二章

 あの丘の上に建っている屋敷に俺は行くんだ。バスに揺られている正助は、窓の向こう側に見えるミニチュアのような豪邸を見つめてそう考えた。彼がこうして登校時に窓の外の景色を見て、そこから何かを考えるというのは初めてのことであった。いつもは倦怠感ばかりが彼の全身を支配しており、その中で僅かに共存を許されている習慣が彼を高校の前で下ろしていたのであった。しかし今日という日は違った。今回は確かに、俺はここで降りるんだ。という自意識を持って降車ボタンを押していた。そして自分が通っている高校があるという確実を胸中に抱いてバスを降りていた。そんな自意識や確実を身に宿したのも初めてのことであり、彼は少しだけ戸惑った。何故なら今までは、習慣というベルトコンベアが全自動で正助を学校まで運び、数時間に及ぶ授業の後、何事も無かったかのように彼を自宅へと送り返していたので、彼は習慣に対して思考を深めたり、疑ったりなどしたことが無かったのである。それが全てで、それに従っていれば良いと思っていたのである。何をするにも習慣こそが事物のタクトを握っており、右と言えば右へ行き、左と言えば左へ行くものだと信じて生きて来た一種の真理が、一学期の終業式であるこの日に崩れたのであった。そしてそれと同時に正助は考えた。むしろ習慣こそが人心を堕落させ、腐敗させているではないかと。

 ただ長いだけの終業式が終わると、あとは形式的な夏季休暇での過ごし方講座と、欲しくもない通信簿を貰い受けてその日は一斉下校となった。明日から学校に来なくても良いという確約された現実は若者たちの心を陽気にさせ、校内のあらゆる場所に喧騒を生んだ。それは誰にも絡まれたくないと思っていた正助にとって最良の隠れ蓑となり、彼は音と音の隙間を縫うようにして学校を抜け出し、下りのバスに乗った。そして再び車窓から屋敷を眺めた。登校時にはガラスケースに飾られた精巧な作品としか映らなかったそれは、この数時間で突然現実味を帯びて同じ場所に建っていた。習慣という毒が抜けて物の見方が変わったせいなのか、それとも単純に、夏季休暇に入ったことであの屋敷に行く日が近づいているせいなのか。正助は二つの可能性を携えたまま、バスの降車ボタンを押した。


 夏季休暇が始まって数日。夏の太陽は自分の出番を心得ているようで、台本通り、真っ赤に染まった顔を毎日覗かせた。この日差しを心の底から求めている人間などいるのだろうか。なんていう愚問が脳内に浮かぶが、それは暑さの為にすぐ浄化されてしまう。

 宿題でもするか。少し出掛けてみるか。いや、面倒だから寝るか。いろいろな案が脳を過るが、結局はクーラーが効いているリビングでダラダラと一日を無駄にしてしまう。こうやって悪習慣というものは根付いていくのかもしれない。と思いつつも、正助はソファから立ち上がることが出来ない。するとそんな折、ローテーブルに置いていたスマートフォンが点灯した。丁度視界に入ったから見るか。そう思った正助は気だるい身体を無理矢理背もたれから引き剝がし、スマートフォンの画面を見た。通知を見た限り、いつも絡んでいる仲間たちのグループメッセージに動きがあったようだ。屋敷のことかもしれない。そう直感した正助はすぐにメッセージを開いた。


『ここんとこあちーけど、お前ら元気してるか?』


 急いた気持ちでメッセージを開いた自分が馬鹿らしく思えた。しかしその反面、自分はあの屋敷に行きたいと思っているのだという事実が明瞭な形となって正助の頭の中に現れた。


『マジであちーよな。毎日リビングで漫画生活だよ』

『俺もそんなところかな。ま、夏休みは始まったばっかだから』


 その後もメッセージは軽快に流れて行く。会話に入る隙は何度かあった。しかし正助がその会話に交じることは無い。何故なら入る必要性が見当たらなかったからである。だがそれで良いのだろうか。必要とは受動でいる人間の為にある言葉で、行動を起こすことに必要性を求めているような人間はいつまでも操り人形のままではないだろうか。必要など無くとも動き出せる人物、それこそが習慣そのものになれるのではないだろうか。


