三章
露崎麗美の別荘に忍び込んでから数日が経った。あれからあの肝試しについて話し出す友人は一人もおらず、あの屋敷は幽霊も怪物も財宝もないもぬけの殻として決着がついてしまったようであった。恐らく自分が何も語ろうとしない点も気にかかり、彼らはこれ以上触れないという選択を取ったのだろうと正助は考えた。
時刻は正午前。珍しく宿題をしていた正助はふと手を止めた。あともう少しでテキストの半分が終りそうだなと頭のどこかで考えつつも、脳内にはあの屋敷のことばかりが充溢していた。挨拶はまた明日……。彼女は本気で勘違いをしてそう言ったのか。それともあの場を誤魔化すためについた嘘なのか……。いや、嘘にしては平静過ぎた。彼女は本当に俺が訪問者だと思い、ああ言ったのかもしれない。そこまで考え至った正助はシャープペンを置いて立ち上がった。だったら、正式にあの屋敷を訪ねてみれば良い。
正助は考える間もなく行動に移った。なるべく綺麗な服に着替え、家の鍵とスマートフォン。財布を尻ポケットに入れて家を出た。そしてそのままの勢いでバスに乗ろうとバス停に向かって歩き出したが、数歩進んだところでふと考え直した。この間は待ち合わせで学校前に集まっただけで、自宅から一人で行くなら自転車の方が早いか。冷静に考えることが出来ている自分を褒めながら、彼は一度自宅玄関に引き返して自転車の鍵を取り、車庫で眠っている自転車を引っ張り出した。数年ぶりに響く開錠音は錆びのせいで少しぎこちなかったが、一気にロックが外れる様はいつ見ても聞いても気持ちが良かった。タイヤの空気も然程減っておらず、正助は早速それに跨って走り出した。
鉄塊を自らの足で動かして風と一体になる感覚は彼を溌溂とさせた。湧き出る汗も気にならず、ただ前進しているという事実が彼を満足させた。坂を一つ越える毎に、運動とは別の鼓動の高鳴りを感じながら、彼は露崎麗美の別荘前にたどり着いた。鉄柵門は相変わらず閉まっており、全く人気が無い。しかしここまで来て引き返すわけにもいかないので、ひとまず自転車を門柱の傍に停めるとインターホンの類を探した。しかしそれらしいものは見当たらなかったので、彼は頭を悩ませた。このまま帰ろうか。それともこの真昼間に正面から堂々と鉄柵門を越えて敷地に侵入するか。彼は鉄柵門を見上げながら少しの間考えた。
仕方がない。今日は一旦帰ることにして、今度来た時は何が何でも侵入して彼女に面会しようと正助が屋敷に背を向けようとしたその時、玄関のドアがゆっくりと開いた。そしてその隙間から質素な服にエプロンをつけた老婆が姿を現し、少々前傾姿勢をとると正助の方を凝視した。
これはいったいどういう状況だ。出掛けようとしたところに偶々鉢合わせてしまったのか、それとも……。正助がそんなことを考えていると、老婆は腰の後ろで手を組みながら緩やかな傾斜を下り、鉄柵門に近付いて来た。そして少し離れたところで立ち止まると、細い目で数秒間正助を見つめた後に口を開いた。
「あの、何か御用ですか?」
捨てられた子猫にかけるような温かく優しい声が正助の身に降りかかった。もしかしたら本当に自分の横に子猫が捨てられているのかもしれないと思った正助は自らの足元を一瞥した後、鉄柵の向こう側にいる老婆の顔を申し訳なさそうに見た。
「あなたのことですよ。もしも麗美様の取材などでしたら、彼女は数か月ここへはいらっしゃらないと思いますので、どうかお引き取り下さい」
老婆は礼儀正しくそう言いながらも、その表情はとても柔らかく、まるで親戚の少年を宥めているような雰囲気を纏っていた。
「あ、いえ。取材とかそう言うのじゃなくて……」
馬鹿正直に答えられる訳も無く、だからと言って怪しまれるのも良くないと思った正助は、外行きの高い声音でそう答えてからそれに続く言葉を探した。
「その、通りかかって……。いや、下見に来ました。肝試しの。本当にすみませんでした」
この丘に来たということは、明らかにこの屋敷目的であることが誰でも容易に察しがついたので、通りかかった。という言い訳は適していないと瞬時に判断した正助は既に終わったはずの肝試しという単語を使ってその場を濁し、すぐに頭を下げた。
