1-1.薬草医スーリのひそかなる悩み



 お金がない。


 お金がない……。薬草医スーリはもの悲しく、とぼとぼと山道を歩いていた。ラバの借り賃が払えなかったせいで、自分で背負せおうしかなかった荷物が肩にのしかかる。荷物のなかのなにかが、背中でかちゃかちゃと音を立てて孤独な山歩きの伴奏ばんそうとなった。


 町での買い物からの帰り道である。もよりの集落までは運よく、乗りあい馬車に乗せてもらえたが、そこからは歩いて帰ることになった。


 お金がない……。まじめに働いているし、無駄づかいもしていないのに、どうして……。


 をすすめながら考えるも、理由は思いいたらない。女ひとりつつましく暮らすだけのことが、こうも難しいなんて、世の中はまちがっているんじゃないかしら。


 げんに、今日買ったものだって、必需ひつじゅ品しかないのだ。季節の果物くだものに、新しいノートと、補充ほじゅう用のインク。ダンスタンの首もとに巻くスカーフに、研究のおともにするあめ。かわいいペアのマグカップに、カップボードの飾りにする猫ちゃんの置き物(×2)に、イチゴの形をしたナプキン留め。そうそう、カチャカチャ音がするのはこの陶器類なのだった。近所の窯元かまもとがめずらしく出店していたので、かわいらしい生活用品をつい買いこんでしまった。荷物が重いのは、そのせいだろう。


「猫ちゃんの置き物は……ひとつでよかったかもしれないわね……」


 食料はたっぷり備蓄があるから飢えてしまうことはないだろうが、今月の家賃が払えるだろうかと心配になる。こんなことなら、ジェイデン王子がいるうちにお金を借りておけばよかった。そう、彼はいまスーリのそばにはいない。冬のあいだはほぼ彼女の家にいりびたっていたのだが、一週間ほど前に王都に発ったばかりである。もしかしたらそのことも、スーリの憂うつの原因かもしれなかった。


 ジェイデン王子。魔法を嫌う国の王の、三番目の息子。

 秋に出会ったばかりのころには、空気もよまずに毎日毎日たずねてくる彼にへきえきしたものだった。それが、春をむかえる今となっては、彼がそばにいないことを残念に思うとは。女心というのは不思議なものだ。


 フィリップ伯による弑逆しいぎゃくのたくらみについて、父である国王に事件の説明をしに向かったはずだった。出発の朝、ジェイデンは彼女をしっかりと抱擁ほうようし、「毎日手紙を送るからね」「すぐ帰るから」としつこいほどに念を押してなごりおしそうに出立しゅったつした。

 しかし、その手紙はまだ届いておらず、彼の王都での様子はうかがいしれなかった。


 そうそうすぐに帰ってくるとは思っていない。かりにも一国の王子が実家たる城に戻ったのだから、さまざまなイベントがあるのだろうとスーリは想像した。無事の帰還をよろこぶパーティがあり、国王夫妻との水いらずの歓談かんだんがあり、親戚から持ってこられた見合いのり書きがあり、孫がいまだに成長期だと信じる祖母からのおかわり攻撃があり、ひさびさに会うペットから顔を忘れられているに違いない。実家だから。


 でも、もしも都会でほかの女性に心を奪われているとしたら……。


 その考えに、スーリの気持ちは沈んだ。王都にはちょっと気のきいた美女など佃煮つくだににするほどいるだろう。あ、そういえば佃煮も買ったんだったわ。あとでパンに載せて食べようっと。


 ん? なにか忘れているわね。


 そう、手紙といえば……。

 弟に手紙を書いたはずだけれど、まだ返信が来ない。青虫のスケッチは見てくれたかしら。とてもうまく描けたと思うんだけど。それに、もちろん、お金も送ってほしい。そうだった、これが目下もっかの切実な問題だ。


 あとは、ジェイデンがいないせいで、家のなかが荒れはてていることだろうか。どうしてなにもしないのに、部屋がホコリで汚れていくのかしら。なにもしてないのに……。


 スーリはふたたび悲しみに沈みながら、重い足どりで自宅に戻った。



  ♢♦♢


 森のすてきな一軒家ことスーリの自宅は、春をむかえていた。


 満開のマグノリアはうっとりするようなピンク色で庭をかざっていたし、透きとおる白い花をつけたミザクラもひかえめで美しかった。樹木を守っていたこも巻きがはずれ、温室に避難させていた鉢植えたちも外に出され、春の陽光をせいいっぱいに味わっている。足もとにはクロッカスの群れ。


 その美しさ、のどかさに、ささくれていたスーリの心は癒された。長いあいだ待ち望んでいた、おだやかで満ち足りた暮らしがここにある。このすばらしい季節を、悲しみに沈んだまま暮らすなんてもったいない。いまはこの春を満喫することだけを考えよう……。そう、お金のこと(と、部屋が散らかっていること)はおいおい考えればいいわ。また明日、それか明後日あさってにでも……。


「ただいまーぁ」


 それでもやはり、慣れない山道に疲れ、スーリの声は間のびしてひびいた。


「おかえり」


 甘く優しい声は、親友ダンスタンのものではなかった。スーリはおどろいて、目をぱちぱちさせる。


「ジェイデン。帰ってたの?」


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