エピローグ 春が来る前に


 冬は静かに訪れた。


 ある朝うっすらと雪が地面をおおい、それから日ごとに厚みを増していった。音を包みこむように降りつもり、あたりを静寂が支配する。雪におおわれた森のなかの、小さな家のまわりにも……。


 部屋のなかは温かく、居心地が良かった。聞こえるのは、ときおりまきが崩れるやわらかい音だけ。きれいに整えられた薪を暖炉にくべるとき、スーリはそれを割った男のことを考えた。


 考える時間はたくさんあった。


――孤独とやすらぎ以外のものが欲しくなったら、おれのことを思いだすと言ってくれないか?


 ジェイデンはそううた。

 この家をしょっちゅう訪れては、彼女を外に誘っていた男のことを考える。彼がいないさみしさに慣れる日は来るのだろうか。それとも、彼の言う「孤独とやすらぎ以外のもの」を必要とする日が来るのだろうか。


 春になったら。スーリはまだ遠い季節を思い描いた。春になれば、固く凍てついた心にも変化が訪れるかもしれない。そのときには、使役しえきの姿で彼の窓を叩こう。彼はあの笑顔をうかべて腕を広げ、彼女を迎え入れてくれるだろう。……


 だがそれまでは、ぞんぶんにひきこもろう。

 

 ♢♦♢


「寒いわ、ダンスタン。あなた羽毛布団になれないの?」


 夜。スーリはぶるぶると震えながら、ガチョウにすがりついていた。

 薪はたっぷりと備えつけてあったから安心しきっていた。まさかそれ以外にも防寒品が必要だとは、思ってもいなかった。いつもの寝台ベッドはあまりに寒く、居間に患者用の寝台を引っぱってきたが、それでもまだ寝つけそうにない。


「生きているかぎりは難しそうだな」

 ダンスタンは難しい声で言った。居心地が悪そうに身じろぎする。「尻をなでまわすのはやめてもらえないだろうか、友よ」

「ここが一番あたたかいのよ」

 友人の尻毛に手をつっこんだまま、スーリは震える声で答えた。ここに顔をうずめたら怒られるだろうか。


「冬用の布団が要るなんて知らなかった。寒くて眠れないかも」

我輩わがはいも、弟殿も、なんども忠告したではないか」

 ダンスタンはあきれきっていた。

「それより、明日は道が雪で埋もれる前に買い出しに行く必要があるぞ。もう遅いかもしれないが……」

「えっ……なにが必要なの?」

「小麦と油、バター、チーズ、乾燥肉、野菜の酢漬けとジャム、ろうそく、正気をたもつための大量の酒」

「そんなに……」

 スーリは指おり数えて絶望した。ノブもメルも、この雪ではとても何度も来てとは頼めない。たしかに、自分で行くほかなかった。だが、外はまだ雪が降り続いていて、明日も積もるのは確実だった。


「弟殿に、冬になる前に買いこんでおくようにと言われていただろう」

「そうだけど、こんなに早いとは思ってなかったんだもの」

「いまさら言ってもしかたがない。ジェイデン王子に頼んでは?」

 ダンスタンが提案した。「ここに来るまでに、必需品を持ってきてくれると思うが」


 スーリは苦手な野菜を食べさせられた子どものような顔になった。ジェイデンになにか頼みごとをするという考えがイヤすぎたのである。


 ジェイデンとの最後のやりとりは、スーリの心を温めるたいせつな約束だった。彼女が心からの愛情を求めたとき、自分の意志で彼のもとに行くということが大事なのであって、食料の配給は約束にふくまれていない。

 でも、重いものくらい持ってきてもらってもいいかな? 油とか。スーリの心は現金にゆれ動いた。


 やはり明日あたり、城に使役を送ろうか。もんもんと悩んでいると、ドアがノックされた。


「……だれ?」

 土人形をまだ残しておけばよかったと思いながら、スーリは扉に近づいた。もう危機はないので魔法を解いてしまったのだ。だが、この寒いなか、扉をあけて冷気を招き入れるのは気が進まなかった。


「おれだよ、スーリ。入れてくれ」

 低くやわらかい声が訪問を告げた。


「ジェ、ジェイデン?!」

 スーリは突然のことに驚いて、約束も土の魔法もすべて忘れてしまった。扉をひらくまで、本人だとは信じられないくらいだった。だがそこには、数日ぶりに見るハンサムな顔があった。首まわりに毛皮のついた冬用の、見たことのないオーバーコートを着ているのが新鮮だった。


「どうして……」

『そのときは、おれを呼んでくれると』と、彼は言った。あのときの約束は、ジェイデン自身はもうこの家を訪ねてこないという意味ではなかったのか? そもそも、いまごろは王都にいるはずでは?


