6-2.ある不遇な女の死

※暴力的な表現があります



 寒い日だった。

 スーリは自分の小さな手をのぞきこんだ。皮膚は赤くなってぼろぼろとはがれ、痛がゆくてたまらない。もう長いこと忘れていた感覚のはずなのに、すでに慣れきった無気力が彼女をやわらかな毛布のようにくるんでいた。自分はここではないもっと先の未来を生きているのだということを、スーリはすでに忘れかかっていた。


 遠い先にぼんやりと見えていた、暖かな部屋と甘い菓子は消えてしまった。白い鳥の羽の手ざわり。優しい男性の声も、もう聞こえない。しあわせな夢だったな、とスーリは夢のかけらに思いをはせた。


「死んだらなんにもなくなるんだよ。ずっと寝てればいいのさ。そっちのほうが、こんなクソみたいな暮らしよりずっとマシだろうね」


 母はいつもそう言っているが、もしかしたら、死んだあとに行く場所はあの暖かな部屋かもしれないとスーリは夢想した。


(そうだったらいいのにな)


 冬になると、辺境の村はいっそう貧しく、生きづらくなる。養う余力のない共同体では老人や子どもが死ぬ。冬は残酷に生命を選別する。


 双子たちは家のなかで父親の粗暴に耐えるしかなかった。あまりに寒く、体力がなく、外に出ただけで死んでしまうとわかっていたからだ。


 粗暴になるのは双子の父ばかりではなかった。悪天候で漁に出られない男たちが集まり、よからぬことばかりをする。粗悪な酒を飲み、賭けをし、結果がどうあれたがいにののしりあい、女たちにちょっかいを出す。


 その日はめずらしく父親が外出しており、母と双子たちは家のなかで身を寄せ合っていた。母は悪態をつく元気もないようだった。スーリは内心でほっとしていた――今日は父親に殴られることもないし、母が弟をどなることもない。ひもじくて、どうしようもなく疲れていたが、母と弟の体温を感じると心がやすらいだ。


 だが、おだやかな時間は長く続かなかった。男たちの下卑げひた笑い声が家の外から聞こえてくる。母親がはっと身を固くしたのが、隣のスーリにつたわってきた。


 母からはいつものけだるい空気が消え、猟犬に追われる鹿のように耳をそばだてていた。いまにして思えば、彼女は長くつらい経験からの危機には敏感になっていたのだろう。いそいで双子をそまつな調理場につれていき、灰をかぶせて汚した。ルルーは「目が痛いよぅ」と泣いたが、ルドヴィガはかまわなかった。


「むしろをかぶって、部屋のすみにいるんだ」

 母はけわしい声で双子に言い聞かせた。「どんなにうるさくても、おたがいに耳をふさいで、ぜったいに出てくるんじゃないよ。言いつけを聞かなかったら、鼻がとれるほどぶってやるからね」


 双子は母の言いつけどおりにした。母ルドヴィガとおなじように、双子たちもまた、不幸と恐怖の気配には敏感だった。そうしなければ、すぐに死んでしまうから。


 双子はふるえながら身をよせあい、そまつなむしろの下で息をひそめていた。すぐにどやどやと男たちが家に入ってくるのが、音でわかった。むしろ越しにでもわかるほどの、酒と、男性たちの不潔な体臭。ほかのどんな悪臭よりもスーリが嫌う匂いだった。


 男たちが笑いまじりに話す声は、スーリにはほとんど聞き取れなかった――が、「旦那には話をつけてある」と言い放ったのはわかった。父の声はしない。あの葉っぱを噛んでおとなしくしているのだろう。人よりも動物にふさわしい、あの愚鈍ぐどんな表情を浮かべているところまで目に浮かぶようだった。これまでは救いだと思っていたあの葉っぱのことが、スーリは急に怖くなった。


 それからなにが起こったのか――むしろの下の子どもたちにはわからなかった。母が叫び、抵抗する声が聞こえて、心臓がはちきれそうになる。ルルーが恐怖でぐずりはじめた。だが、ここから出ていってはいけないのだ。スーリは弟をそっと押さえつける。


