四章
あれから一週間が経とうとしていた。以来畠山から連絡はない。何をしようにも手に付かず、正助は外の景色をボーっと見ている時間が増えた。額に滲む汗、背中に張り付く衣服、微かに痛む目の奥。夏の暑さは確実に彼の心身を腐らせていた。
机に広がる漢字のテキスト。役目を果たすことなく右手に握られているシャープペン。画面が暗いままのスマートフォン。正助はそれらを順に流し見て、最終的には窓の向こう側で悠々と浮かぶ白い雲に視線を留めた。そしてあの日、露崎麗美が訪れると急遽連絡が来たあの日を思い出した。
……視界の内には緑が多くなり始めた。つい数十分前に下りた坂道を手ぶらで上っている二人。先を正助が行き、その少し後ろに愁子が続いている。正助は時折振り返り、彼女の様子を伺った。麦わら帽子を目深に被っており、表情を読み取ることは出来ない。しかしその歩幅の短さと速度から、彼女が屋敷に帰りたくないことは明白であった。その更に後方には俗世が映っていた。住宅街、商店街、大型スーパー、学校。その全てが彼女に相応しくないものだったのかもしれないと正助は思った。図式的には楽園から追放された二人組のようになっているが、その実は逆である。自分たちの方が楽園から降りて来た天使であり、人間たちがそれを拒んだのだ。そして今我々は、憐憫の思いに泣きながら天界へと戻っているのだ。正助はそんな妄想を以て、自らの無力をかき消そうとしていた。いつも意気揚々と上っていた坂道が、これほどまでに長く感じたことは無かった。
ようやく大邸宅の屋根が見え始めた。三階の窓、二階の窓、一階の窓、そして門柱と鉄柵と。露崎麗美の別宅が順に丘から突き出て来た。帰って来たことを知らせるためにスマートフォンを取り出そうとすると、屋敷の玄関が開き、そこから畠山が出て来た。諦め半分で家主を迎えるために出てきたのだが、鉄柵の先に二人組の影を認めた彼女は少しだけホッとした。
車が入れるように鉄柵門を全開にした畠山は、そこから屋敷へ戻ることなく、二人が帰って来るまで門柱の傍でじっと待っていた。
「おかえりなさいませ」
自分の声が聞こえる範囲に二人が来たと思った畠山は、いつもより少し大きめの声で挨拶をした。そしてソワソワと正助の横を抜けて行くと、愁子の手を取って深呼吸をした。
「申し訳ございません。私のせいで悲しい思いを、恐ろしい思いをさせてしまいました」
それは確かに的を射ていた。しかし何故か愁子のことを語っているように思えず、正助は猜疑心を抱いた。彼女に向けられているはずのその言葉は、どこか畠山自身の安全を喜んでいるような言葉に聞こえてしまったのであった。悲しい思いも、恐ろしい思いも、畠山の心情なのではないかと。
「私は大丈夫です。機会はまたあります。きっと」
愁子はそれだけ言うと、畠山の手を握り返し、更に寄り添い、彼女と共に屋敷へ向かって歩いて行った。やはりそうだ。畠山は懺悔していたのだ。愁子に悲しい思いを、恐ろしい思いをさせてしまった自分を赦してくれと。彼女に乞うたのだ。それにここへ来る中途で想った天使の姿。それもやはり真実だし、商店街のアーチ下で感じた彼女の力も真実であると、正助は再認した。
彼女は自らの足で屋敷に戻った。長い幽閉がそこにあるかもしれないというのに、彼女は自らそこへ戻った。いや、戻らざるを得なかった。老婆を優しく支えながら歩く彼女の背中に、正助は翼を見た。しかしそれと同時に、美しさへの畏怖というものも垣間見てしまった気がした。
木造の牢屋に吞み込まれてしまった愁子を想い、正助はしばらくの間立ち尽くしていた。すると再び玄関ドアが開き、畠山が出て来た。真っすぐ正門へ向かって来ると、正助の前に立って深く一礼した。
「お手数をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません」