「ほほほ、そう言うことでしたか。なに、謝ることはありませんよ。これほどまでに怪しい屋敷もそうそうありませんからねぇ」
てっきり怒声を飛ばされると思っていた正助は茫然と老婆を見つめた。何か返答しようにも言葉が出て来ず、ぽかんと口を開いたまま正助はフリーズした。
「だから気にすることはありませんよ。それに、あなた以外にも見に来られる方は沢山いますから。どんな噂をされようと、仕方の無いことですから」
老婆は微笑みながら、しかしどこか寂し気にそう漏らすと、小刻みに数回頷いて正助の方を見つめ直した。そして小さくお辞儀をすると、ゆっくり反転して屋敷に向かって歩き始めた。
「あの、ほんの少しだけ中を見せてもらう事って出来ますかね? 友達がうるさくて……」
始めはそれらしい理由を思いついて意気揚々と話しかけた正助であったが、脳内で思いついた言葉を声に出していく度に自信が無くなっていき、最後の方は瀕死の虫の鳴き声のようになっていた。恐らく後半は聞き取れていなかったであろう声に足を止めた老婆はゆるりと振り返った。そして困り顔になっている正助をその目に捉えると、それに照応するように自分も困った顔をして見せた。
「申し訳ございません。関係者以外の立ち入りは……」
物悲しそうにそう言うと、老婆は静かに深くお辞儀をした。このままだと、きっとあの人は頭を上げたと同時に屋敷に戻って行くだろう。そう思った正助は相手が次の行動に移るよりも前に声を上げた。
「関係者になれば。良いんですか?」
予想だにしない答えを聞いた老婆は今までにない俊敏な動きで頭を上げ、正助を見つめた。
「今日だけでも良いです。家事でも、買い出しでも、何でも手伝います。だから……」
彼女に会わせてください。とは言えなかったが、老婆の表情を見る限り、一縷の望みは繋がったように正助は感じた。
「ほほほ、そうですね。確かにその通りでございます。関係者になってしまえば出入りしていても違和感はありませんね」
笑みを浮かべて軽やかに答弁する老婆を見た正助は多少わざとらしく深呼吸をして、自分も頬を綻ばせた。
「ですが、何故誰も住んでいないはずの屋敷に家事や買い出しをする必要があるというのですか?」
慎重に積み上げて来たトランプタワーを最後の一組で崩してしまったような、勝利を確信した瞬間の敗北。それが正助に襲い掛かった。ここからどう立て直すべきか。いや、そもそも立て直すことは可能なのだろうか。どれだけ思案しようにも、正助の手元に手札が無い以上、もうどうすることも出来なかった。
「此処を任されている以上、私は確かめなければなりません。あなたが何を知っているのか」
真と偽。二枚のカードが配られた。今の自分の気持ちに素直でいれば彼女に会えるかもしれない。しかし正直に答えたところで屋敷の中に入れることは約束されていない。となればここは嘘をつき、一度出直すべきなのかもしれない。だが老婆は、確かめねばならない。と言った。そう簡単に帰してくれるだろうか。正助は黙り込んで考えた。老婆は何もせず、ただ正助を一点に見ている。そのやけに黒い瞳で。正助はそんな老婆から目を逸らし、右斜め上を見やった。俺は今、嘘をつこうとしている。そう思いながら視線を戻そうとしたその時、三階の角部屋の窓に真っ白いワンピースを着た彼女がいた。日に焼けたカーテンの隙間から、確かにこちらを見ている彼女が居た。
「俺……」
正助は何かに操られているような調子で切り出した。その視線の先にもう彼女はいない。つと視線を老婆に戻し、言葉を継ぐ。
「知っています。この屋敷に女性が住んでいることを」
ほとんど出しかけていた偽のカードを引っ込めて、正助は真のカードを老婆に返した。その瞳と声音は震えていない。彼は包み隠さない実直な裸像となって老婆を見続けた。
「……分かりました。続きは中で話しましょうか」
言葉からも、行動からも、その姿からも一点の暗さを感じさせない正助を見た老婆は、彼から光の片鱗を感じ取り、神妙な面持ちでそう言った。