 男たちの笑い声。狂ったように叫ぶ女の悲鳴。肉を打ちつける湿った音。をめぐってあらそい、殴りあう鈍い音。


「畜生!」

 ルドヴィガの絶望の叫びが、家の外にまで響きわたった。「腐りきったけだものどもが!! 死ね!!! 死んじまえ!!!」


 その言葉を最後に、スーリの記憶はいったんとぎれた。


 ♢♦♢


 暗転。眠りに落ちる瞬間のような、底しれない闇がジェイデンの前に出現した。


 つい先ほどまで、スーリの母を乱暴する男たちの、吐き気がするほどおぞましい光景を見せられていたはずだった。だが、いま目の前にあるのはまったくの沈黙、まったくの闇だった。直感的に、それが悪魔のしわざであることがジェイデンにはわかった。この闇のなか、悪魔と人間とのあいだに対話があり、契約があったのだと。だが、それらは目に見える過去としては残っていなかった。悪魔との契約は、記憶に空いた穴なのだろうか。


 耳が痛いほどの沈黙ののち、世界にぱっと光が戻った。そして数秒ののち、世界の終わりかと思うほどの轟音が鳴り響いた。激しい揺れがそれに続く。


 ジェイデンの身体はあいかわらず物体をすりぬけていたが、それでもかまわず、双子たちをかばうように覆いかぶさった。


 スーリの視界はひらけていた。むしろがなくなったのだ――そして、家も半壊していた。そまつな屋根の一部が崩れ、ひどいありさまだった。


「やった! やった!」

 少女のような歓喜の声が、ルドヴィガからもれた。「ぜんぶ消してやった! けだものどもめ! 思い知ったか!!」


 女はほとんど裸同然で、雪とも灰ともしれないなにかが落ちてくる空を見上げ、大声で笑っていた。子どもたちはその異様な姿を見ていた。破壊された家と、急にひらけた空と、狂ったように笑い続ける母を。

 女は背をそらし、手をうって哄笑こうしょうしていたが、やがてその笑いがとまった。


「もっと」

 ルドヴィガは暗い声でつぶやいた。「ぜんぶ滅ぼしたい。この世の男どもすべて」


 その声に呼応こおうするように、空がちかちかと輝き、さらなる轟音がそれにつづいた。耳をつんざくほどの音と、体験したこともないような揺れ。空から落ちてくる炎のかたまり。


「……きれいだ」

 女の目は炎だけをうっとりと見つめていた。ふと、なにかに呼びかけられたように目線を動かす。

「<流星メテオラ>の魔女? あたしのことなのか? そんな呼び名はどうだっていいよ。これがもっと見れるなら、なんだっていい」


 ジェイデンは、女がだれかと――なにかと――会話しているのに気がついた。おそらくルドヴィガは悪魔と契約してしまったのだろう。


 焼け落ちていく村を見ながら、ルドヴィガはぽつりとつぶやいた。

「ずいぶんきれいになった。あとはもう、だけだ」


「やめろ!! 子どもたちがここにいるんだぞ!!」

 ジェイデンは思わず叫んだが、もちろん、その声が過去の女に届くわけもなかった。


 空からは輝く火球がふりそそぎ、女は折れるほど顔をあげて、自分の上に落ちてくる炎に魅いられていた。



 ♢♦♢


 家はすでに燃え落ち、壁は瓦礫がれきとなって地面を覆いつくしていた。ジェイデンは自分をすり抜けて子どもたちが瓦礫に押しつぶされるのを想像して胸がちぎれそうになった。


 だが、最悪の予想に反して、子どもたちは無事だった。まさか、自分の身体が?


 そうではないことに気がついたのは、その場にぼんやりと立ち上がったスーリを見てからだった。


「お母さんと弟を助けてくれた? ほんとうに?」

 少女はかぼそい声で確認した。「ふたりはどこにいるの? わたしはどこにいけばいいの?」


 その、心ここにあらずの顔。目に見えぬなにかと対話する様子。


「なんてことだ。きみは、悪魔と契約していたのか。母親といっしょに……」ジェイデンはぼうぜんとつぶやいた。

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