畠山は頭を下げたままの姿勢で正助に詫びた。
「いや、これは誰にも読めない展開でしたから」
その言葉通り、今回の出来事には超自然的な何かが関与しているのではないかと正助は考えていた。だから畠山を詰問するつもりは無かったし、咎める必要も無かった。何故なら人為的にどうこう出来る問題では無いからである。
「ありがとうございます。呼び出しておいて大変失礼なのは承知の上で、本日はお引き取り願ってもよろしいでしょうか?」
おずおずと頭を上げた畠山は、まるで正助が太陽であるが如く、数秒の直視さえままならずにそう聞いた。
「はい、また落ち着いたら呼んでください。すぐに来ますので」
「やはりあなたに頼んで正解でした。落ち着き次第、必ず連絡いたします」
畠山はほろ苦い笑みを浮かべると、再度頭を下げてそう言った。そしてようやく正助の顔を直視したかと思うと、またもや目を伏せて軽い会釈をし、彼に背中を向けて屋敷へ戻って行った。その時初めて、正助の耳に蝉の鳴き声が聞こえてきた。次いで生ぬるい風が首元と脇下を抜け、木々の梢を彩る葉を揺らした。そのそよぎは風を冷やし、正助の心も和らげた。やっと世界が動き出したのだ。正助はそんなことを考えた。きっとこの屋敷に戻るまで、愁子が時間を止めていたのだ。そして今、安全を確保した彼女は時を再び動かし、露崎麗美を迎える覚悟をしたのだ。正助はそんな都合の良い妄想に捕らわれながら、門柱の傍に停まっている不法廃棄物のような自転車に跨り、下界へと帰った。
少しだけ日が翳った。今日はいつもより雲が多いように思う。雨が降るかも知れない。回想から戻った正助は、窓の向こう側で着実に動く現実を見てぼんやりと考えた。あの日はまだ終わっていない。この口実を届けない限り、俺と彼女との関係は断ち切られていないのだ。窓から視線を外した正助は、勉強机の横に立て掛けてある日傘を見て、夢想の続きに誘われた。
……白い日傘の存在に気付いたのは、帰宅して自転車を停めようとした時であった。自宅にたどり着くまで実存を悟られなかったそれは、驟雨を見た時に鞄の中に忍ばせた折り畳み傘を思い出す時のように、突然正助の左手に質量を感じさせた。丘を下っているときも、住宅街を走っているときも、信号待ちをしているときも、自分の左手にはこの日傘が握られていたのかと思うと、妙な親近感が湧いた。もしかするとこの日傘は既に自分の一部になってしまっており、周りの人間も自然も、それを当然のことなのだと認めているような気がしてきた。しかしそんなことは空想で、左手を軽く開いただけで日傘は肉体を離れ、地面に落ちた。その時正助は確信した。これは彼女に返すべきだ。人間が持っているべきものではないと。
今すぐに引き返せば、露崎麗美が来るよりも前に日傘を返せるかもしれない。そう思った正助は、左手に日傘を持って自転車に跨り、再び走り出した。しかしどうにも片手に傘を握っている状態というのは走り辛かった。つい数分前の自分がこれを手にしたまま走行していたことを思うと、何気なく凄いことをしていたのかもしれないという気がしてきた半面、やはりこの傘は自分の一部ではないのだという乖離を容認しながら、正助は屋敷への道を急いだ。
日は傾き始めていたが、まだまだ暑さは残っていた。太陽の暑さ、路面からの照り返し、纏わりつくような風、それら全てが正助の行く手を阻んでいるように思えた。心なしかペダルを漕ぐ足も重い。しかしそれはよくよく考えると、運動部に所属もしていない青年が、一日中暑熱に焼かれ、緩く長い坂道を短時間に何回も往復し、その上片手に日傘を持っているとなれば、足に疲れが溜まっていて何ら不思議は無いのである。
