美醜

玉樹詩之

 一章

 樺島正助かばしましょうすけが住む町にはちょっとした都市伝説がある。それは町の外れの小高い丘に建つ豪邸に関する話で、その家には超有名女優、露崎麗美つゆさきれいみが住んでいるのではないか。というものであった。しかしこれだけでは噂話程度のパンチ力しかなく、都市伝説とまではいかない。それになにより、彼女自身が「ただの別邸よ」と公言してしまったことが後押しとなり、噂話は一年も経たずして忘れ去られた。それからというもの、小高い丘に立つ豪邸は「露崎麗美の別荘」として認知されていった。しかしその数年後、噂として締め括られたはずの事件簿が都市伝説として再び開かれることになる。


 それは今からおおよそ五年前。その当時、露崎麗美がまた別荘を建てたのではないかという噂が全国に広まった。始めは小規模なネットニュースだったのだが、人間が持つ羨望や嫉妬といった感情は恐ろしいもので、一カ月もすれば噂は全国規模になっていた。そんな拡散力のあるニュースが町人の耳に届かないはずも無く、一、二週間で町人のほとんどがその噂を耳にした。


「いやぁね、お金があるからってどんどん別荘を建てるなんて」

「本当ですね。折角この町にも名所が出来たと思っていたのに」

「最初は私もそう思ったけど、よくよく考えたら、一世風靡した女優の別荘なんて名所になりゃしないよ」


 ゴミ捨て場の近くで立ち話をしている三人の主婦は、言いたいだけ物を言うと大声で笑い飛ばした。こんな風に噂を笑い話程度にしか捉えていない人ばかりで溢れていれば世界は平和そのものなのだが、噂を利用して稼ごうとする悪漢もいるのだから、人間とは業深い生き物である。

 噂が広まり切ったとある深夜。小高い丘の前には数人の男が立っていた。全員が暗色のマスクで鼻と口を覆い、フードが付いているパーカーを身に纏っていた。そんな三人が見上げる先には、露崎麗美の別荘が寂然と建っていた。


「本当に誰も居ないんだな?」

「あぁ、ここ数日見張っていたが、誰の出入りも無ければ、明かりが点いた試しも無い」

「よし、なら夜が明ける前に済ませるぞ。作戦通り、お前は一階、お前は二階、俺は三階だ」

「オーケー」

「任せておけ」


 三人は顔を合わせて頷くと、早足で別荘前の鉄柵に近付き、協力してそれを乗り越え、瞬く間に敷地内へ侵入した。そして玄関までの一本道を虫のように静かに素早く走り抜けると、そこから外壁沿いに進んで行き、別荘の裏手に回り込んだ。そこには数個窓が備わっており、その内の一番大きくて低い場所にある窓に狙いを定めると、こじ破りの上手い男がマイナスドライバーを用いて音も無くガラスを割り、三人はあっという間に別荘へ忍び込んだ。


「各自、金目の物を集めたら出ていけ、いつもの場所で集合だ」


 侵入前から指揮を執っている男がそう言うと、二人の男は頷いて持ち場に向かった。その姿を見送るや否や、指示を出した張本人も階段に足をかけて一段ずつ上り始める。

 大きな音を立てないよう、男は慎重かつ迅速に階段を上がっていく。深夜特有の静けさと暗さ。空き家特有の臭いと汚れなど、普通は気が滅入るであろうそれらが彼の荒んだ心を快活にする。いや、正確には、それら暗澹たる諸要素の中で呼吸をして、行動をするスリル。真っ黒い海原に揉まれる中、時折空気が肺を満たすような心地よさ。それが彼を幸せにしていた。

 そんな幸福を胸に抱きながら、二階から三階へと続く階段をおおよそ半分ほど上った時、男は亡霊の呻き声のようなものを耳にした。誰かいる。咄嗟にそう判断した男は足を止めて耳を澄ます。……声は無い。勘違いか。そう思いながら右足を次の段に乗せると、弱々しい呻きが階下へと抜けて行った。正体は階段の軋みであった。


「けっ、ふざけやがって。まぁ、こういう刺激は好きだがな」


 片頬を緩ませながらそう言うと、男は呻き声と共に三階へたどり着いた。廊下は左右へと分かれており、一番探索に時間がかかる形をしていた。こういう場合は二者択一だ。つまるところ、運試し。そう考えた男は左右の道を交互に見た。すると左の廊下突き当りにほんのりと明るんでいる扉を見つけた。どうやら窓から月光が射し込んでいるようだ。それを見た男は光に誘われる虫さながら、無意識に足が動き出していた。

