7-9.絶対に、絶対に、絶対に

 ぜったいに逃げおおせないように計算したはずの炎は、だが、アーンソールをきれいに避けた形で着弾していた。それで、ルルーはうっすらと、この男の魔法に推測がついた。物質転移では、これほど完璧に攻撃をよけることはできない。大魔導士の試験のために、あらゆる魔導書を読みあさってきた。これは、「時戻し」の魔法にちがいない。


 能力者も比較的多く、賭けや勝負事などにしか有利に使用される場面がないため、過小評価されがちな魔法だ。だが、本人が言うとおり、魔女相手の一対一の勝負なら無敵の能力と言えた。


「殺しはしない。魔導士の職務は権力の監視。どこの国にも、どんな王にも隷属れいぞくはしない」

 自分をふるい立たせ、自分のなかにいる母に言い聞かせるようにそう言った。なにしろ母ときたら手負いの狂犬のような性格をしているから、ルルーの能力があればアーンソールを殺してしまいかねない。

 そのほうがよかったのだろうか? あの簒奪さんだつ者を闇にほうむり、正当な継承者にそっと王冠を手わたすべきだった? ……そうかもしれない。


 でもあのときのルルーにはそれはできなかったし、それはしかたのないことだった。弱さのためではない。ルルーにはルルーの人生があり、あの男のために破滅するわけにはいかなかったからだ。


(そう、母さんにはそれがなかった。自分の人生が。だからなにもかもを道連れに、世界をほろぼしてしまおうと思ったんだ)


 地面には巨大な穴があき、見わたすかぎり、ルルーとアーンソールのふたりきりだった。あとのものはみな逃げおおせたのだろう。ルルーは空中にとどまり、顔を青くして肩で息をするアーンソールを見下ろした。

 言葉を発しようとした瞬間、目の前にあらわれる剣がルルー自身の顔をうつした。アーンソールの血走った目と、風になびく黒髪がおどろくほど近くにある。

――でも、もう、その魔法は見抜いている。

 時戻しの効力はほんの数秒しかない。対して、ルルーの物質転移は、その効力がおよばぬほどに一気に距離をひらくことができる。ひと呼吸よりも早く、ルルーは剣の間合いから離れ、さらに炎球を放った。


「……まだ続けますか?」

 息を荒くして剣にもたれかかるアーンソールに向かって、ルルーは問いかけた。「あなたの『時戻し』より、僕の空間転移のほうが早い。しかもあなたは、僕の攻撃を受けてから『時戻し』をしている。肉体の損傷は復活しても、魂は致死の痛みを記憶している。もう、なんども耐えられないはずだ」


「……そこから降りてこい、魔女め」

 男は悔しそうにルルーを見あげ、にらみつけた。「王の権威がわからぬのか? のろわれた畜生腹めが」


 その程度の罵倒ばとうには、百もの反論ができた。そうしなかったのは、ルルーのほうが落ちつきを取りもどしていたからだ。もう、勝負はついている。

簒奪さんだつ者アーンソール。すぐにこの場を離れて、自分の起こしたクーデタの収拾しゅうしゅうをつけてください。僕は〈塔〉に報告する。これからも魔導士たちの協力を得たいのなら、姉からは手を引いてもらいます」


 ルルーはちらりと姉たちのほうを見た。アーンソールが提案を承諾するしかないことを、彼はすでに確信していた。


 ♢♦♢


 騎士たちが引いていって、その場に残されたのはスーリたちだけになった。


「レディ・グロリア。すぐそこまで、味方の兵士が来ています。土たちがそう言っているの」

 スーリはそう告げた。「だから、あなたはいそいで走ってください。短い距離なら、わたしの石兵でもなんとか護衛できる」


「ですがスーリ、あなたはどうするの?」


「わたしは――」

 スーリはためらいを見せた。「やってみたいことがあるんです。うまくいけば、あなたの騎士さんを助けられるかも。でも、期待しないで。前に一度やったことがあるだけだし、今回は状況がちがうもの」


「わかりました」

 レディ・グロリアは背後を確認し、すばやくうなずいた。「もしできるのなら、助けてあげて。でも、忘れないで。だれにでも寿命がある。みなにひとしく最期の日が来るのです。運命にさからってもいい、でも非道なことをしてはいけません。スーリ、あなた自身のために」


「……」

 スーリは……、そのときの彼女には、レディ・グロリアが去り際に残した言葉の意味がすべてわかったわけではなかった。だが、その言葉は長く彼女のなかに残った。


 ♢♦♢


 騎士サー・ダンスタンは、今まさに息絶えようとしていた。喉からはひゅうひゅうと風が鳴るような音がする。息はあったが、顔色は粘土のようで、表情はすでに死者のものとなりかけていた。


 スーリはじりじりしながら、そのときを待っていた。


 魔法の特性上、かぎりなく死者に近い魂しかあつかうことができない。だから、騎士の最後の瞬間を待っていた。身の内に感じるおそろしさを必死で押し殺す。


 ごふっという粘り気のある音がして、騎士が窒息しかかっていることがわかった。肺腑から血のかたまりを取りのぞけばわずかに楽になるかもしれないが、死はまぬがれないとスーリにはわかっていた。だから、この方法しかない――そう言い聞かせても、騎士を見殺しにする罪悪感からのがれるのは難しかった。