ようやく屋敷が見えてきた。本日三回目に訪れる景色の中には、白い異物が混ざり込んでいた。鉄柵門の前に一台の普通乗用車が停まっていたのである。緑が多く茂り、黒を基調としている屋敷の前に停まっているそれは、坂道を疲労に喘ぎながら上って来る正助の狭い視界ですら、多大な違和感として認められた。そしてそれを捉えた瞬間、正助は悟った。既に露崎麗美が来ているのだと。しかしだからと言って簡単に引き返すわけにもいかない。彼は残りの数メートルを全力で駆け上がり、白い車から少し離れた場所に自転車を停め、徒歩で車に近付いて行った。そして触れないように注意をしながら車の中に誰も居ないことを確認すると、忍び足で門柱に擦り寄り、屋敷の様子を伺った。正面から尋ねるべきか。でも畠山さんの焦った様子を見る限り、俺が露崎麗美に会うのは絶対に避けたいようだった。でも彼女の具合が気になる……。そうだ、裏手に回ろう。もしかしたらあの窓が開いているかもしれないし、それにあそこがダメと分かったらこの気持ちも落ち着くだろうし。そうやって心に折り合いをつけた正助は、あの一夜のように、足音を忍ばせたまま屋敷の裏手に向かった。
以前は夜に来たせいで鬱蒼とした雰囲気を醸し出しているように感じた屋敷の裏手であるが、昼間に来るとそんなムードは一切あらず、むしろ秘密基地のような冒険心や、密やかな憧憬がそこにはあった。裏庭の手入れはまだしていないようで、それぞれが脛を撫でるくらいに伸びた芝草は、一層少年の頃を思い出させた。
そんなことを思いながら前進していると、目の前には例の窓があった。そこで一度額と頬の汗を拭うと、正助はゆっくりと右手を伸ばし、五本の指をガラスに立てて指先に力を集中させた。そして窓を右にスライドさせる。
――自分が薄っすらと映る窓は、無音のまま右側に開いた。確かに正助の手がこの窓を開いたのだが、すんなりと開いた窓を見ていると、自分の人間性がこの屋敷に、そして彼女に認められたからこそこの窓は侵入を許したのだという気がして来て、正助は僅かの高揚を覚え、罪と免罪を同時に受領したように思えた。
窓枠を乗り越えて屋敷内に侵入した正助は、ひとまず廊下へと続くドアに身を寄せて耳を澄ませた。……静かだ。刻々と雑念が浄化されていき、疲れも癒え、眠ってしまいたくなる。そうして薄れ行く意識を自覚した瞬間、正助は自分が瞼が閉じていたことに気付き、意識への沈潜から浮き上がった。するとその時、全身に衝撃が走った。驚いた正助はその場から飛び退き、止まっていた思考を一気に再稼働させた。
「おやめください! 麗美様!」
畠山の声が廊下に響く。それを聞いて正助は思い出した。フローリングに何かが強く当たる音を聞いて、俺はドアから離れたのだと。つまりこうして冷静に判断をしている場合じゃない。そう思った正助は素早く立ち上がり、左手に持っている日傘を右手に持ち替え、ドアをそっと開いた。
「私は説明をして欲しいだけなの。なんであの子が私の服を着ているわけ? 日傘も一本無くなっているようだし。畠山、しっかりと説明して!」
「えぇ、それは。その……」
数回聞いたことのある畠山の声はいつも以上に弱々しかった。それに対してもう一人の声は聞き覚えがあるようで、初めて聞くような声であるようにも思えた。恐らくこれが露崎麗美の声で、その二人の声は以前正助が招かれたときに通されたダイニングから聞こえていた。
「私が、私が外に出てみたいとお願いしたのです」
言い淀む畠山に代わり、清々しく凛とした声が廊下に流れる。濁りの無い耳にすっと入って来るこの声は、愁子のものだとすぐに分かった。そして今、彼女が何かに脅かされているという事もすぐに分かった。
「生意気になったものね。あなたは人形のままでいれば良いの。この屋敷で、私が言う通りに生きて行けば良いのよ。分かった?」