その僅か数秒の間に行われたやり取りは正助の脳内で霧のように広がった。現実であるのは確かなのだが、何故かふとした瞬間に今までのことが全て幻のように感じてしまう。その要因は一体何なのだろうか。正助は老婆の後に続いて屋敷の敷地内を歩いている間、ずっとそのことを考えていた。しかし彼が答えに辿り着くよりも前に屋敷へと辿り着いてしまい、彼は一度考えることを止め、老婆が何を企図しているのかを考え始めた。口封じか。それとも警察に通報。最悪の場合は殺し。いや、それは無いか。悪い方向に考えてしまう習慣を取り払い、正助は単純な答えを出した。きっと軽い口封じ程度だ。何故なら若い男に老婆が勝てるはずも無いし、それにこの人が悪い企てをするとは思えない。だからきっと、軽い口封じだ。彼が一人で答え合わせをしていると、少し広めのダイニングに到着した。老婆は、どこへでも自由に掛けて待っていてくだされ。と言うと、奥の部屋に消えて行った。
老婆が去って一分が経とうとした時、彼はようやくその違和感に気付いた。疑わしい男をダイニングに一人残してどこかに行くだろうか。いや、そんなことはあり得ない。あの人はただ、俺を招じ入れただけなのではなかろうか。そう考えると、正助は自分が惨めに思えた。自分が正常であると言い聞かせたばかりに、善良なあの人を犯罪者に仕立て上げようとした。なんて小さい人間なのだろうか。
「お待たせしました」
密やかな声は正助の心臓を冷たく撫でるようであった。その落ち着きが、静けさが、却って正助の罪悪感を増大させ、彼の身を固めた。強張る首を何とか回して声がした方を見るとそこには老婆が立っており、皺と脈が目立つ両手には湯呑を二つ乗せたお盆が握られていた。やがてその湯呑の片方が正助の前に差し出され、老婆は彼が座っている正面の椅子に腰を下ろしてもう片方の湯呑を自分の目の前に置き、お盆は脇の方にそっとずらした。
「あなたを咎めるつもりは一切ありません。ですがその代わりに、お嬢様のお相手をしていただきたいのです」
「お、お相手……。ですか」
自らを咎め、罪を受け入れようとしていた正助は、その一言でまた更に内包する罪悪が膨れたように感じながらそう答えた。
「はい。お嬢様が生まれてから十六年。私はずっとここでお嬢様と暮らして参りました。始めはこれで良いのだと自分に言い聞かせ、麗美様の言う通りにしてきました。ですが、大きくなったお嬢様を見ていると、どうにも哀しくて。この家に生まれていなければ、色んな選択肢が彼女にはあったのではないかと考える度、私はここを飛び出したくなるのでございます。ですから、彼女を連れ出して欲しいのです。この屋敷から」
突拍子もない提案は沈黙を生んだ。承諾するしか道はないにもかかわらず、正助は黙って秒針が時を刻む音に耳を傾けた。もちろんです。彼の脳内ではその言葉が今か今かと出番を待っている。だが彼は口を半分開いたまま硬直して、老婆の発した言葉の意図を辿っていた。
「夜逃げや駆け落ちを頼んでいるわけではありません。ただ、お嬢様に外の世界を見せてあげてほしいのです」
困惑している正助を見て、老婆は詳らかな説明を添えた。それでようやく合点がいったような表情をして、正助は小さく頷いた。
「分かりました。俺で良ければいくらでも手伝います」
「ありがとうね。お嬢様もきっと喜ぶと思います」
朗らかな調子でそう言うと、老婆はエプロンのポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。そしてそれにスラスラと数字を書くと、その一枚をちぎって正助に手渡した。私の電話番号です。また後日連絡します。きっとすぐに。老婆は笑顔のままでそう言うと、少し冷めた茶を啜った。
それから二日後。朝の八時ごろに正助のスマートフォンが鳴った。夏季休暇中の学生がこの時間に起きていることは稀であり、彼もその例に漏れず、着信音はアラーム代わりとなって彼を目覚めさせた。ぼーっとしている頭でも、画面に映っている数字が何を表しているのかが彼には分かった。それは受け取ってから何度も脳内で復唱した老婆の電話番号であった。
「もしもし……」
意識が曖昧な脳内で揺蕩う定型文を見つけ出した正助は、辛うじてその言葉を口から発した。
「もしもし、