 もうひとつ、死にかぎりなく近いうつわが必要だ。スーリは家禽小屋へ走り、レディ・グロリアが飼っていたガチョウをつかまえて戻ってきた。


「レディは許してくださるかしら」

 座りこんだまま、ぽつんとつぶやく。あの女性ならきっと許してくれることはわかっていたが、それでも決心をつけるにはしばらく時間が必要だった。


 ペローと呼ばれていたガチョウは、スーリの腕のなかで暴れていた。ばたばたと羽が動き、腕のなかに力強いいのちを感じる。すぐあとに自分が奪ういのちの鼓動を。

 護身用の短剣ダガーを抜いて、大きく息を吸いこむ。覚悟をきめ、心臓のあたりに刃を押しこんだ。


 ばたばたと騒がしかった動きが、しだいに落ち着いてくる。家禽の小さな魂は、スーリのすぐ手の届くところにあった。


「ガチョウのペロー。エトリの騎士、サー・ダンスタン・フロリバン・ド・ロサ」

 スーリは座位のまま、ふたりの名を呼んだ。「黄泉よみの入り口を閉じたわ。暗い死の道から戻ってきて。あなたたちの身体をつなぎ、魂をりあわせる」


 青い光が、騎士とガチョウとを包みこんだ。

 魔法が発動したことはそれでわかったが、果たして、成功したのだろうか? ――永遠とも思えるほど長い時間のあと、ガチョウがぴくぴくと痙攣けいれんしながら立ちあがった。


「……ゴッ……」


 ガチョウは重い口を開いた。水をすするような不快な音を立てて、くちばしを開けたり閉じたりしている。どうやら声を出そうとしているようだ。


「スーリ殿……わが主人よ」


 聞き取りづらいガチョウの声が、そう言った。「死の暗き道より、主人がめいにしたがい、戻ってまいった」


 まるで冥府の主のような、暗く不気味な声だった。

 スーリは息をのみ、うなずいた。自分の術がうまくいったことがわかって、なかば驚いていた――前にやったときには、ものごころもつかぬような年齢だったから、うまくいくとは確信できなかったのだ。

 だが、ほっとしたのもつかのま、スーリは激しくきこんだ。


「うっ! ……ごほっ、ごほっ……」

 身体から力が抜け、目の前が暗くなり、世界が遠くなるような感覚におそわれる。「これは……これは……」

 魔法の反作用だ、と直感でわかった。魔術書には書いていなかったから忘れていたが、これほどの大きな魔法を使って、なにごともないはずがない。どさっ、と小麦袋が落ちるような音がして、自分はついに座位をたもてず地面に倒れこんだらしかった。魔女になったばかりのときには、息をするように簡単にできたのに。だが、魔女の力は年齢をおうごとに減少していくのだ。これは、ぎりぎりのタイミングだった。


 疲労があたたかな毛布のように、彼女を包みこみはじめていた。このままではいけない。みんなで力を合わせて、せっかく脱出の機会を得たのに。このままではまた、あの男の城にとらわれてしまう。

 スーリには小さな夢があった。自分の足で立ち、自分の力で生きる暮らしだ。ハーブを植えた小さな庭で、ひとびとの役に立つ仕事をしてつつましく暮らす。できれば、ほんの数人でも友人を作って――。アーンソールの足音におびえ、長い夜に必死でつむいできたたいせつな夢だ。だが、このままではほんとうに夢で終わってしまう。


 荒く息をつきながら、スーリは身を起こした。細腕でなんとか上半身を支え、弱々しい声を発した。

「名前を……言って」


 ガチョウはすぐには答えず、しばらく沈黙していた。沈黙があまりに長いので、術が失敗したのではないかと思ったが、どうやら命令が理解できなかったらしい。


使役しえきに名前はない、主人よ」

 と平板な声で答えた。「我輩は名をもたず、貴女あなたにつかえることになる。使役とは、貴女の力に隷属れいぞくせし者」


「いいえ、あなたは使役ではないわ」

 スーリは拳を握りしめた。地面がえぐれ、桜色の爪が土で汚れたが、かまわなかった。ダンスタンの口からという言葉を聞いたとき、疲労を上回るほどのはげしい怒りが、ようやく彼女のなかに湧きあがってきた。それは、アーンソールへの怒りだった。彼女を道具として利用し、ゆがんだ欲のはけ口として蹂躙じゅうりんした、あの男への。


「わたしはだれのことも絶対に隷属れいぞくさせたりはしない。あの男みたいにはならない。絶対に、絶対に、絶対に」


 そしてふらふらと立ちあがり、ガチョウに走るようにうながした。自分の言葉にせいいっぱいの力をこめて。


「さあ、逃げなくちゃ。あなたの名前はサー・ダンスタン。わたしの、最初の友だちよ」

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