一見子どもに優しく語り掛けている母のように聞こえるが、その実は違う。冷徹で、狡猾で、独裁的で、美しく見える外表の裏には、計り知れない醜さが潜んでいることに正助は気付いていた。そしてその黒さが、彼女を汚そうとしていることにも。
正助は彼女を救い出すために、一歩ずつダイニングに近付いて行く。露崎麗美の声が少しずつ大きくなり、次第にその言葉の棘が目立ち始める。暴力ではない歪みが彼女の純潔を曲げ、汚し、殺してしまうような気がして、正助は右手に持っている日傘を強く握りしめ、ダイニングへ続くドアの前で息を潜めた。
「あなたは一人では何も出来ないし、教養も知識もない。その上そんな見た目で外を歩き回るなんて、恥知らずにも程があるわ。それに、外の世界は危ない事、怖い事が溢れているの。だから、私はあなたを守るために、幸せになってもらうために、この屋敷を建てて、こうやって子育てをしているのよ。分かった?」
穏健な調子で発しているように思えるその言葉の数々は、どれもが鋭く研がれた刃であった。
「これ以上心配をかけないでね。あなたには、私のように汚れて欲しくないの。あなたを思っているからこそ、こうしているのだから。……はぁ、少し話し過ぎたわ。畠山、何か飲み物を」
「は、はい……」
いつでも飛び込める態勢でいた正助だが、露崎麗美の声が消えるとともに自分の胸の奥で燃えていたはずの怒りの炎も鎮火されてしまい、固く握っていた日傘をそっと下ろした。今ここで俺が出て行ったら、折角落ち着いた火がまた燃え上がってしまう。でも俺が消沈した理由はそっちではない。何も言い返さない彼女が俺の怒りを消してしまったのだ。彼女の力があれば、あの露崎麗美ですら跪かせることが出来るはずなのに、彼女は何故言い返さないのだろう。やはり彼女も、習慣の奴隷だったのだ。一瞬にしてそんな妄念が思い起こされると、今右手に持っている日傘は彼女が自分に預けてくれた彼女の心のように思えて来て、それならば今すぐここから離れなければと思った正助は、無心で廊下を引き返し、窓から外へ出て、何事も無かったかのように窓を閉めた。そして大きなため息を吐くと、自分も習慣に戻る決心をして帰路に就いたのであった。
立て掛けていた日傘が倒れた。彼女が倒れたような気がして、正助は背もたれから離れて上体を曲げ、暗めの床上でやけに目立つ白い日傘を拾い上げ、両手で横持ちにした。彼女との邂逅も、彼女との散歩も、彼女との別れも、始めから終わりまでが現実の記憶としてこの日傘に詰まっていた。夢想ではない。愁子は確かに存在して、二人は確かに商店街まで赴いた。ただ、そこで習慣に引き戻されてしまっただけである。自分で世界を変えられない正助が、勝手に愁子を女神に見立て、ときめきの無い、彩色の無い現実から抜け出そうとしただけなのである。そして手元に残ったのは、何でもない純白と、光を遮る日傘だけであった。
残り二週間弱の夏季休暇も、習慣の鎖に繋がれた範囲内で終わるのだろうと考えると、彼女と過ごした数日がより一層尊きものだったように思えて来た。この思い出を残してくれただけでも、俺は充分彼女に救われた。でも、俺は彼女に何かをしてあげられただろうか……。畠山さんとの約束も果たせないままで良いのだろうか。このまま何もせず逃げ出して良いのだろうか……。
彼が意を決して畠山に電話を掛けようとスマートフォンを取り上げたその時、バイブレーションと共に『畠山』という文字が液晶画面に映し出された。
まだ見捨てられていなかった。これは行動を起こそうとした俺に対して、神が送ってくれた最後のチャンスだ。正助は好きでもないこじ付けを以てそう考えると、間髪入れずに応答ボタンをタップした。
「はい、樺島です」
「もしもし、私です。えっと、愁子です」
電話をかけて来たのは、彼が今一番求めている彼女であった。
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