五章
ここからどのような言葉を発し、どのような行動を取るのが正解なのか。正助には分からなかった。その結果、挨拶にも答えずに長い沈黙を生んでしまった挙句、それを軌道修正したのは愁子であった。
「今、婆やがお昼寝をしている隙に携帯電話を拝借しているのですが、少しだけお話しませんか?」
「え、あぁ。もちろん」
半分以上聞き逃してしまったが、後半の一部、「お話しませんか?」だけは聞き取ることが出来た正助は、裏返る寸前の声で返事をした。
「先日はごめんなさい。急に帰らせるようなことになってしまって」
「いや、大丈夫。気にしてないよ」
「ありがとうございます。その、失礼なのは分かっているのですが、また私と、お出かけしてくれませんか?」
その声は微かに震えていた。緊張なのか、不安なのか、それとも申し訳なさからなのか。どれが正解なのかは分からなかったが、彼女がもう一度正助に会いたがっているという事実だけが、脱力していた彼に動力を注いだ。
「俺でよければ、いつでも付き合うよ」
「本当ですか? 良かった。あなたは仏のように心が広いのですね」
彼女が発したその言葉に正助は唖然とした。仏のように……。そうか、彼女が俺を連れ出してくれたように、俺も彼女を連れ出せていたんだ。習慣という渦中から。俺も彼女も、互いに互いのことを神仏のように感じ、救われていたのだ。二人なら、いや、二人でなくては習慣から抜け出せない。きっとそうだ。つまり俺が、彼女を屋敷と言う習慣から、ひいては露崎麗美という習慣から解き放ってあげなくてはならないのだ。誰かを救うことが自分を救う事にもなる。つい数分前まで椅子と同化しかけていた正助は、彼女のたった一言で希望の光を取り戻したのであった。
「あの、樺島さん?」
「あぁ、ごめん。それと、そっちが良ければ正助でも良いよ」
「あ、はい。分かりました。……正助さん」
声だけでも、彼女が頬を紅潮させながら俯き加減に自分の名前を呼んでいることが分かった。正助はそんな彼女を愛らしく想いながら、膝の上に置かれている日傘に目が移った。そうだ、手元には口実もある。それを自覚した彼の心身には、急に勇気が漲った。チャンスも、口実も、彼女からの必要も、全てが揃っていた。後は行動を起こすのみ。敷かれたベルトコンベアから飛び降り、自分の足で世界を歩むのみなのだ。
「あのさ、先週日傘をそのまま持って帰っちゃったんだけど、明日にでも返しに行った方が良いかな?」
「あ、そうでしたね。でも明日だと急なので、都合の良い日を追って連絡します」
そう言う彼女の声音には、どこか覚悟の決まったような、重厚感と清涼感が籠っていた。きっと彼女も、あの鳥籠から脱する準備を始めているのだ。そう解釈した正助は、分かった、待ってる。とだけ答えた。
それから二日後の昼頃、畠山の名を冠した愁子から連絡が来た。
「もしもし、愁子です。突然ですが、明日はお暇でしょうか?」
「うん。空いてるよ」
「良かった。では明日、屋敷でお待ちしています」
「あぁ、きっと行くよ」
たったそれだけの会話であったが、正助と愁子は自分たちの確かな繋がりを感じ合っていた。電波という科学的な繋がりでは無く、互いに信頼し合っているという神霊的な繋がりが自分たちにはあると、大同小異に二人は考えていた。
その後二人は自分の覚悟が揺るがないように、変に会話を続けることはせずに通話を終了した。鼓膜はまだ彼女の声で揺れているような勘違いを覚えながら、正助は確かな実感を得ていた。自分勝手な妄想では無く、彼女が自分を頼っているという事実に彼はとても満たされていた、しかしその反面、明日が勝負の日であることも悟っていたので、どこか焦燥感にも駆られていた。こんな考えは全くの驕りだと自覚していても、自分の一挙手一投足が彼女の人生を大きく左右させてしまいそうな気がして、彼は得も言われぬ焦りに心を焼かれ、気持ちが落ち着くまで両手の中でスマートフォンを弄り回した。
