狸寝入りと狐の嫁入り
深雪 圭
狸寝入りと狐の嫁入り
この村には
彼女は障子窓を開けてから、
「だから、
その声音は、子どもをあやすように甘い。
穏やかな雰囲気を、彼女はいつも瞳や唇や指先に湛えているのだ。
午前の秋空から、燦々と陽射しが降り注いでいる。
それは六畳の座敷に射し込んで、畳を金色に燃やした。
「好い天気ですね。昨日の予報だと今日は雪だって言っていたのに」
「妖狐だなんて怖いね。それは何か悪さをするの?」
「私を嘘つきだと思う人に、言いたくありません」
そう言って、彼女は意地悪な微笑を浮かべる。
窓の向こうでは、晩秋の紅葉が音もなく舞っていた。
大半は地面を彩って、枝に残っているものは少ない。
いわく、紅葉が散るとすぐに霜が降りるらしい。
山の季節は気が早いのだと、マルちゃんは言っていた。
僕が徳島の寒村に滞在して、一日が経つ。
寂れた集落は排他的とよく言うけれど、この村もそうだ。
とはいえ素性の知れない男がフラリと訪れたのだから、警戒するのは当然だろう。
そんな中で、マルちゃんだけは暖かく歓迎してくれた。
こぼれるような白い肌と、幽かに揺れる艶やかな黒髪が目を引く娘である。
おぼこな雰囲気で、いかにも異性を知らない風に見える。
だから自分も、彼女を本名ではなく「マルちゃん」というあだ名で呼ぶ。
それは不思議と、舌触りのいい言葉だった。
そこで頭上から物音がした。
聞くところによると、天井裏には鼠がいるらしい。
寒さをしのぐため、家屋へ浸入するのが毎年の恒例だという。
マルちゃんは見上げた視線を僕に戻してから、
「私、鼠が好きなんです。ハムスターみたいで可愛いじゃないですか。捕まえようと思うんですけど、さすがに天井裏に行くのは躊躇するんです」
煎茶を啜りながら、
「暖を取るために入った家で追いかけ回されたら、相手もびっくりするだろうね」
それから「マルちゃんは鼠の天敵だ」と笑って付け足すと、彼女はわざとらしく頬を膨らませた。
「それよりも妖狐の話を聞かせてほしいな。そういう伝承が好きなんだ」
「さすが民俗学の専門家さんですね」
本心か皮肉か、やっぱりわからない。
彼女には、そういう掴みどころのない魅力があった。
人懐っこいくせに、こちらから歩み寄るとスルリと身をかわすのだ。
専門家ではないにせよ、大学で民俗学を専攻したと彼女には説明していた。
それが高じて、四季折々の風景を訪ねながら各地を旅していると。
「よく言われるように、狐は色々なものに化けて悪戯をするんです。何か悪いことが起きたり、嵐が来ると、妖狐が出たって噂になるんですよ。それに狸もそうです」
「狸?」
「はい。この地域では有名な話なんです。『傘差し狸』と言って、傘を持った人間に化けた狸が、雨に濡れている人を招き入れるんですよ」
「それから?」
「不思議な場所に連れていかれるっていう話です。まあ、どちらも冗談みたいなものです」
しかし、自分は冗談だとは思っていない。
彼女の瞳がそう言っていた。
「もし妖狐に会ったら、洋さんはどうしますか?」
そこで僕がコホンと咳こむと、
「ごめんなさい。お父さんが煙草を吸うから……」
この六畳の座敷は僕が下宿させてもらっている部屋だけれど、襖の隙間から紫煙が入ってくることがある。
今は不在だが、家にいる間はひっきりなしに吸うので煙が残っているのだろう。
なんにせよ、無償で宿と食事を提供してもらっている身だ。
文句を言うつもりはない。
心配そうな顔色を見せるマルちゃんに、
「気にしないでよ。昔から煙草は苦手なんだ」
その時、外で車のタイヤが砂利を噛んだ。
次いでドアが乱暴に閉まる音が響き、最後に家のチャイムが鳴る。
この村はいわゆる限界集落で、車を運転できない老人がほとんどだ。
そんな買い物難民を援助するため、過疎地域に食料や日用品を配送するサービスがあるらしい。
「あれ、今日も来ました。配送は週に一回のはずなのに……」
表情を曇らせる彼女は、
「とりあえずご飯にしましょう」
と、気を取り直すかのように勢いよく立ち上がり、玄関へ向かった。
一人きりになった僕は、空になった湯呑の底を見つめる。
沈殿した細かな緑の茶葉が残っていた。
僕はそろそろ頃合いだと思った。
勘のいい彼女だ。
これ以上、隠すことはできない。
戻ってきたマルちゃんは、お盆に二つのカップ麺を載せていた。
配送された中にあったのだろう。
赤と緑の配色が、クリスマスを連想させた。
「へえ、美味しそうだね」
「どっちがいいですか?」
僕が選んだのは、緑のたぬきだ。
彼女は赤いきつねをテーブルに置いて、隣に座る。
既にかやくとお湯は入っており、後は待つだけだ。
「私、洋さんに助けてもらって嬉しかったんですよ」
マルちゃんは遠い目をして語る。
「昨日、土砂降りが降ってて……。バス停で雨宿りをしていた私を傘に入れてくれたでしょう?」
「それだけで寝泊まりさせてもらったんだから、ありがたいのは僕の方だよ」