 今となっては木造の軋みなど耳に入って来ない。彼は神秘的な何かに手繰り寄せられている操り人形の如く、月明り射す扉の前に立ち、予感を授かる。この先に宝がある。それは全人類が認めた確信のようでありながら、全人類が見たことの無い夢幻でもあった。人類が目標としながら、しかし人類が到達することはない絶対的な存在がそこにある。盗むためなのか、それとも第一発見者となるためなのか。何も分からず男は扉を押し開けた。

 ――始めは微弱に呻いていた木の声が次第に大きくなっていく。そして扉が半分開かれようとしたその時、鼓膜をつんざくけたたましい高音が男を後退させ、正気に戻した。コップから溢れ出たスリルは男の鼓動を早めた。マズい。捕まる危険。襲われる危険。そして何より、禁忌に触れたかもしれないという危惧。その思いが彼を屋敷の外まで運んだ。


「はぁはぁ、何が起きたんだ……」


 正門の鉄柵を乗り越えると、そこには既に仲間が待っていた。


「だ、大丈夫か?」

「珍しく仕事が遅かったな」

「あぁ、ちょっとな。それより、お前らもあの音を聞いて出て来たのか?」

「いや、何も無かったから退散したんだ」

「俺も」

「音は? 聞こえなかったか?」

「いや、何も……」


 片方の男がそう答えると、二人は顔を見合わせて何も見ていない意を示すように小刻みに頷いた。


「そ、そうか……」


 脂汗を額に滲ませながらリーダーである男はそう呟いた。そんな彼を見て呆れた素振りを見せた二人がそのまま踵を返してこの場を去ろうとしたその時。


「待て、帰る前にあの部屋を見て欲しい」


 男はそう言いながら頭の中にある屋敷の見取り図を広げ、月明りが射していた部屋を指し示した。それがあまりにも必死だったので、二人は言われるがまま、その指先にある窓を眺めた。するとそのタイミングを待っていたかのように、フッと人影が過った。


「い、今の……」

「あ、あぁ。いた。よな……」


 部下の二人が振り返ると、リーダーである男は既に走り出していた。その憐れな背中を目にした二人がその場にコンマ一秒でも居座れるはずもなく、三人は真の恐怖に声を奪われ、ただ逃げるためだけに激しく呼吸をした。

 その数日後、彼らは自首をした。その時の彼らの顔と言ったら、既に反省を終えて。いや、更生までも果たしているのではないかという面持ちであったという。そしてそれから数日後、彼らが空き巣に入ったという家宅へ警察が出入りを始める。それはもちろん露崎麗美が所有する別荘も例外では無く、数回警察が訪れた。露崎麗美本人の意向で再三にわたる捜索はされなかったものの、警察が有名人の別荘に出入りしているという事実は小さな世界で生きる町人たちにとっては最高のスパイスであった。加えて露崎麗美の徹底した塩対応。これが事件の風味を更に濃くした。彼女はあの屋敷に何かを隠している。という誰が立てたかも知れない推測は、根も葉もない噂となって町中に満ち満ちていったのであった。


 ……月日はやがて全てを置き去りにしていく。しかし五年という絶妙な月日は何かを蘇生するには適した時宜であった。


「正助ー。そろそろ降りてきなさーい!」


 階下にいる母親の声はリビングのドアを抜け、廊下を抜け、階段を抜け、正助の部屋のドアをも抜けて濁りなく正助の意識を呼び覚ます。もう学校に行く時間か。母の呼び声は目覚まし時計やスマホのアラームよりも確実に彼を覚醒させた。

 ベッドから出た正助は真っすぐクローゼットへと向かい、ハンガーに掛かっているワイシャツと学ランを手に取った。それらを一度勉強机に放り投げると、再びクローゼットの方を向いて今度はズボンを引っ張り出す。そしてそれを右肩に乗せて寝間着のズボンを脱ぐと、中学生のころは薄っすらとも生えていなかった太腿の毛やすねの毛が種々様々な形状で姿を現した。それはまるで無数の虫が蠢いているようで、あまり良い気持ちはしなかった。しかしこれも慣れていないというだけのこと。慣れれば何とも思わなくなる。楽観的な彼はそれ以上追求するのを止めた。それに、正助は虫が嫌いでも苦手でも無かった。

 朝食を済ませた正助は学校鞄を片手に家を出た。閉まりゆく玄関ドアの隙間からは母の声が風に乗って聞こえたような気がしたが、恐らく「いってらっしゃい」の一言だろうと思い、正助は一人通学路を歩き出した。

 まずは最寄りのバス停を目指す。いつも到着時刻ギリギリを狙って家を出ているので、彼がバス停に着くころには既にバスが視界の端に入っていることが多かった。それは今日とて例外では無く、彼は歩く足を止めることなく、そのままバスに乗車した。そしていつも通り電子マネーをカードリーダーにかざし、運転手から二個後ろにある一人用の座席に腰を下ろす。