声の主は畠山と名乗った。電話番号は確かにあの老婆のものであるし、声もあの日聞いたものに酷似している。しかし名前を聞くとどうにもしっくりこない。正助は話の流れに身を任せて適当な相槌を返し、電話の続きを促した。
「準備が整いましたので、申し訳ございませんが、屋敷の方へ出向いていただいてもよろしいでしょうか?」
「え、はい。もちろんです。今から支度します」
「えぇ、えぇ、よろしくお願いします」
その後に、失礼します。と丁寧な挨拶を添えて電話が切られた。正助は枕の上にスマートフォンを落とし、上体を起こした。欠伸をしながら背筋を伸ばし、勉強机の上で少し丸まっているメモ用紙を見た。ベッドから出た彼がそのメモを覗き見ると、そこには電話番号と、畠山。という姓が記されていた。常ならばこんな些末な見落としをするはずがない。つまり自分は今、確実に、新しい世界に踏み出そうとしているのだ。見るもの全てが新しく感じられる。そんな世界へと。その大きな発見が正助の全身から眠気を払い除け、彼を快活にした。
諸々の準備を済ませた正助は九時前に家を出た。潤滑油を差した自転車はスムーズに走り出し、空気が程よく補充されたタイヤは二日前に通った道をあの日よりも軽妙に進んだ。八月上旬にしては涼しい風が吹いており、その爽やかな追い風は彼の新たな門出を後押ししているようであった。
いくつもの小さな坂を上がって屋敷までの一本道に辿り着いた正助は、目の前に建つ邸宅に対して一瞬間前とは全く違った印象を抱いていた。あれほど不気味に思っていた露崎麗美の別荘を、今では故郷の小国を思い憂う姫が幽閉されている尖塔のように思っていた。彼はそんな屋敷前に辿り着くと、以前来た時同様、門柱の傍に自転車を停めると、スマートフォンを取り出して家政婦の畠山に電話を掛けた。
数回のコールで電話に出た畠山は、数回正助とやり取りをした後に玄関から出て来た。焦りのない鷹揚な足取りで鉄柵門に近付くと、慣れた手つきで錠を解き、門の片方を押し開けた。その生じた隙間から敷地内へ入ろうとすると、畠山がそっと右手を前に出して正助を制した。
「ここで待っていてください。今、
先ほどまで目の前にあったはずの右手は既に腰の背部に回されており、畠山は両手を後手に組んだまま屋敷へ戻って行った。
門柱に身体を預けること数分。ドアが閉まる音と微かに聞こえる小声が正助を微睡みから醒ました。何をすることなく右手に握っていたスマートフォンをズボンのポケットにしまうと、彼女を、愁子を迎えるために鉄柵門の前に立った。すると格子の向こう側には麦わら帽子を被り、真っ白いワンピースに木漏れ日の影を点々と宿した貴女が立っていた。その優美で神秘な立ち姿を見ていると、今まで囚われていたのは自分の方であって、彼女こそがこの鉄格子の冷たさや確立した悪習から自分を解放してくれる天女のように思えてきた。
「お待たせいたしました」
彼女は鉄格子を隔てた先でそう言うと、麦わら帽子がズレないように軽い会釈をして、真っすぐに歩き出して鉄格子をすり抜けて来た。それを見ていた正助は、やはり彼女は幽霊なのかもしれない。と思ったが、冷静に見てみると大したことはない。彼女が通るよりも先に畠山が鉄柵門を押し開いており、彼女はその大きく開いた門をゆるりと抜けて来たに過ぎなかった。
「あら、あなたは。以前どこかで……」
「ゴホンッ。さて、今日はどこに行けば良いですか?」
そう言って愁子の言葉を遮った正助は、畠山の方を見た。すると老婆は、これを。と言って、正助にメモ用紙を手渡した。そこには人参やらジャガイモやら豚肉やら、食材の名が箇条書きされていた。
「商店街で買ってきてください。お店の名前も書いてありますので、今日はご一緒に夕飯を食べましょう」
その言葉と共に正助と愁子に微笑を添えると、畠山は手に持っている日傘を正助に手渡した。
「日差しが強くなってきたら、これを使ってください」
「分かりました」
目的と厚意を受け取った正助は愁子に一瞥を投げた。彼女は物珍しそうに辺りを見回しており、先ほど正助が無理矢理口止めしたのは全く気にしていない様子であった。そんな些細な事柄よりも、今自分の目の前に広がっている未知の風景に心を奪われているようで、こちらで行われていた会話も耳に入っていないようであった。
