銀翼の魔女、もしくは歌姫

「脱線事故かっ?」


「ローランドの国王派レジスタンスが、また線路爆破かなにかやらかしやがったのか?」


 異常に気付いた乗客たちが、わらわらと窓から顔を出す。

 進路方向での火災を見つけて、乗客たちが野次馬のように口々わめいていると、突然上空から強力なサーチライトの光が、停車した急行列車と墜落した飛行船とを照らした。


「もう一機、翼付きの飛行船がいるぞ?」


 人々の視線が雨空に向けられる。

 しかしこの悪天候下では、後から現れたもう一機の飛行状態もふらふらとして心許無い。回転翼をフル稼働させているようだが、それでも横風をまともに受け、押し流されている。

 びょうびょうと木立の梢が大きく波打つような強風下、アンリの耳は、不意にこの嵐の中にそぐわぬ澄んだ響きを拾い上げた。


(……なんだろう、風音に混じってなにか聞こえる)


 飛行船の機関駆動音では、もちろんない。なにか、女性の歌声に似たものを聞いたような気がしたのだが……。


(聞き違いかな? それとも空耳?)


 その刹那、奇妙な風笛の音がアンリの耳元を吹きぬける。アンリは慌てて、両手でおのれのキャスケット帽を抑えた。

 風が、渦巻いて荒れ狂っている。翼と回転翼の付いた飛行船は、上から見えない手で押し潰されたようにひしゃげ、そのまま地面に叩きつけられた。


 瞬く間に、墜落船は巨大な火の玉と化した。なにしろ気嚢に充填されているのは、可燃性の石炭ガスなのだ。車窓から事故の様子を見つめ続けるアンリの顔面にも、噴き上がる炎の熱が感じられる。

 立て続けに爆発を起こす船体からは、クマに巣を壊されたミツバチのごとく、次々と航空兵が飛び出してくる。

 その背中に、手足に、めらめらと炎が長く舌を伸ばす。全身火達磨になって地面をのた打ち回り、わけの分からない叫びを上げている者もいた。

 その悲鳴で、アンリはやっと我に返った。


「た、助けなきゃ」


 そうは思うのだが、火災現場の凄まじさを間近にすると、アンリの身体は恐怖にすくんで動かない。実際、先に動いたのは隣に居たヴィクトールの方だった。

 食堂車から連結部へ回り、乗降口の扉を開ける。そして、ヴィクトールは右腕を上げると手のひらを向け、着いてこようとするアンリを制した。


「君はここに残りなさい、子供がついて来ても足手まといだ」


 こう告げられると、アンリの中では逆に、思春期の少年らしい反抗心が首をもたげた。

自分だってもう十五歳なのだ。役に立てることがなにかあるはずだと、扉が開いたままの乗降口を降りてゆく。


 鼻が曲がるような燃料の鉱石油の刺激臭と、髪の毛が焼け焦げる嫌な臭い──せっかくのご馳走が、胃袋から逆流してしまいそうな異臭が辺りには充満している。

 ヴィクトールが自分の上着を脱ぐと振り回し、航空兵の背中で燃え上がっている炎を叩き消している様子が目に映る。ぐずぐずしてはいられないと、アンリも、よろめきながら近寄ってくる小柄な航空兵に腕を貸した。


「大丈夫ですかっ?」


 言いながら、航空兵の手袋を外してやり、火種がくすぶる上着や防寒帽を脱ぐのを手伝う。防寒帽とゴーグルの下から現れたその顔を見て、アンリは、心臓を直に氷の手でつかまれたがごとき衝撃を味わった。


(まだ、髭も生えていない子供じゃないか……!)


 ここ十数年の魔法機関の発展には目を見張るものがあるが、それでもまだ性能に全幅の信頼が持てない。

 そのため空飛ぶ魔法の機械に乗り込む者の体重は一グラムでも軽いほうが良い、という考え方の中。航空兵の多くはアンリとさほど年齢の違わぬ少年兵だった。


「み、水を……」


 顔面を火傷で腫らした少年兵があえぎながら、冷たい水をねだった。暴風に混じり、ひっきりなしに雨粒が頬を叩くが、その程度の水量では、この、炎の舌に舐められた肌を冷ますことはできないと。

 とにかく負傷した少年兵に手を貸し、アンリが食堂車へと戻ろうとした時だった。

 バケツに水を汲んできた給仕係が、乗降口の段差の上で、右手の人差し指を中天に向けると驚愕の声を上げる。


「──あれはなんだっ?」


 燃え盛る炎と立ち上る黒煙のために奇妙に変色した、夕暮れ時の、薄ら暗い乱雲の下に。白い衣を纏った若い女がひとり、長い髪を風になびかせ浮かんでいた。

 文字通り浮かんでいたのだ、黒い風が渦巻く中空に……。

 燃え盛る飛行船より遠くにいるその人の姿がくっきりとアンリの眼に見えるのは、掛けている魔法仕掛けの分厚い眼鏡のおかげである。

 ほとんど白色に近い銀色の髪に、雪のごとく白い肌──さしずめ「冬」という季節を擬人化して女の形を与えたなら、こんなふうになるのかもしれない。炎の照り返しが映える、どこか冷淡な美貌には、神々しさすら感じられる。

流血革命以後、ルブランスの統治領内では教会は活動を厳しく制限されており、アンリも洗礼など受けてはいないが。

それでも、頭上に光の輪をいただく翼ある御使いのことは、祖父が語ってくれた昔話で知っている。


「……天使さまだ」


 これほど美しい姿をした者が、人間であるはずがない。しかも魔法仕掛けの機械の力を借りずして、空を飛んでいるのだもの──アンリの口から、感嘆のため息とともに、素直な言葉がこぼれる。


「違う、あれは魔女だ!」


 アンリの腕の中で、少年航空兵がひきつれた声で叫んだ。


「あれは『銀翼の魔女』だ。歌声で自由に風雨を操り、嵐とともに現れるから、行き遭って無事に済む飛行部隊はない」


 オレたちはあの魔女の呪いを受けたんだと、少年兵が全身を激しく痙攣させる。


「歌?」


 では先ほど自分が感じたのは、やはり空耳ではなかったのかとアンリが思い返したその時──雨風の音の間を縫うようにして、涼やかな歌声が届いた。


「くそぉっ、銀翼の魔女め! その口、閉じさせてやる!」


 少年兵は口汚く罵ると、アンリの介助の手を振りほどく。腰のベルトに手をやると、小物入れのような形をしているホルダーから、護身用の小さな拳銃を取り出す。

 そして、躊躇いもなく中空に浮かぶ魔女に向かって、引き金を引いた。


「だ、ダメだよ。どうせ届かないっ!」


 あんな綺麗な女性(ひと)を撃ってはいけない──本当はそう言いたかったのだけれど。

 でもそれを言ったら、負傷したこの少年航空兵に殴り倒されるような気がしたので、アンリは慌てて口をつぐむ。

 その時だった、遠く汽笛が聞こえてくる。同時になぜか、嵐に負けない盛大なトランペットとドラムロールの響きが、黒煙なびく空の下に轟いた。

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