『そう言えば、アレ。どうする?』


 そのメッセージを見た正助は、考える間もなくアレの答えが分かった。そして静かに右手の親指を画面上に滑らせ、メッセージを打ち込む。


『確か、どこかに行くって話だったかな?』


 直接的に言うとまるで自分が張り切っているように思われてしまうと考えた正助は、大分濁したメッセージを送信した。


『そうだよ。丘の上にある別荘! 俺はしっかり覚えてたからな!』

『何言ってんだよ。みんな覚えてたに決まってるだろ』


 難無く答えにたどり着いてくれた彼らのやり取りを見て、正助は初めて仲間たちに好印象を抱いた。


『じゃあさ、早めに予定立てとこうぜ』

『なんなら明日とかどうよ?』


 その唐突で軽率な発言は正助の鼓動を早めた。俺は行ける。すぐにでもそう返信をしたかったが、受動から抜け出せない彼は他の仲間の動きを待った。


『俺は行ける』


 一人のそのメッセージを皮切りに了承の雪崩が起きた。正助もそれに乗じ、行ける。とだけ返信すると、あとは彼を度外視に話が進んで行き、数分後には時間も場所も確定した。夕飯後、夜の九時半に現地集合。誰が送ったかも思い出せないが、とにかくこれで屋敷に行くことが出来ると思うと、自然と身体が背もたれに向かって倒れ、力が抜けた右手からはスマートフォンが零れ落ちた。少しホッとしたような。でもどこか自分の行動に納得いかないような。そんな複雑な気持ちはその日の晩まで続いた。

 ベッドに入ると雑駁とした心情は一層増した。それは恐らくこの密室で刻まれる秒針や、自らの胸中で定期的に脈動する心臓のせいであるように思われる。それらの音は彼の気持ちを扇動し、彼を眠りから遠ざけようとする。だからと言ってそれに抗おうとすると、更に眠りから遠ざかるというのは全くもって皮肉なものであった。このままでは眠れないと直感した正助は感情を飲み込むことにした。敢えて抗わない、思考しない道を選んだ。すると先ほどまで外的要因だと思っていた秒針や心臓の脈動は次第に重なっていき、最終的にはこの部屋全てが自分の一部のように思われてきた。そのタイミングで瞼を閉じると、そのまま糸で縫われてしまったかのように彼の瞳は固く閉ざされた。

 瞼を透かす光に目を開けると、そこには朝が待っていた。額にはじんわりと汗をかいている。朝にしてはどうにも暑すぎると感じた正助が時計に目をやると、時刻は既に正午を回っていた。珍しくこんな時間まで寝てしまった。そうは思いながらも、身体はベッドに横たわったまま、視線は時計に釘付けとなっている。出掛けるにはまだ早すぎる。かと言ってまた眠るほど疲れていないし、そもそもこの暑さでは眠る気も起きない。それならばひとまずこの汗を拭き、水分を摂ろうと思った正助はするりとベッドを出てリビングへ向かった。

 気持ちの整理をつけている間に日は暮れた。勉強机に広がっている数学のテキストの上には大して使っていない消しゴムとシャープペンが転がっている。氏名だけは立派に書かれていて、中身は何も書かれていない。それを見た正助は形だけ一丁前な自分に腹が立ち、これならば何も出ていない方が潔いと思って転がっている文具をスカスカの筆箱に押し込み、テキストも裏返しにして部屋を出た。

 リビングに入ると仕事から帰って来た母が冷蔵庫から野菜を取り出していた。正助が声を掛けようと数歩進むと、それに気付いた母が彼の方を見て、夕飯は八時ごろになっちゃうかも。と言った。大丈夫、そんなに腹減って無いから。彼はそう返してソファに腰かけると、テレビの電源を入れた。すると天気予報が放映されていた。まだしばらく暑い日が続くのか。正助はそう思うと同時に、今晩出掛けることを伝えていなかったことを思い出したが、もう高校生にもなったわけで、親が気にすることでも無いかと思い、彼は黙ってテレビを見続けた。

 予定より早めに出来上がった夕飯を食べ終えると、正助は何気ない素振りで壁掛け時計を見た。しかしそれと言うのは正助の主観であり、今の行動を少しでも客観視してみると、食事中に何度も時計を一瞥する姿にはあきらかに含蓄があった。


「ごちそうさま」


 もう少しで九時か。いつでも出られるように準備を済ませておこう。そんなことを考えながら食器を一纏めにすると、まだ食事中の母に挨拶をして立ち上がった。そして纏めた食器をシンクに置くと、黙って自室に戻った。

 部屋に戻ったは良いが、屋敷へ行くにあたって必要な物はスマートフォンと財布、それに自宅の鍵くらいだという事に気付き、一分も経たずして彼はベッドに腰を下ろした。だがどうにも座っているだけというこの状況に馴染めず、正助は早々に立ち上がり、リビングへと向かった。