 バスに揺られること十五分。終着点よりも三個前にあるバス停で降りると、あとは小道に入って五分ほど歩けば正助の通っている高校にたどり着く。しかしその五分の小道こそが、闊達であるはずの彼の心を蝕む唯一の汚点であった。


「よぉー、カバ!」

「今日も縮こまってるな! いや、元々小さいのか!」


 馴れ馴れしく腕を肩に乗せてきた粗暴な男たちは、正助のことをからかい、そしてけたたましい笑い声を上げた。その下品な行為は常に彼の頭上で行われる。彼の心がどれだけ寛大であろうとも、体躯はそれに応じて大きくなることは無かったのである。


「あぁ、おはよう。今日も元気だな」


 仲の良い友達だなどと思ったことは少しも無いが、学校という小世界で生きて行く生物の本能として彼はそのグループに属していた。今絡んできた二人の男子学生の他にも、あと三人仲間と呼ばれる人物がいた。確かに友達という言葉は似合わないかもしれないが、仲間という言葉は合っているかもしれない。という考えがふと浮かんだが、すぐにその考えを振り払って仲間の会話に戻った。


「昨日さ、面白い話を聞いたんだ」

「え、どんな話だよ?」

「まぁまぁ、そう焦るなって。放課後にカバの教室に集まろうぜ」

「ちぇ、気になるけど、まぁあいつらにも共有したいもんな」

「あぁ、だろ。お前もそう思うよな?」


 右側に立つ男子生徒はそう言うと、正助の肩をトンと叩きながらそう聞いた。こういういわゆる男子高生的なノリ。正助はこれが好きでは無かった。そしてこれと同様に、身体的特徴を弄ったり、名前から安直なあだ名をつける風潮もあまり好ましくはなかった。しかしそれもあと二年続くだけのこと。もう少し耐えれば卒業を迎えて彼らと会うことも無くなるだろう。そう思うことで彼は自らの心に渦巻く負の感情を統御し、あぁ、確かに。と返した。

 その日の放課後、半ば忘れかけていた約束は騒がしい五人組が教室に流れ込んできたことで思い出された。


「よっ、待ったか。カバ」


 最初に入って来た男がそう言うと、それに続いて男たちの気だるそうな挨拶がサブリミナルのように正助の脳内に流れ始めた。


「朝の話、覚えてるよな?」


 他の誰かの声で正助は我に返った。もちろん覚えてるよ。と答えようとしたのだが、そんな間もなく時間をだけ無駄に消費していく学生特有の与太話が始まってしまった。


「知ってるか。丘の上にある露崎麗美の別荘」

「え、あぁ。知ってるけど……」


 仲間内の一人が拍子抜けした調子でそう返しはしたものの、なんだ、そんなことかよ。と今すぐに誰かが言い出してもおかしくない白けた空気が満ちているのは確かであった。


「お、おいおい。流石にこれで終わりじゃないからな」


 言い出しっぺの男子生徒は焦った早口でそう言うと、仲間たちの顔色を一瞬だけ伺い、すぐに話を継いだ。


「で、その露崎麗美の別荘に、幽霊が出るって話があるんだよ」


 陳腐でありながら、しかしどこかに期待の怪奇を纏っているその単語は、男たちの視線を再び語り手に戻すには事足りた。


「それでさ、もうすぐ夏休みだろ?」


 皆の注意が自分にだけ集まっていることに嬉々としながら、話の提供者は提案者へと変わった。対して傍聴者であった正助を抜いた四人はその瞬間に共犯者へと名乗りを上げるのであった。


「よし、そうこなくちゃな! カバ、お前も来るよな?」


 提案者である男がそう言いながら正助の方を見ると、共犯者たちの無数の視線が、来て当たり前だと言わんばかりの無機質な圧力を以て正助の方へ向けられた。そうやって自然の流れで生じた不可思議な力を正助は信じていなかった。いや、本能的に忌避していたのかもしれなかった。しかしだからと言って彼がここで今まで積み上げて来た欺瞞を暴露するような危機回避能力の低さを露呈するはずも無く、彼は至っていつも通りの風を装い、行くよ。とだけ答えた。

 ……その日以後、然程興味の無い肝試しもどきの催しは、幾度となく正助の脳内から飛び立って行こうとした。しかしその度に過保護な親鳥が、というよりかは、親鳥に扮した飼育員がやって来て、夏休み、楽しみだな。という少年的な暗号を使い、彼の記憶の檻に少しずつ、そして確実に、露崎麗美の家に行くんだ。という意識を定住させていったのであった。

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