どれだけ時間が経とうとも、高揚と焦燥は収まるところを知らない。むしろ明日のことを考えれば考えるほど、それらの感情は泉の如く湧き出て来た。考えるのはダメだ、自ら悪循環に飲まれに行っているようなものだ。ただひたすらに、彼女を救いたいという純粋な思い。生物がこの世に産み落とされたときから備わっている本能。それに従うんだ。正助は自分の根幹を見直すことで全身から思考を抜き去り、生まれたままの裸身となり、直感と衝動に体を預けることにした。
葉先から零れた雫が湖面に波紋を映すように、いつの間にか戻って来た思考は忽ち正助の全身に生の感覚を引き戻した。既に地球は一周を終えたようで、朝の晴朗な日差しが正助を優しく照らしていた。尋常ならば眠りを妨げていた存在が、今日だけは加護のように自分を包んでくれているような気がした。
昨日の記憶を明確に思い出すことは出来ないが、早く寝た記憶だけはしっかりと残っていた。現在は朝の七時過ぎなので、おおよそ七時間から八時間は寝たことになる。寝過ぎのせいか少しだけ背中が痛むが、気分は爽快である。決別を迎えるには良い日だ。そんなことを思いながら正助はベッドを出た。
なるべく自分の気持ちを制御しているつもりでいた正助だが、いざ起きてみるとやることが無く、いつでも出掛けられるように身支度を整えて軽い給水をした後はひたすらに時間を持て余した。
それから小一時間が経過して九時を迎えようとした時、正助はふと思った。そもそも彼女に時間の指定をされていないじゃないかということに。これはつまりどういうことなのかと数分考えた結果、自分の覚悟を試されているのではないかという答えに正助はたどり着いた。そうだ。彼女からの連絡を待っているばかりでは、結局何も変わっていない。自らの力と意志で現状を打破しなくてはいけないのだ。そう思うと不安や恐怖というマイナスの感情は心内から浄化され、手ずから前に踏み出したい気持ちでいっぱいになった。その一度脳に浮かんだ考えを下手に咀嚼しようとせず、正助は真直に信号を送り出した。すると身体は勝手に動き出した。スマートフォンと自宅の鍵、それと重要物である白い日傘を持って正助は自室を飛び出した。
九時を過ぎたばかりの外気は程よく正助の体温を上昇させた。自分の運命も、彼女の運命も、露崎麗美の運命も、今日で全てが決まるかもしれない。信号を待ちながら丘上を眺めている正助は、真剣な面持ちでそんなことを考えた。常ならばこの思考が自らの足枷となり、踏み出す勇気を挫いていたのだが、今回は違った。不思議と彼女の顔を思い浮かべると心が落ち着いたのである。そして何より、ここで引き返してしまったならば、二度と習慣から脱却するチャンスを得られないと思っていたからこそ、失うものの無い正助は迷わず前進することが出来た。
屋敷へと続く坂道に差し掛かった正助は、自転車を立ち漕ぎしながら顔を上げ、真っすぐに前方を見つめた。するといつも通り固く閉ざされている鉄柵門がまず視界に入り、次いで鉄柵で出来たストライプの向こう側に停まる白い車が映った。やはり彼女は正面から母親にぶつかるつもりなのだ。車を見た正助はそう思いながら坂を上り切り、門柱の傍に自転車を停めて鉄柵門の前に立った。俺も向き合うんだ。彼女の全てと。ここまでたどり着いた正助の覚悟は堅固であった。迷いなくスマートフォンを取り出すと、畠山に電話を掛けた。
「もしもし、畠山です」
「もしもし、樺島正助です」
「あら、どうかしましたか?」
「はい、先週持って帰ってしまった日傘を、今、届けに来ました」
「い、今でございますか?」
「はい、今です」
正助の口調に全くの歪みがなかったので、畠山は一瞬自分が約束をど忘れしていたのかと疑ったが、数秒間記憶の中を放浪しようともそれらしき痕跡が見当たらなかったので、今起こっていることは彼自信の意志で生じた出来事なのだと把握した畠山は、ようやく声を絞り出した。
「も、申し訳ございません。今日は少し都合が……」
