ポチのスマホ

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 それはポチが五才になったときに始まった。ポチを散歩に連れて行くのは由香の役目だ。いつも家の近くの海岸通りを一緒に散歩している。海の見える景色のいい道だ。ポチは茶色の毛並みが綺麗な柴犬で、つぶらな瞳がかわいい。

「ポチ、スマホがお気に入りね」

 由香はポチが貰ったばかりのスマホに夢中になっているのを微笑ましく見ていた。

「五才の誕生日に、約束どおりスマホを買ってもらったね。落としたりしちゃ駄目だよ」

 ポチは首輪から出ているホルダーにスマホを付けている。

「羨ましいな、先に買って貰って。私は十才になったら貰えるの。あと、半年くらいかなあ。ポチはそれまでにスマホの使い方勉強して、私にも教えてね」

 ポチは返事もせず、相変わらずスマホに夢中になっていた。鼻先で器用に画面をタップしている。


 散歩もちょっと変わった。これまでは、ポチとじゃれあうように歩いていたのが、ポチがスマホを持つようになってから、ただまっすく歩くようになった。ポチはスマホをずっと見ながら歩いている。時折、顔を上げるが、直ぐまたスマホに目を落とす。

 由香は別に気にせずにいたが、なぜポチがそんなにスマホに夢中なのかよく分からなかった。

「自分もスマホを持ったら分かるかも」

 そんな程度に思っていた。

 ある時、ポチのスマホをそっと覗いてみた。ポチはどうやら、とチャットをしているようだった。楽しそうにしている。

 由香は、自分の方を見てくれないのに、仲間の犬と楽しそうにチャットをしているポチを訝しく思い始めていた。


 海浜かいひん公園の前にある信号が青になった。ポチはスマホを見たままなので、動かない。

「ポチ、行くよ。ほら、信号が青だよ」

 ポチは、ちょっと顔を上げて信号を見ると歩き始めた。しかし、直ぐにまた、視線をスマホに戻した。

「ん、もう。横断歩道は危ないから、前見てね」

 由香は不満そうに大股で歩き出した。ポチは、引っ張られながらも、スマホから目を離そうとはしなかった。


 ある時、散歩の途中でポチがワンワン吼え始めたので、由香はやっと自分に関心を戻してくれたかと思った。しかし、見れば、スマホに向かって鳴いている。しかも、立ち止まってしまった。

 鳴いたと思ったら静かになり、また鳴く、を繰り返している。ちょっと心配になった由香は、ポチのスマホを覗いてみた。そこには何匹もの犬の顔が映っていた。どうやらビデオ会議をやっているらしい。由香は、父親が家のパソコンでやっているのを見た事がある。

「ポチ、置いてっちゃうよ。ほら、行くよ」

 由香はグイッと強くリードを引いた。

 ポチは、顔を上げて、由香を睨み付けた。

 由香は、怖さを覚えた。こんな顔をするポチは初めてだ。気がつくとポチはビデオ会議にもどり、楽しそうにワンワンと鳴いていた。由香はそれが終わるまでじっと待つしかなかった。


「お母さん、私もうポチの散歩、ヤダ」

 家に帰ると、由香は母親に訴えた。母親は、そんな風に言い出した由香に驚いた。

「あら、散歩は楽しみだったんじゃない? どうしたの、急に?」

「だって、ポチ、ずっとスマホ見ていて、つまんないんだもん」

「ポチはスマホ貰って嬉しいんじゃない? 慣れてきたらまた元のようになるわよ」

 しかし、それからもずっとポチはスマホばかりを見ていた。


 段々と我慢できなくなってきた由香は、いじわるをした。

 ポチのスマホに対抗したのだ。由香はまだスマホを持っていないので、図書館で借りた絵本を持ってポチと散歩に出た。スマホを見ているポチに対抗して、由香は絵本を開いて、ずっと見ていた。ポチの方には目もくれない。お互いがあたかも、まわりに誰もいないかのように勝手に歩いているという変な光景だ。