「母さん」


 キッチンで食器を洗っていた母はお湯を止めて正助の方を見た。


「ちょっと出かけて来る。鍵は持ってるから、チェーンだけしないでおいて」


 母親に鍵を見せながらそう言うと、すぐにポケットに鍵をしまってリビングを出て行った。その時薄っすらと母の声が聞こえた。「気を付けてね。行ってらっしゃい」確かにそう聞こえた。毎朝習慣のように聞き流していた母の掛け声であったが、マインドに少しの変化があったお陰でようやくその一言に込められている母親の想いを汲み取ることが出来たような気がして、正助は数年ぶりに行ってきます。と言い残した。

 学校の前に着いたのは九時二十分ごろであった。当然誰も来ていない。侘しく正門の前に立っていると、もしかしたらこのまま誰も来ないかもしれないという不安が膨らんでいく。しかしそれよりも早く、今晩彼らがここへ来ないとしたら、はたして俺は一人で屋敷に行くのだろうか。という懸念の方が先に彼の心中で破裂した。


「おっ、もう誰か来てるじゃんか」


 バス通りの方から声がした。それで我に返った正助が頭を上げると、そこには言い出しっぺの男と、その他にもう一人が立っていた。


「珍しいな、カバが一番なんて」

「さっさと済ませて帰りたいから」


 一番最初に来たのはマズかったか。咄嗟にそう思った正助は出来るだけゆっくりとした口調でそう言った。


「あっそう。いつも通りサッパリしてんな」


 そう言いながら笑みを浮かべている二人を見て、なんとか誤魔化せたと思う正助だが、そもそも何を誤魔化しているのだろうかという至極単純な疑問が浮かんだところで残りの三人が自転車に乗って颯爽と正門前に現れた。


「よし、チャリ部隊も来たし、こっからは二人乗りで行くぞ」


 計画者である男がそう言うので、他の五人はそれに従って各々自転車に跨り、三組の自転車は薄暗い裏道を走り出す。荷台に乗っている正助がふと視線を上げると、そこには月明りを湛えた屋敷が妖しく佇んでいた。

 一度走り出した自転車は止まることなく、学校から凡そ三十分ほどで屋敷前にたどり着いた。噂の屋敷を目の前にすると、一行は言い知れぬ不気味さをそこから感じ取った。


「やっぱり夜に来ると雰囲気あるな……」

「だな。で、誰が行く?」


 その問いに答える者はいない。皆が皆、口を閉ざしてそれぞれの出方を伺った。空気は重苦しくなる一方で、このままでは全員が肺を圧し潰されてしまいそうな予感さえ漂い始めていた。


「そうだ。荷台に乗ってた三人が行くのはどうだ? 帰りも俺らが漕ぐからさ。なんて、な。ははは……」


 自転車をここまで漕いできた一人がおずおずと言った。誤魔化しの笑いは乾いていて、夜にもかかわらず鳴き続けている蝉の声にかき消された。


「決まりそうも無いし、そうするか」


 少しの沈黙の後、この肝試しを提案して色々とセッティングまで行って来た男がそう切り返した。正直一人で行くのは嫌だったが、三人で行くなら良いか。そう思った正助は、いいよ。とだけ言った。


「よ、よし。じゃあそう言うことで、良いんだな?」

「え、あぁ。当たり前だよ。サクッと見て来てやるよ!」


 互いに退くに退けない状況になってしまったため、男子高生たちは早速決められた作戦行動に移った。


「はぁ、まさかお前が、いいよ。なんて言うと思ってなかったよ」


 鉄柵門を越えて数秒後、提案者の男がわざとらしくため息をつきながらそう言った。


「あ、そうだったんだ」


 自分が謝るというのも少し違う気がしてしまい、正助は曖昧な返事をした。


「まぁまぁ。ここまで来ちまったんだから、楽しもうぜ」


 二人の判断で付いて行くことになってしまった男は顔を引きつらせながらそう言った。


「ま、それもそうだな」


 何とか仲違いせずに済んだ三人は、ひとまず屋敷の正面玄関に向かった。しかし当然玄関ドアに鍵がかかっていない訳も無く、三人は立ち往生した。


「もう少し粘る?」

「流石にまだ戻れねーだろ。裏口でも見に行ってみるか」


 このタイミングで戻るとビビっていると思われかねない。小異はあれども三人が同じようなことを考えており、反論が出る間もなく三人は屋敷の裏へと回った。


「なんだ、裏口ねーじゃんか」

「流石にこれは帰るしかねーか」


 ぶつぶつ意見を交わし合っている二人から離れ、正助は何気なく窓に触れた。すると窓は僅かな音を立てながらレール上を滑り、数センチの隙間が生じた。その音は同行している二人にも聞こえており、三人は顔を見合わせてしばし黙り込んだ。


