎士はぱちりと目を見ひらき、声をあげて笑った。「悪魔に対して、そんなことを言う人間がいるとは」
剣を鞘におさめる騎士に、ジェイデンは「助かりました。……それで、あなたは?」と
男は居ずまいをただして名乗りを上げた。
「
「ダンスタン?」
ジェイデンは思わず問い返した。「おれといっしょに、彼女の夢のなかに入ってきたのか? だけど、その姿……、あなたはガチョウの姿のはず」
「ガチョウの姿?」
今度は騎士が問い返す番だった。「そちらの姿の我輩を知っておられるのか。名乗っていただけようか?」
「おれの名前はジェイデン。ジェイデン・リグフリス・リゼルレッド・オブ・アスシーダル」
ダンスタンと名乗る男が、これも悪魔の化身である可能性を考えながらも、ジェイデンはすなおに名乗った。
「アスシーダル大公家……いや、アムセン王のご子息か」
「そうだ」
ジェイデンとおなじように、騎士ダンスタンもまた、疑問を整理しているようだった。
「貴殿はどうやってここに来られた?」
騎士はそう彼に尋ねた。「生身の人間が、容易に入れるとは思えないが」
「鏡の悪魔の魔法で、スーリが眠りから目覚めなくなってしまったんだ。おれはルルーの悪魔の力を借りて、彼女の夢のなかに入ったらしいんだけど――」
さらに詳しく説明しようとして、それは無駄かもしれないとジェイデンは思った。「ここにいるあなたは、最近の記憶がないのか? おれはあなたを知っているが、あなたはおれを知らないらしい」
「うむ」
騎士はうなずいた。「我輩はダンスタンそのものではない。スーリ殿が我輩をガチョウの身に定着させるとき、一時的にわが魂をわが身体からはがし、自身のなかに取りこむ必要があったのだ」
見えないボールをつかむような動きをしながら説明し、ひと呼吸おいてこう言った。「我輩はそのときの、いわば置き土産のようなものだな。冷たいジョッキを机から動かすと、水が輪になって残るだろう? いまの我輩は、その輪っかのようなものだ」
「ガチョウのほうが本体なんだな。目の前のあなたではなく」
「うむ。こちらの我輩は、ちょっと状態のよい幽霊のようなものだ。いずれ消えるが、本体ではないから、案ずることはない」
「そうか」
ジェイデンは一人しんみりとなった。「それでも、なんだかさみしいな。せっかく顔が見れたのに」
「我輩たちは、なかなかよい友情を築いているとみえるな」
ダンスタンは人間の顔で笑い、ジェイデンの肩をぽんぽんと叩いた。笑いじわと、口角にあわせてニッと上がったヒゲ。彼がそんな笑い方をするなんて知らなかった。ほんとうに、人間の騎士だったとは……。
「ああ」
ジェイデンも、しいて口だけでほほえんでみせた。すでに、目の前の男を信用する気になっていた。「サー・ダンスタン。おれは、スーリを目覚めさせるためにここに来たんだ。あなたにも、手助けしてほしい」
「むろんだとも。どのように
ダンスタンは力強くうなずいた。「あの悪魔をとらえて、
「いや、それはまずいんだ」
ジェイデンは言った。
「あの悪魔と交渉する必要がある。彼は、おれになにかをさせたがっていた。そこが取引のポイントになると思うんだけど」
「交渉か。ふむ」
「あいつがおれになにをさせたがっているのか、先に把握してから取引したい。そのために必要な手がかりが、スーリの過去のなかにあるはずなんだ。でも……」
「貴殿はスーリ殿の過去を踏み荒らしたくない」
騎士は彼の言葉のあとをとった。力づけるように笑み、「崇高な心がけだ」と言った。
ジェイデンは……あえて否定はしなかったが、自分の目的が崇高なものだとは思わなかった。スーリさえ無事なら、ほかのなにかを犠牲にしてもかまわないとさえ今は思う。愛は利己的なものなのだ。
「
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