「思ったより早く、約束を思いだしてくれたんだね」

 疑問で頭がぱんぱんに膨らんでいるスーリにむかって、ジェイデンはとろけそうな笑みを見せてから、室内に一歩足を踏みいれた。部屋は一瞬、外気で冷えたが、扉を閉めるとじきに成人男性ひとりぶんの熱量で暖まりはじめた。

「きみが訪ねてきてくれたんで、おれも来てみたんだけど……」


「へ?」

 思わずまぬけな声が出た。「わたしが、どうしたですって?」


「いや、ほら、きみが」

 ジェイデンは自分の肩を指さした。ぶあつい冬用のオーバーコートと肩のあいだから、白いボールのようなものが姿をあらわした。ゆっくりと首をかしげているそのボールは、たしかに、白いメンフクロウだった。


「それはじゃないわ!」

 スーリは叫んだ。「目の前にわたしがいるじゃないの」


「そうなのか?」

 ジェイデンは肩の猛禽もうきんでた。「……市場で見かけて、やけになつっこいんで、きみかなと思って連れて帰ってきたんだけど」


「市場にいたのなら、そのフクロウはべつに城を訪問していないのでは?」

 ダンスタンが冷静につっこんだが、王子はそれをさっぱりと無視した。

「ダンスタン。しゃべれるなら、こないだもしゃべって伝えてくれればよかったのに。あんなまぬけなジェスチャーゲームなんてせずにさ」

「我輩の深謀遠慮しんぼうえんりょが、貴殿きでんにつたわらなかったとは残念だ」


 イドニ城の跳ね橋のたもとで彼と別れてから、まだ十日も経っていない。それなのに、こんなふうに簡単に訪ねてくるなんて、約束をなんだと思っているのか。スーリは憤然ふんぜんとした。やっぱり追いだそうと思ったところで、フクロウが羽をふるわせ、白いハート形の顔を王子にすりよせた。その動きに、思わず目が吸い寄せられる。か、かわいい。わたしもさわりたい。


「よしよし、スーリ。いい子だ」

 王子は指の背で、フクロウのくちばしのあたりを撫でてやっている。「あとでウズラのヒナをやろうな」


「それはわたしじゃないったら!」

 ハンサムな王子と小さなメンフクロウの組み合わせは非常に絵になったが、スーリはなぜか悔しくてたまらなくなった。うぐぐ。


「メンフクロウは……かわいいからな……」

 ダンスタンがあきらめたように首をふった。それじゃまるで、わたしがかわいくないみたいじゃないの。スーリはさらに腹が立ってきた。


 だが、もう彼を追いだそうとは思えなかった。肩につもっていた雪もけて濡れてきたし、暖炉で服を乾かさねば風邪を引いてしまうだろうし。それになにより、馬にかせて防寒具と食料をたっぷりと持ってきていることはあきらかだった……。


 そう考えたスーリは、自分でも言いわけじみているような気がした。


「王都には戻らなかったの?」

 尋ねると、ジェイデンは笑った。オーバーコートの雪を払い、釘にかける。キルティングジャケットは、冬用なのか紺色に白の縫い取りに変わっていた。

「父がおれを呼び戻しているという手紙は、兄さんの嘘だったよ。フィリップをゆさぶるためのね」


「だけど、いつかは戻らなきゃ」

「つぎに王都に戻るのは、きみを連れていくときだ」

 あいかわらずの調子でそんなことを言うので、スーリはなんと返していいかすぐにはわからなかった。彼女には誓約がある。自由と引き換えにした、王との約束が。

「わたしがあなたから受け取れるのは、友情の申し出だけよ」

「友だちでいいよ」

 ジェイデンは笑みを深め、部屋のなかを見まわした。「冬のあいだにおれの助けが必要なことが、まだありそうだしね。先は長い」

 小さなメンフクロウはジェイデンの肩から滑るように降りて、食卓の角に止まった。首を九十度にかたむけて、興味深そうにダンスタンを眺めている。ダンスタンは居心地悪そうにそっぽをむいた。


「……まずは、寝台に毛皮と毛布を敷かなくちゃ」

「そうだった。ベッドがすごく寒いの。どうしたらいい?」

「なかに入れてくれるかい?」

「しかたないわ。ブーツの泥を落として入ってね」


 たしかに、先は長かった。冬のあいだにふたりになにが起こったのかは、また別の物語。そして、その先も……。


 いまはこの小さな家のなかが温かさに満ち、薪も食料もたっぷりとあり、ほかに望むべくもない幸福な状態だということだけを記して、ここに筆をおこう。





【第一部 終わり】


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