「良いじゃないですか。日傘を返すだけなんですから」
明瞭で闊達な声が携帯電話を通して聞こえてくると、畠山はまたしても口を噤んだ。もう自分が何を言っても彼は帰らないような気がしてしまい、畠山は嫌な汗をかき始めた。
「で、ですが……」
今屋敷には露崎麗美がいる。畠山はそう言ってしまいたかった。しかしそう言ってしまっては、まるで彼女が邪魔者のように聞こえてしまうのを恐れ、畠山は言葉を探した。
「あら、あなたが誰かと電話をしているなんて珍しいわね」
通話相手の対応に困っていると、背後から麗々しい声が聞こえて来た。畠山は咄嗟に送話口を抑えて振り向くと、そこにはサングラスをかけた露崎麗美が立っていた。
「あ、えぇ、はい。野暮用でございます」
「そう、早く切り上げてね。それまで私、庭に出ているわ」
「麗美様、今外に出ては……」
畠山は主を引き留めようと精一杯の声を出すが、どれだけ声が届こうが主が従者の言葉を聞くはずも無く、麗美は玄関に向かった。すぐさまその背中を追わねばならないと思った畠山は、ひとまず正助との電話に戻った。
「もしもし、すみません、今麗美様が……。もしもし?」
慌てて電話に戻ったは良いものの、正助の声が返って来ない。そればかりか、ツーツーという電子音だけが残されており、それは畠山の心に不協和音となって反響した。
携帯電話をエプロンのポケットに入れ、早足に玄関へ向かって外に出てみると、そこでは既に露崎麗美と正助が相対していた。
「何か用ですか?」
自ら運転してきたであろう白い車の傍らに立つ麗美は、鉄柵門の向こう側にいる正助をサングラスの下から鋭く睨みながらそう言った。
「あなたが」
その次に続く言葉を言わせまいと、畠山は玄関から飛び出した。しかし数メートルも先で行われている諍いに割って入るほどの若さを彼女は持ち合わせてはおらず、正助の声は続いた。
「愁子さんの母親ですか」
「……」
「その屋敷に住んでいる女性の母親ですか。と聞いているんです」
「……畠山! これはどういう――」
「彼女は関係ありません!」
ようやく言葉を発した麗美に対し、正助はそれを遮るように声を上げた。
「俺は今、あなたに質問しているんです」
正助の勢いに気圧されてか、麗美は口を僅かに開きながらじっと正助のことを見つめ、数秒後にその口を動かした。
「えぇ、そうよ。だったら何?」
開き直る幼女の明け透けさで答えた麗美は、その歩調に怒りを露わにしながら鉄柵門に歩み寄った。
「あなたこそ何様? 記者? あぁ、分かったわ、口止めの金目当てね」
「違います。俺はそんなものに興味ありません」
「そんなもの……? じゃあ何をしに来たの?」
「彼女を連れ出すために来た」
「ふっ、つまらない冗談ね。あの子は私の物よ。ずーっとここに閉じ込めておくの」
「何故です。彼女は生きたがっている。それに、あんた何かよりよっぽど美しい!」
「わ、私なんか、より……。美しい……」
それまで威風堂々としていた麗美だが、その一言を耳にした瞬間、わなわなと震え始めた。
「私、私の方が美しいわ! あれだけお金を掛けて、あれだけ努力をしてきたのだから。私の方が美しいに決まっているわ! 何も知らない小娘なんかが、私に適うはずが無いわ!」
目を背けていた事実を突きつけられて打ち震えていたかと思うと、今度は激情して鉄柵に掴みかかり、金切り声で自らの美徳を語り始めた。あくまでも、彼女の私見である美徳を。
「確かにあなたは美しい。だけどそれは外見だけだ。今のあなたは少しも美しくない」
「黙りなさい! 私は美に全てをつぎ込んできたの!」
「じゃあ、そのサングラスを取って愁子さんのことを見れますか?」
正助がそう言うと、麗美は鉄柵を揺らす手を止めて茫然と立ち尽くした。そして間もなく、彼女は言った。
「そこにいるの? あの子はそこにいるの?」
未だ呼吸を荒げている畠山の横を通り抜け、愁子が庭に出て来た。麗美はその姿を背後に感じ、再び震え始めた。
