十五歳の少年への感傷
「都市間急行『イロンデル号』は、まもなく終点、アウステンダム中央駅に到着いたします」
芽月(ジェルミナール)の十日、午前七時──予定より三十二時間ほど遅れて、ようやく目的地へと到着する急行列車の各個室に、車掌が告げて回る。
列車を降りる準備を整えながら、ヴィクトール・クロードヴィスは、おのれの心の動きに少なからず途惑っていた。
偶然、同じ寝台個室に乗り合わせただけの、見ず知らずの少年の行く末を案じるなど、普段の自分には考えられない──と。
(くだらない感傷だ……)
そう思ってはみるものの、心を揺らす源はなによりおのれの過去にある。ヴィクトールもやはり十五歳の春に、たった一人故郷を旅立った経験を持っていた。
だからか、その頃のおのれの姿と重ね合わせたくなるようなアンリを目の前にして、素通りできなくなっていた。
(なにしろ保安部の魔術師に、使い魔まで憑けられているし……)
アンリ本人は、おのれの影の中に潜む魔性の存在に、まったく気がついていないようだが。それが素通りできない一番の原因なのである。
保安部とは、民間人の不穏分子を取り締まる、革命政府下における秘密警察だ。おそらく、この子が総統閣下を称える合唱に参加していなかったのを見咎め、監視用の使い魔を依り憑かせたのだろう。
(まったくもって最近の保安部は、こんな子供のささいな失態にすら、不穏分子のレッテルを貼りたがる……)
ヴィクトールの出自は魔法使いの家系ではない。だが、これだけ質の悪い──おそらくカエルかトカゲ程度の低俗な使い魔、それも大量養殖モノだろう──
その程度なら高等魔術の訓練を積めば、かつて魔術師を目指した凡人の目にも見えてくる。
しかも、使い魔の件を割り引いてもなお、ヴィクトールには不安があった。時折、この少年が手のひらの中で転がしていた、あの懐中時計のことだ。
あんな高価な品をおもちゃ替わりにすることができる、中産階級の家に生まれた世間知らずのぼうやを、アウステンダムのような生き馬の目を抜く大都会に放り出したら、小悪人どもの餌食になるのは目に見えている。
ヴィクトールは、おのれの中にまだ微かに残っていた「良心」とかいう感情が上げる叫びにため息をつきながら、今回はそれに従うことにした。
「もしよかったら、ひとつ、忠告させてもらえるだろうか?」
「はい?」
なんでしょうかと、かさばる膝掛けをどうやって旅行カバンに詰め込もうかと苦心しているアンリが、顔を上げた。
「君の懐中時計だが。それは、あまり他人に見せびらかさない方がいい」
「……どうしてですか?」
「君には、その時計の価値がまったく分かっていないんだな」
ヴィクトールは相手の無知さに失望して、小さな吐息を漏らした。
「珍しい懐中時計欲しさに、人殺しも厭わないような蒐集家は、実際に居る。
それでなくとも、その時計は外装からして金目のものだと分かる。君のような子供が持ち歩くには危険な品物だ」
精巧な彫刻を施した黄金色の外蓋は、悪くても二十金、もしかしたら純金かもしれないと思わせる色合いで輝いていたのを、ヴィクトールの目は見逃していなかった。
「そうなんですか? 近頃は腕時計のほうが小さくて便利だからって、懐中時計なんて時代遅れだとみんな言っているのに」
ぱちくり瞬きしながら、アンリが上着の内ポケットから例の懐中時計を取り出す。それは、アンリの亡くなった祖父の形見であった。
これほどヴィクトールが説明しても、それがどれだけ貴重で高価な品物なのか、アンリはいまひとつ実感が伴ってこないという表情で、しげしげと金色の物体をみつめている。
少年のどうしようもない愚かしさに、『毒を喰らわば皿まで』との文句がヴィクトールの脳裏に浮かんだのは、どうしてだろう……。
「仕方がない。君にひとつ、おまもりを授けてあげよう」
「おまもりって……、あなたは魔法使いの家系の方なのですか?」
と、アンリは驚く。しかし、ヴィクトールは呪文など唱えなかった。
「身分証明書を出しなさい」
するとヴィクトールは万年筆を取り出し、アンリの氏名や出生地、居住住所が記載されているページに一筆書き加え、旅券の小冊子に一枚、金属製のカードを挟みこむ。
薄い銅版の表面に、終身総統ゴドフロア閣下の横顔を打ち出したそれは──ルブランスの革命政府支配下では、これを提示する者は特一等国民扱いになるという優待市民章だった。
「……こ、こんな大切なもの、いただけませんっ」
血の気が引いてゆくのを感じながら、アンリは優待市民章のカードをヴィクトールの手の中に押し戻そうとする。
たしかにこれは有効な「おまもり」だろう。検問所の取調べくらいなら、このカードをかざせば無審査で通してくれる。
「いいんだ。それを使う予定の同伴家族は、私には居ないから。本当なら、母が一緒にこの列車に乗るはずだったのだが、都合が悪くなってしまってね」
無駄にするくらいなら君が使ってくれと、ヴィクトールは言い足した。
今の自分はおそらく、母の入院のせいで感傷的になっているのだと、ヴィクトールは、無言のうちにおのれ自身に弁解する。そして、度重なるお節介を正当化するため、無暗に言葉を連ねた。
「私も十五歳の春に故郷を離れ、士官学校に入学してね。一人で重い荷物を下げて、長い旅をして、シテ・ドゥアンまでたどり着いた。
それでどうしても、君の姿をその時の自分に重ねてしまう」
「士官学校……って。それじゃ、あなたは軍の関係者なんですか?」
なにごとにおいても軍事が優先されるこの時節、ヴィクトールが共和国軍の上級士官というのなら、列車内での豪華な食事や、家族への優待市民章の付与もすべて納得がゆく。
眼鏡越しに、不安げな眼差しで自分を見つめる少年に、ふとヴィクトールは、偶然同室になったこの子供だけには、どういうわけかおのれの素をさらしていると、いまさら気がついた。
「それについては『職務上の守秘義務がある』とだけ、答えておこう」
うっかり口を滑らせてしまったな──と、ヴィクトールは苦笑ではあったが、アンリに対してはじめて笑顔を見せた。
都市間急行列車は長い旅路の末、アウステンダム中央駅の八番ホームに、すべりこむように静かに停車した。大きな旅行用トランクとともに一等寝台車から下りると、人波でごった返すプラットホームの上で、ヴィクトールは一度立ち止まった。
駅の改札まで、あと三十メートルほどの距離である。そこに、ローランド占領軍の最高司令、メルヴェイユ護国卿の使いが、おのれの到着を待ちわびている姿を認めたからだ。
「ここでお別れだ。気をつけて行きなさい、学生さん」
そう別れの挨拶を告げた直後、「私のように、くれぐれも間違った道を進まぬよう」と、おのれの口の中にだけ小さくつぶやく。
まったく今の自分ときたら。日々の生活や母親の入院治療費のため、音楽家としての誇りを、あのろくでもない軍人どもに売り飛ばしてしまったのだから……と。
こうしてアンリ・パルデューは、いかにもおのぼりさんといういでたちで、大都会アウステンダムの中央駅構内に降り立った。親切な同室者も去り、雑踏の中に独り取り残されたアンリの胸中に、心細さがいよいよつのる。
おのれを監視する保安部が放った六本足のヒキガエルに似た使い魔が、背後の影の中に潜んでいると気付かないまま。
少年は両手に大荷物を下げ、よたよたと人波の中を進み始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます