密告屋、登場

 ローランド語ではなく、ルブランス語だ。

やけに馴れ馴れしく呼び掛けられた声が母国語だったもので、はっと、アンリは視線を上げた。

 背は、自分より拳ひとつ分ほど高いだけだが、おのれより二、三歳年上と思われるそばかす面の少年が立っている。

ちょっと大人ぶって、ハンチング帽を斜めに被っている姿が、田舎育ちのアンリにとっては不良少年風に見えた。


「ど、どうも、こんにちは……」


 旧市街地に入ってはじめて人に出会ったというのに、アンリはぎくりと、唇の端を引き攣らせる。

なぜならその少年は、左腕に、赤と黒の二色で染め分けられた、国民管理委員の腕章を付けていたからだ。


(まさか飛行船の墜落事件のことで、僕を監視してるわけじゃないだろうな……?)


 アンリが神経質になるのも無理はない。仰々しい役職名がつけられてはいるが、国民管理委員とは、ようするに公安警察の連中が飼っている密告屋だからだ。

アンリが生まれ育ったカルティーヌ県は戦線から遠く、庶民の生活は割合のんびりしていたが。そんな田舎町でも、この赤と黒の腕章を付けた密告屋は煙たがられていた。


「あ、あの。あなたは?」


「オレの名前はドミニク。この町の街頭宣伝師・タウンクライマーさ」


指先でくるくるとハンチング帽を回しながら、そばかす面の少年が名乗る。やっぱり仕種もアンリが見るとどことなく不良っぽい。

 タウンクライマーとは、新聞のようなマスコミ機関が発展していなかった中世、その日の出来事を街頭に立ち人々に大声で告げて報せた情報屋のことだ。


「でもって。いまは宣伝師の仕事だけじゃ食っていけないんで、国民管理委員も兼任してるんだけれどさ。委員っていっても、まだ十八歳だから、威厳ないだろー?」


 ドミニクは人懐っこそうに、あははっと、笑い声を上げた。


「オレ、土地っ子だから旧市街地の中のことなら、なんでも訊いてくれ。それで、どこへ行くところなんだい、半ズボン(キュロット)を穿いた眼鏡くん」


 と、最初の質問に戻る。おずおずとアンリは口を開いた。


「ええと、マウリッツ通りフリーヘン横丁の、アルベルト・ヘボン先生のお宅はどちらでしょうか」


「ええーっ! ヘボン先生ンちって、あの『五人の魔女の館』だろ? おまえ、あそこに行くのかよ?」


 大声を上げるなりドミニクは、道化師のような大袈裟な身振りで、上半身をのけぞらせる。あそこはマジやばいらしいぜ──と、真剣な表情で声を潜めた。


「あの、『魔女の館』ってどういう意味ですか?」


「なに、知らねぇの? なんでもあそこの館には、大昔に暮らしていた、魔女の婆さんの幽霊が棲み付いてるんだってさ。それも五人も!」


「……魔女の幽霊?」


 たしかに、これほど歴史のある旧市街なら、幽霊憑きの家の一軒や二軒、ありそうな気がする。アンリは背筋あたりに少し寒気を覚えた。


「あなたは、その幽霊を見たことがあるんですか?」


「いや、オレは見たことない。だって食堂の店先ならともかく、館の奥に入れてもらったことないもん」


 あそこの食堂のおばさんはやさしい人だけど、看板娘は愛想ないよな──などと、ドミニク独りでぶつぶつごちている。


「でも、この町ん中じゃ、昔っから有名な話さ」


 そう言いながら、頼んでもいないのにドミニクは、勝手に旅行カバンをひったくると両手に下げた。

 そして大人二人がすれ違うのがやっとな、狭く入り組んだ路地を、ずんずんと行ってしまう。


「ちょっ、ちょっと待ってくださいっ!」


 十歩ほど出遅れてしまったアンリは慌てて追うが、その差はまったく縮まらない。   迷路のような路地の角をひとつ曲がるたび、引き離されてしまうのだ。

 終いには走って後を追いかける。


「あ、あの……。大丈夫です、結構です。そんな、気を使わないでくださいっ!」


 長い歳月の間に磨耗し、走りづらいことこの上ない石畳に靴底を滑らせながら、どうにかアンリは、管理委員の腕章を付けた少年に追いついた。


「あっ、そぉ?」


 いくつ角を曲がったのだろう。もうアンリ一人では、絶対に元の地獄門に面した通りへは戻れないに違いない。奥まった四辻の角まで来て、ドミニクは両手に下げていた大荷物を、放り出すようにして、路上に並べる。


「ここでいいの?」


「はい、ここで結構です!」


 大した距離は走っていないはずなのに、ぜえぜえと肩で息をしながら、アンリが返事する。すると、その目の前にドミニクが右の手のひらを突き出した。


「……なんですか?」


「なんだじゃないだろ? 人に手伝いさせといて、『はい、さようなら』ってヤツがあるかよ。御礼ってもんがあるだろ?」


「お、御礼?」


「ああ、その林檎でいいや」


 そう言うなりドミニクは、アンリの上着のポケットにあった小さな林檎の実を、手品師のような見事さで掠め取る。


「あーりがーとさんっ」


 妙な抑揚をつけた挨拶を残して、街頭宣伝師は風のごとく立ち去った。

 なんだか魔術師に騙された気分だ。それも、とても狡猾なインチキ魔術師に──と、呆然としながらアンリは、ドミニクが姿を消した方角を眺めていた。

 そんなわけで少年は、迷路のごとき旧市街地の路地裏に、ひとり取り残された。

 けれど脇の民家の、ひび割れた漆喰壁に打たれたプレートに刻まれている通りの名は、確かに「マウリッツ通り」だ。


「あれっ?」


 普通「通り」と冠される道路は、少なくとも二頭立ての馬車が通行できる道幅のものを指す。けれどこの「マウリッツ通り」は、ロバが牽く荷車くらいなら大丈夫だろうが、これが「通り」なのかと疑問に思えるほど狭い。初めての土地に途惑っているアンリのような旅行者なら、きっと見落としていただろう。


「あの人、ちゃんと道案内してくれたんだ。それじゃ以外と、本当に親切な人だったのかもしれないな……」


 しかも、ドミニクが荷物を投げ出したすぐ脇には、『フリーヘン横丁。配給制食堂、ただいま営業中』と書かれた、黒板まで立てかけられている。

黒板には、案内の矢印がチョークで書かれていた。

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