2-6.スーリ、タルトを盗まされる
『ペストリーを食べる』というだけの話なのに、それはスーリの思ったようにはすすまなかった。
「じゃ、まず、キッチンに行こうか」
ジェイデンはそう言って、スーリを城のどこかへ連れていく。しかも、ふつうの通路ではない、使用人が通るような半地下や庭のなかを通って。厨房の菜園があり、ふしくれだった林檎の木があり、鳩小屋があった。
イチイの生垣を通ってきたせいで、髪のあちこちに葉がついてしまった。
「なんでこんなところ……」
不満に思ってそう尋ねかけると、ジェイデンが「しっ」と口もとに指をあてた。
「あれを見て」
「あれ?」
植えこみのなかから頭を出す。見ると、貴婦人の一団が談笑しながら、中庭で思い思いにくつろいでいた。
「城の貴婦人たちだよ。アガサ妃に、伯の叔母たち。それに、町の有力者の妻たちも」
王子が説明する。「きみは顔を合わせたくないだろ?」
「もちろんだわ」
「じゃ、おれの言うとおりにしなくちゃ。……ついておいで」
ジェイデンに手を引かれ、さらに裏口へとたどりついた。城の台所に食品類を搬入する場所らしく、樽や木箱が転がっている。あたりには、製菓の甘い香りがただよっていた。思わず鼻を動かしてしまうような、たまらない香りだ。
「よし、ここだ」
「こんなところでお菓子をもらうの?」
スーリはよくわからない顔になった。「祝祭の日の子どもみたい」
「ちがうよ」ジェイデンは満面の笑みになった。「お菓子は盗むんだ。さっきの貴婦人たち用に焼かれたものだからね」
「盗む?!」スーリはすっとんきょうな声をあげ、あわてて声を低めた。
「まさかそんなこと、本気で言ってないわよね?」
「よく聞かれるけど、いつも本気なんだけどね。……さ、おれが陽動するから、きみにはタルトを回収してくる大任をあたえよう」
妙にまじめな顔でそんなことを言うので、スーリはますます目を丸くするしかなかった。ろくろを回すような手の動きをしながら、あわあわと反論する。
「む、無理よそんな、よその台所から食べものを盗むなんて」
「だけどきみは嘘が下手で陽動には向かないよ。アーモンドと梨のタルト、それにニワトコシロップ入りのチーズケーキ」
と、指先でスーリの頬をつつく。「このほっぺたに入れるためには、きみが行くしかないんだよ。……じゃ、あとはたのむ」
そんな勝手なことを言って、ジェイデンはさっさと中に入り、大理石のカウンターのほうへと歩いていった。盗人志願とは思えない、じつに堂々とした足ぶりで。
「わたしが食べるお菓子なのに、わたしが盗むの?? なんで???」
あまりといえばあまりのできごとに、目がぐるぐるまわって落ちそうだ。
混乱しているあいだにも、ジェイデンはカウンターの前へ立っている。焼き菓子をさます棚から見て、ちょうど逆側にある場所だ。陽動とは……つまり、そういうことなのだろう。
「いい匂いだね。つられてきちゃったよ」
おそらく菓子専用の調理場なのだろうが、それでもなかなかの広さがある。甘い匂いのなかで女性たちが四、五人、立ち働いていた。生地を伸ばすもの、形を整えるもの、オーブンの前で焼き加減を見張るもの……。
大理石のカウンターに軽く寄りかかって、いつもどおりの気やすい調子でなかに話しかける。「おれにもちょっともらえないかな」
「今日はだめですよ、殿下。あとで
王子のほうを見もしないで答えたのは、中年の女パティシエだった。どっしりした体格を、目の覚めるような真っ白のお仕着せで包んでいる。一筋縄ではいかないことが、すぐにわかる
「えー」
王子は不満の声をあげた。「だけど女の子のところに持っていきたいんだよ。端っこだとみっともなくないか?」
「だめだめ」
パティシエは手を振った。「ここの娘っ子たちがいつも、あんたにいい顔して菓子を横流ししてるのは知ってますけどね。今日のは特別なお客様用なんですから」
「そう言わずに少しさ」
「だめですよ。奥方に怒られるのはあたしどもなんですからね」