「嫌、嫌よ。あの子を近づけないで! あの子がいなければ、私は美しいままでいられたの! 私の美の全てはあの子に奪われてしまったの!」
今正助の目の前に立っている女は、脱獄を望む非力な捕囚であった。正助はそっと両手を伸ばし、鉄柵の隙間から向こう側に手を入れると、静かにサングラスを取った。愁子に似た、実に美しい瞳が涙を出そうと必死に歪んでいた。しかし瞳は乾いていた。もうそれは、純粋な美の受け止め方を知らなかったのである。
「お母様」
鉄柵に縋る母の背後に立った愁子は、ハープのように可憐な声音で語り掛けた。
「私を生んでくれてありがとう」
そっと母親の背に抱きつくと、愁子は純朴な言葉で母の心の傷に蓋をした。
「愁子……」
それに応えるように、自らの腹部に回された娘の手に触れながら、母は子の名を呟いた。するとその瞬間、緑の匂いを孕んだ微風が二人の関係を解かすように吹いた。それによって梢は踊り、木漏れ日がスパンコールのように母娘の美しさを装飾した。僅かな光を受けながら一体となるその姿は、まるで母娘の美を象徴する彫刻作品のようだと正助は思った。
それから一カ月後、愁子からメールが届いた。週末に母が来るので、一緒にお茶でもどうですか。という招待状であった。正助はそれに快諾し、今日がその日であった。
今や走り慣れた道を自転車で颯爽と駆ける。これがきっかけで学校には自転車で通うようになった。先月は辛く感じていた連続する坂も、余裕綽々の様相で上り切ることが出来る。そして毎度の如く門柱の傍に自転車を停めると、彼女にメールを飛ばすのだが、今日はその必要が無いようであった。
「いらっしゃい。どうぞ」
水色のシャツに白いロングスカートを纏った愁子が彼を出迎えた。庭にテーブルセットを置き、そこで紅茶を嗜んでいた愁子は彼が坂の向こうから頭を出したその時から、既に鉄柵を開いてその傍で彼の到着を待っていたのであった。
「招待ありがとう」
「いえ、普段勉強を教えていただいているお礼です。それに、今日はお母様がお話をしたいと言うので」
そう言う彼女の目配せの先に視線を向けると、そこにはグレーのキャペリーヌハットを被り、黒いロングドレスを身に纏った麗美が座っていた。
「そうだ、クッキーを焼いていたの。お母様と一緒に待っていて」
挨拶がひと段落したと思ったら、愁子は突然そう言って屋敷の中へパタパタと駆けて行った。残された正助は、言われた通りテーブルで待つ麗美のもとへ向かった。
「こんにちは、お久し振りです」
「あら、いらっしゃい」
「はい。その、記事読みました。しばらくは彼女と?」
「えぇ、向き合ってみようと思うわ」
あの一件から数日後、露崎麗美は女優業の休業を発表した。娘がいることは明かさなかったが、彼女は彼女なりに向き合うことを決めたのであった。
「それは良かった。麗美さんも気付いていたんでしょう。彼女の魅力に」
「そうね。それに背けば背くほど、自分の醜さが膨張していることにも気付いていたわ。それでも、私は認められなかった。自分より確実に美しい存在の誕生を」
「俺も初めて彼女を見た時、激しい自己嫌悪に襲われました。でもその時同時に思ったんです。自分の弱いところ、醜いところを認めることが美しさなのかもしれないって」
「本当にその通りね」
そう言う麗美の頬には、あの時流れなかった透明な雫が伝っていた。
「お待たせしました。焼きたてクッキーです!」
クッキーが盛られた白い皿を大事そうに持ち、一歩一歩丁寧に歩んでくる愁子は満面の笑みを浮かべてそう言った。ようやくテーブルに運ばれた皿には、不細工なクッキーが乱雑に乗せられており、正助はその一つを手に取ってかじった。見た目からは想像もできない、芳醇なバターの風味が口いっぱいに広がった。そんなクッキーの割れ目には、黒いチョコチップが埋まっていた。
美醜 玉樹詩之 @tamaki_shino
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