照れたように目を伏せる彼女を一瞥してから、僕は蕎麦を啜る。
だしの味が舌の上に広がり、つゆに浸した天ぷらも美味い。
マルちゃんが僕の膝に手を置いたのは、その時だ。
びくりと身体を上げたので、彼女は意地悪そうに笑う。
「あと二分、暇なんです」
その声色は、甘いというよりは妖しい響きを孕んでいた。
ごくりと蕎麦を飲み込んでから、
「それなら、今度は僕が話をするよ。昔に見た不思議な夢なんだけれどね。自分は人間じゃなくて狸なんだ。仲間と一緒に森を気ままに歩いたり、陽が昇ったらみんなで眠ったりさ」
「可愛らしいですね」
彼女は一心に耳を傾けているようで、僕から目を離さないのが照れくさい。
それを跳ね返すように蕎麦を一啜りしてから、僕は狸だった頃の話を続けた。
鼠を追いかけたり、臆病だから少しの物音で震えたり、木に登って遊んだり、当時の記憶を事細かに話す。
そのたびに彼女は笑ったり、目を丸くしたり、物思いに耽るように目を伏せた。
コロコロと変わる表情に、話しているこちらも楽しくなってくる。
指をさして、
「もう時間じゃない?」
そう言うと、彼女は「あっ」と声をもらす。
ようやく、マルちゃんが僕の膝から手を離した。
それから彼女は12月25日の子どものような笑みを浮かべながら、ビリビリとフタを剥がすと、いの一番に油揚げを頬張る。
小さく噛み切っても、咀嚼するたびに美味しいおだしが溢れてくるのだろう。
溺れながらも、幸福そうな姿が可愛らしい。
「でもある日、好奇心で国道を出たところで車に轢かれたんだ。はじめて見た自動車が怖くてね、道路の真ん中で動けないんだよ」
話しているうちに、当時の苦痛が思い出された。
その痛みを溶かすように癒してくれるのは、鼻から抜ける香ばしい鰹だしと、膝に残るマルちゃんの体温だ。
「今でも思い出すと足が震えるよ。それから運転手が僕を近くの集落に連れて行ってくれたんだ。そうしたら村の女性が、もう助からないからお墓を作ろうって。その時の、愛情に満ちた両目が素敵でさ……」
「それって、本当に夢ですか? 私、前に似たような経験したんです」
そう切り出した彼女の唇は、艶々と濡れていた。
一方、顔色は青い。
「二人組の男性が村を去ってから、私、一人でお墓を作ったんです。それで夕方頃に戻ったら、いつの間にか狸がいなくなっていて。右足を折っていたのに、おかしいと思いませんか?」
「ねえ、マルちゃん」
唐突に名前を呼ばれた彼女は、夢から覚めるように目を大きくした。
そうして、僕の言葉を従順に待つ。
「さっき、妖狐に会ったらどうするって僕に言ったよね」
マルちゃんは青褪めた表情のまま、コクリと頷いた。
真意が掴めないのだろう、子どものように純粋な反応だ。
「そのために、僕はこの村に来たんだ。あの時、僕を助けてくれたマルちゃんに会うためにさ」
「洋さん、あなたは……」
彼女の理解が早いのは、賢いからではない。
「君だって妖狐なんだろう?」
マルちゃんは二の句を継げない。
唇を薄く開けたまま、化け狸の僕を見つめている。
その瞳の中で、一人の男が笑っていた。
「死にたくなかったんだ。優しく介抱してくれた君のそばに、もっといたかった。だから人間の男に化けたのさ。そんなことができるだなんて、自分でも驚いたよ。それに君が人里に憧れて若い娘に化けたのも、話しているうちに知ったんだ」
ごくりと唾を飲み込んで、
「私も、あなたがこの辺りに来たことにすぐ気が付きました」
「人間の娘になった君は、もう狐を愛することはできない。君は、この村では珍しく若い男の僕を捕まえようとした。それで雨を降らせたんだろう? 妖狐は天気を操れるからね。でも悪いけど、君が僕の気を引こうと降らせた雨を利用させてもらったよ」
「もしかして、傘差し狸ですか」
「そう。そうして、この
マルちゃんは窓の向こうへ視線をやる。
雪が降らない。
霜は降りない。
週に一度しか来ないはずの配送トラックが来る。
そう、まるで昨日と同じように。
常世は神域でもあり、死後の世界でもある。
時間の流れない、永遠の空間だ。
「ここはもう、普通の世界じゃないんですね」
「機械仕掛けのように時計は動く。だから配給も来てくれる。ただ、君と僕の時間は永遠だ」
「全てを知った上で、昨日はグウグウ寝ていたんですね。この座敷で……」
「狸寝入りって言うじゃないか。それに――」
マルちゃんの手を取った。
ビクリと踊るが、抵抗はない。
「君が降らせた天気雨だって、狐の嫁入りって言うだろう?」
僕は彼女の手の甲にキスをした。
まるで婚約のように。
「冷めないうちに食べよう。僕たちにお似合いじゃないか」
それからも、二人は冗談を言い合ってはカップ麺を食べた。
明日もきっと、そうに違いない。
狸寝入りと狐の嫁入り 深雪 圭 @keiichi0509
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