「お嬢様、支度が整いましたので、こちらの方から離れないようにしてくださいましね」
「え、あ、はい。分かりました」
「えっと、それじゃあ。参りましょう、か」
「フフッ、私には気兼ねせず、普段通りで大丈夫ですよ」
ようやく目が合った彼女は、パールのように白く張りのある頬に笑窪を見せながらそう言った。そのあまりの眩さに正助が数回瞬きをしていると、彼女はすっと彼の横に着き、正助の左手を取った。
「行きましょう」
早くここから飛び出したいと思う大きな少女は正助の手をしっかりと握り、行く先定まらぬ足取りで歩き出した。
「気を付けていってらっしゃいまし」
フラフラと坂道を下って行く二人の背中に独り言ちると、畠山は一礼してから屋敷へと戻って行った。
丘を半分ほど下って住宅街が見え始めたころ、愁子は突然立ち止まった。それにつられて正助も足を止めると、少しの間彼女の様子を伺った。どうやら家屋の多さに驚いているようであった。それに加えて木々や草花が全く茂っていないという点も彼女を仰天させるに易かった。
「これは……?」
「えー、住宅地。かな」
「あの家にも、あの家にも、人がいるのですか?」
「もちろん。それぞれの家にそれぞれの家族が住んでるよ」
「家族……」
人と人との関係を示す中で、最も親しい意味を持つ家族。彼女はその言葉すら知らなかった。母親は露崎麗美で間違いないはずなのにもかかわらず、彼女は家族という言葉を知らないのだろうか。
「母親と父親、それに、娘と息子とか。聞いたこと無い?」
「あります。でも、うーん、意味はよく分かりません」
これ以上は神域に達してしまうのではないかと思った正助は、愁子の白く細い汚れの知らない腕をそっと握ると、数歩前に進んで振り返った。
「今日は自由なんだからさ、もっと近くで見てみよう」
「はい。そうします」
空いている右手で麦わら帽子を押さえながら、彼女は笑ってそう答えた。この美しい笑みが街に広がってしまうのは、一種の神罰のようにも思われた。それは全てを許し、認め、そして殺すのであった。この笑顔の前ではどれほど小さな罪も忽ち膨大し、人心を蝕み、懺悔したくなるだろう。きっとこの純粋の前に跪かぬ者はいないのだと彼は思いこんだ。
丘を下り切ると住宅街が二人を迎えた。目の前に伸びる直線は大通りに繋がっており、その間にはいくつもの十字路が存在している。脇道からは時折子どもが飛び出してきて、無邪気な姿を二人に見せた。ボールを持っていたり、携帯ゲーム機を持っていたり、流行の玩具をもっていたり。それらを持って集合場所目指して駆けて行く少年らの小さな背中を見送りながら正助はふと考える。その手に持っている物が罪の原石であり、戦いの種子であることなど彼らは知らないのだろうと。今ここにいる彼女に触れてさえいれば、彼らは永遠の寵愛と庇護を得られていたというのに。しかしこうも思う。罪というものは本来善であり、その善義こそがいつしか罪に変化していくのではないだろうかと。つまり路地を駆ける少年たちの心には善しか宿っておらず、今彼女に触れたとてこの美しさの価値は分からず、神秘的な力は発動しないという事である。罪の重み、暗さ、苦しさ、辛さに心を黒い炎で燃やされている人にだけ、彼女は聖水を降り注いでくれるのかもしれないと。
気付けば二人は住宅街を抜けようとしていた。日差しは徐々に気温を高め、正助の頬にも、愁子の頬にも汗を光らせた。それが頬を伝う一条の涙に見えた正助は慌てて日傘を広げ、彼女の頭上にかざした。
「ありがとうございます。ですが、そこまで気にしなくて大丈夫ですよ。この日光ですら、汗ですら、私には初めてなのですから」
誰もが厭うこの暑さに頓着するどころか、彼女は全ての悪を、闇を、黒を、その笑みで浄化し、漂泊してしまうように思われた。全ての事物に対して明朗であるその姿は、傘も帽子も、服ですらも、必要ないようであった。正助は自分が傘を差していることを恥じ、直ぐに畳んだ。そして彼女の半歩後ろに着き、商店街までの道のりを指示した。
車通りは少なかった。何故なら学生の観点から言えば休みなのだが、世間的には全くの平日だからである。正助はそんな些事をふと思い出し、すぐに忘れた。道路の向こう側に商店街が見えて来た。