 由香は時折、ちらっとポチの方を見たが、相変わらずスマホを見ていて、由香の事など気にも留めていない。これでは折角のも意味がない。由香は、その後も何度か絵本を持って散歩に出たが、馬鹿らしくなってやめてしまった。ポチはそんな由香のあれこれなど知らぬように、いつもどおりスマホを見て歩いていた。


 由香は、ポチなんか一人で散歩すればいい、と思うのだが犬だけで外を歩かせるわけにはいかない。リードに繋いでいなければならない。由香は、渋々、ポチとの散歩を続けた。自分に言い聞かせていた。

「ポチとの散歩だと思うからいけないんだ。私一人で散歩していると思えばいいのよ」

 ポチはスマホを凝視して歩いているので、前から来る人は右へ左へとポチをけてすれ違って行く。由香は気になってしょうがなかった。ポチが平気なのが不思議だった。

「ねえ、ポチ。前から人が来るときくらい、顔を上げたら? っても無理か。犬だもんね。人間のマナーなんてお構い無しだよね」

 由香は、もう投げやりになっていた。


 ある日、ポチが、ドッグフードのフリマを夢中になって見ている時、由香はとうとう怒って、大きな声で叫んだ。

「ポチのスマホなんか、どっか行っちゃえ!」

 一瞬辺りの空気がピンと張り詰め、直ぐにまた元に戻った。由香が見ると、ポチがキョロキョロと周囲を見回している。その首にスマホは無かった。

「あれ、ポチ、スマホどうしたの?」

 落としたのだろうか。由香は一瞬、自分の叫びが本当にスマホを消してしまったんじゃないかと思ったが、直ぐに打ち消した。そんな事、あり得ない。

 ポチは右へ左へウロウロと歩き始めた。スマホを探しているらしい。由香はポチについてしばらく周囲を歩いた。スマホはだったので、自分から探してあげる気にはなれない。30分も経っただろうか。ようやくポチは諦めたようで、しゃがみこんでしまった。寂しそうな顔をしている。

「そんなにスマホが必要なの? スマホが無いくらいで、そんなにがっかりするの?」

 由香はうんざりした面持ちで、ポチを引き連れて家へ帰って行った。


 母親は、ポチにスマホを与えたのはちょっと失敗だったかも、と思い、代わりのスマホは与えなかった。ポチは一生懸命尻尾を振って、母親にスマホをねだったが、聞いてもらえなかった。

 ポチはしばらくは意気消沈していた。しかし日が経つにつれ、少しずつ元気になっていった。ちゃんと前を見て、由香と一緒に歩くようになった。由香はまだくすぶっていたが、そんな変化を嬉しく思った。

 ポチはまた、由香に吼えたり、引っ張ったり、一緒に駆けるようになった。再び、ポチとじゃれあって、楽しそうに歩く由香の笑顔が見られるようになった。


 ポチも由香もすっかりスマホの事なんか忘れてしまった頃、母親が言った。

「由香ちゃん、もうすぐよ。十才のお誕生日。待ち遠しかったでしょう。ほら、スマホの話しよ。ちゃんと買ってあげるわ。iPhoneがいい? Galaxyがいい? ポチに見せびらかしてもいいのよ」

 由香は母親を、憮然とした顔つきでじっと見ていた。そして言った。

「お母さん、私、スマホいらない」

「あら、あんなに楽しみにしていたのに」

「だって、ポチみたいになっちゃうの嫌だもん。さ、ポチ、行こ!」

 ポチはワンワンと鳴きながら、由香の後を付いて家を飛び出して行った。


 由香は、口には出していないが、とっても良かったと思っている事があった。母親の事だ。もし、母親が、スマホに夢中だったポチみたいだったらどうだろう。想像するだけで寂しく、悲しくなってくる。

 公園に行く時も、買い物に行く時も、母親は、ずっとスマホだけ見ていて・・・・・・

 由香は暗くなりそうな思いを振り払って、顔を上げ、ニッと笑い顔を作った。

「よかった、今の母さんで」

 ポチは由香をぐいぐい引っ張って、早く来いと催促するようにワンと吼えた。

「待って」

 由香は海辺へ通じる道を、ポチの後を追って駆け下りて行った。












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