「……行くのか?」


 どちらが言ったか分からないが、恐らくこの場にいる全員がそう思っていることに違いはない。そして誰もが行きたくないと思っていることも然り。しかしそんな気持ちとは反し、正助はゆっくりと大きく頷いていた。


「わ、分かった。行こう」


 二人の強張っている表情を視界に捉えながら、正助は静かに窓をスライドさせて人が通れるように窓を全開にした。付いて来てくれるだけ良しとしよう。腹を括った正助は、二人に自分の意志を示すことも兼ねて自らが先に屋敷へ忍び込んだ。その意思を最低限汲み取った二人も正助の後に続いてそっと屋敷の中に入って行った。


「中はもっと不気味だな……」

「一階をちらっと見て帰ればいいよな。な?」


 常ならば我が道に無理矢理引き込もうとする連中が自分に同意を求めている。この状況の方が正助には不気味に思えた。しかしこれは良い時分、ここで自分の器量を示せば金輪際弄られることは無くなるかもしれない。そう考えた正助は何も答えずに廊下へ出た。


「お、おい。どこ行くんだよ」

「俺は三階に行く。お前たちみたいにビビッてないことを証明してやる」


 はっきりと、聞き取りやすい速度でそう言うと、正助は振り返らずに廊下を行き、軋む階段を上がっていった。残された二人は軋みを上げる屋敷に一層の不気味さを覚えて部屋に引きこもった。前にも進めず、後にも退けず、彼らはただ、窓が開け放たれている小部屋で正助の帰りを待った。

 単独行動に移った正助は三階へと向かう階段の途中で足を止めた。今更恐怖心が湧き上がって来たのだろうかと考えたが、こんなことを考える余裕があるという事は、これはきっと恐怖ではなく、興味ではないだろうか。正助はやけに落ち着いた気持ちでそう考え至ると、再び歩を進めた。

 三階に到達した正助は何かに手繰り寄せられているかのように左の道へ吸い寄せられた。真っすぐに、奥へ奥へと足が進んで行く。そしてついに薄い月明りが斜に射し込んでいるドアの前へとたどり着いた。正助は右手でドアノブを握った。微塵も震えていない手はおおよそ自分のものとは思えなかった。そう感じていようとも脳がドアを開けろという指令を送ると、右手は従順にドアを押し開けた。

 ――ドアがゆっくりと開くにつれ、薄気味悪い軋みが音を増して行く。半分だけ開いたドアから顔を覗かせると、そこには真っ白いローブを来た何者かが座っていた。その正面には鏡台があり、そこには半開きのドアからこちらを見ている自分が映っていた。


「婆や、私はもう眠ると言ったでしょう。それに、ノックもせずに入って来るなんて失礼よ」


 シルクのローブに包まれた彼女は鈴のような声で正助に語り掛けた。そして両手を首元に滑り込ませると、両手の甲に乗せて艶やかな黒い長髪をローブから引っ張り出した。

 薄く射し込む月光は二人の姿を模糊とした。互いに互いの顔が鮮明に映らない二人は、しばし鏡の中で見つめ合い、沈黙の数秒が過ぎた後に女が振り返った。


「あら、あなたは……」


 誰か呼ばれる。危険を感じてその場から逃げ出そうとしたその時、月が俄かに彼女の顔を照らし出した。白く透き通った肌、パッチリと開かれた純な眼、軸のある鼻梁、潤いに満ちた小ぶりな口。それら全てが真っすぐに正助を捉え、彼から思考を奪った。


「ごめんなさい。今日はもう休みますので、挨拶はまた明日でもよろしいかしら?」


 一瞬何が起こっているのか理解できなかった正助だが、彼女が言葉を発してくれたことで何とか我に返り、彼女が何か勘違いしていることに気付いた。これを利用して逃げよう。そう思いついた正助は半歩部屋の中に歩み入り、恭しく一礼した。


「大変失礼致しました」


 変な詮索を避けるために短い言葉を選んでそう言うと、静かにドアを閉めて立ち去った。

 ……その後正助は何事も無かった様子で友人たちと合流して屋敷を去った。再三屋敷内で何かあったか問われたが、正助がそれに答えることは無かった。何故なら彼自身、屋敷での出来事が現実のものだと理解できず、整理がついていなかったからである。どれだけ質問を投げかけようとも、少しも答える気配を見せない正助に呆れ、いつしか友人たちの話題はすり替わっていた。そんな中で一人、正助だけは月を見上げ、そこに彼女の顔を思い浮かべていた。

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