横断歩道を渡って商店街のアーチ前に到着した。愁子は横断歩道にも、信号にも興味津々であったが、道路のど真ん中で立ち止まる訳にはいかなかったので、商店街の前まで来て、そこでようやく今までに見た様々な物を見回した。正助はその間にポケットからメモを取り出し、買う材料を確認し直した。
「……綺麗な方ね」
「えぇ、あんなに綺麗な人、この近所にいたかしら」
視線を落としていた正助の耳に女性の声が届いた。慌てる様子は微塵も見せず、しかし迅速に顔を上げた。商店街のアーチをくぐる二人の主婦が見えた。恐らくあの二人が愁子を見て思わず声を漏らしたのだろうと正助は思った。するとその直後、主婦の片割れがチラリとこちらを振り返った。主婦は罪をひた隠す罪人のように、背中を少し丸めて愁子のことを数秒見つめた。そして愁子が動き出したタイミングで、自分は何も見ていなかった雰囲気を出しながら前に向き直った。やはり愁子には何らかの力がある。人間の本心に触れる力と言おうか、正しくは言い表せないが、美しさや白さ、純粋さや無知は弱さへと直結するはずであるにもかかわらず、彼女はその弱さを以て我々の醜さを浮き彫りにする力を持っているのだと正助は確信した。
考え込んでいる正助を横目に、愁子は独りアーチをくぐって商店街に入っていた。一本道を行き来する人々、左右にずらりと並ぶ様々な店、飛び交う掛け声。森閑とした丘上の一軒家に住んでいる彼女からしてみれば、これほどまでに雑然とした場所は初めてで、見えるもの、聞こえるもの全てが彼女に世界の新しい音を、色を示していた。四方八方から伝わって来る情報の数々に彼女は踊らされた。文字通り、アーチを少し過ぎたところで彼女はクルクルと独りで回っていたのであった。正助がそれに気付いたのは、彼女が目を回し始めた頃合いであった。
「ごめん。よそ見してた」
ズボンの左ポケットにメモをねじ込むと、愁子に駆け寄りながら声をかけた。その声に振り向いた彼女は、遊園地で迷子になった子どもが親を見つけ出したような反応を見せ、眉をハの字に下げて少々俯いた。
「ごめんなさい。勝手に行動してしまって」
淑やかに、そして誠実に、涼風が心地よく首元を抜けるような柔らかい口調でそう言うと、愁子は麦わら帽子を取って頭を下げた。
「いや、気にしなくて良いよ。よそ見してた俺も悪かったし」
謝っている彼女の姿を見ていると、自分の方が何か重大なミスを犯してしまったような気がして来て、正助は自分の方が気後れしてしまった。しかしそれを表情や所作に露呈するわけにはいかなかったので、至って平常を装い、彼は彼女を赦した。
「それじゃあ、改めて行こうか」
そう言って歩き出したその時、ズボンの右ポケットに入れているスマートフォンがバイブレーションし、着信音が鳴った。確認しないわけにもいかないので、正助はスマートフォンを取り出して画面を見た。するとそこにはつい先ほど登録したばかりの畠山という文字が映っていた。何か追加で連絡があるのかもしれない。そう考えた正助は電話に出た。
「はい?」
「た、大変です! これから急遽麗美様が屋敷に来ると、今しがた電話がありまして……!」
「えっと、戻った方が良いってことですよね?」
「はい、今すぐに。お嬢様が外に出ていることがバレたら、折角緩くなり始めていた監視が更に厳しくなってしまいます……」
監視が厳しくなる。正助はその言葉がやけに引っ掛かったのだが、もう彼女と会えなくなり、彼女の自由も剝奪されてしまう。それが全て自分のせいで。という悪い考えが頭に満ちて来たので、彼は挑戦ではなく、保守を選んだ。商店街の奥へ進もうとする愁子のことを呼び止め、正助は包み隠さず事情を説明した。すると彼女は今までに見せていた神仏のような笑みではなく、人工的な影のある笑みを正助に向け、小さく頷いた。
その後二人は会話という会話を交わすことなく、足早に屋敷へと戻った。本来ならば食材の入った袋をぶら下げているはずの正助の両手には、無力感と寂寞感が嚢腫のようにぶら下がっていた。
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