パティシエが言うが早いか、その『娘っ子』たちが、わらわらと近くに寄ってきた。
「ジェイデンさま、ペカンナッツのクッキーをさしあげましょうか? タルトはだめですけど、こっちなら」
「ナッツのヌガーも持って行っていいですよ。これ、今朝あたしが焼いたんです」
「おいしそうな匂いだ」ジェイデンは惜しみなく笑みをふりまいた。「すごく上手にできてるよ、ニナ、すぐにパティシエになれそうだ」
ニナと呼ばれた赤毛の娘は顔を赤くして、エプロンのすそをもじもじといじった。
「でも、よその女の子のとこに持っていっちゃうなんて、つまんない」
ニナの隣の金髪娘が、残念そうにつぶやく。「ジェイデンさま、最近はいつもその子のことばっかりだもの」
「ごめんね」
ジェイデンはバラエティ豊かな笑顔のうちの『困ったような優しい笑み』を披露した。よけいに娘たちがとりこになりそうな、罪つくりな笑顔だ。
「難攻不落の美女だから、とっておきの菓子を持っていきたいんだ」
その難攻不落の美女に菓子を盗ませようとしている、とスーリは告発したくなった。カウンター前のジェイデンと目が合う。優しいが決然とした茶色の瞳が、「やれ」と命じていた。
(うう……)
スーリはうなだれながらタルトに近づいて行った。(こんなことをするために薬草医になったんじゃないのに)
それはもう本当にそのとおりで、ダンスタンがこの場にいたら加勢してくれたに違いない。だが唯一の友人はここにいなかったし、スーリはその場の雰囲気に流されやすいという弱点があった。
棚に並べられた菓子を、パティシエが切り分けてさらにデコレーションしていく。スーリが隠れているのは、その棚のすぐ下だから、だれも見ていなければ菓子のひと切れくらい盗むのは難しくなさそうだ。ただ、彼女の目があるうちは、そういうわけにもいかなさそうだが……
「ミーガン」
ジェイデンが抜け目なくパティシエを呼んだ。「ニナがヌガーを焼きすぎたって言ってるんだけど。おれはそんなこともないと思うけど、きみの判定はどう?」
「焼きすぎどころじゃないよ」
フンと鼻を鳴らしながら、パティシエはまんまと王子のほうへ顔を向ける。「そんなムーア人みたいな色のヌガー、お客さまに出せるもんかい」
「そうかなぁ。ピスタチオの緑がいい感じじゃないか?」
「素人考えだね。ま、殿下のおやつが関の山ってとこだ」
「これって日持ちするかな? 狩りの糧食にどうだろう?」
楽しそうに会話しながらも、ジェイデンの目はスーリに決行を命じていた。
(ううっ)
スーリは……読者のみなさんも想像できるかと思うが、小さいころから本の虫で、およそいたずらなどしたことがない優等生だった。怒られるのはたいていやんちゃな弟のほうで、「お姉ちゃんはしっかりしてるわねぇ」と言われる側だったのである。そんな彼女が、急にお菓子泥棒などできるだろうか?
(でも、やるしかないのよ。やらないと、あの王子になにをされるか……)
べつになにもされはしない、というのが、あとでその話を聞いたオスカーとダンスタンの共通の見解である。ただ、「つぎこそはうまくやろう!」という名目でまたどこかに連れ出されるかもしれないが。
だいたい、スーリのそういういじめられっ子的発想が、よけいに王子の嗜虐心をあおっているのである。スーリがそのことに気づいていないのは、残念なことだった。ただほんとうにいやいやながら、しかたなく、棚のほうへそろそろと手を伸ばした。
白い手がこわごわと伸び……
「さて、だいたい切り終わったかね?」
パティシエの言葉で、さっと引っ込む。
「ミーガン、今度のおれの糧食だけどさ」
「何度も言ってますけどね。殿下ひとりのぶんならともかく、あの兵士どものぶんまで作ってたら、タルト型がいくらあったって足りやしませんよ」
女性の顔が王子のほうを向いたタイミングで、またにゅっと手が伸びて……ついに、ふた切れのケーキが、スーリのエプロンのなかにおさまった。
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