都市間急行、発車します
革命歴三十年の芽月(ジェルミナール)──
旧教会暦なら、三月から四月へと移り行く時期に、十五歳のアンリ・パルデューは、山深い故郷の村を旅立ち、馬車と列車を乗り継いでも四日は掛かる遠方の大都市に学びに行くことになった。
生まれつきの弱視のため、地元の大学予科校への進学を教師に妨害されたためである。
ここ数年の東部戦線の激化で徴兵年齢が十八歳から十六歳に引き下げられるとの噂が、今年に入ってからまことしやかに流れている。そのため、アンリの同級生の多くは大学進学を目指し、なにがなんでも大学予科校へ入学するためにしのぎを削っていた。学生の場合は、大学を卒業するまで召集令状は来ないのが実情だからだ。
「おまえのその視力と貧弱な体格なら、進学せずとも、兵役に取られることは絶対にないから安心しろ」
実際、地元の愛国少年団の中では、アンリは「発育不良」の「眼鏡」で「弱虫」だと、落ちこぼれの烙印を押されている。
担任の教師はアンリの生まれつきの弱視をせせら笑った。
(でも、せめて受験用の内申書くらい、僕の成績を正当に評価して欲しかったな)
一応、大学予科校へ願書は出したのだ。
けれど成績表に添付された内申書には、出席日数、授業中の態度、国家への愛国心、終身総統ゴドフロア閣下への忠誠など──
教科書の勉強以外でのアンリの評価はまったく最低に記してあり、そのため書類審査でふるい落とされてしまった。
自分よりも学科の成績は劣る同級生たちが悠々と進学してゆく中、アンリは、それでも大学への道を模索していた。
とにかく、大学という最高学府で学んでみたかったのだ。
アンリは、知識に関しては貪欲な子供だった。自分の知らない知識を学ぶのは楽しいし、大学に進学するのは、故郷の村を出て、未知の世界へ行くということでもある。
調べてみると、大学予科校で学ばなくとも、大学進学のための単位を確保する手段はあった。
学者の家に住み込む弟子になり、三年間個人講義を受けるという「内弟子学生制度」だ。
大学への受験資格を得られるのなら、弟子入りする先はどこでも良かった──少なくとも、その時のアンリは投げやりな気持ちもあって、そう思っていた。
だからだろうか。弟子を募集する学者たちの一覧表の、最初のページに記されていた「アルベルト・ヘボン。占領下アウステンダム市在住。専門・水文学」との記載に、眼鏡越しの視線が止まったのは。
水文学という学問はまったく知らない。ただ、アウステンダムで学べるなら、その授業はなんでもいいとアンリは思った。
アウステンダム──
それは四年前に亡くなったアンリの祖父が「ずっと昔に住んでいた世界一美しい街」と、いつも懐かしげに話してくれた都市だったからである。
都市間急行列車はガラス窓に鎧戸を下ろし、春の嵐の中を進んでいた。
祖父の形見の懐中時計を手の中で玩びながら、アンリは規則正しい鉄輪の響きに心底退屈していた。
悪天候のため、重い鎧戸が下ろされた車内では、風景を楽しむこともできない。一人ぼんやりとしていると、発車の際に、手を振り見送ってくれた父のことばかり考えてしまう。
(もっとも、同室になったこの人が社交的な話し好きだったら、ここまで退屈しなかったんだろうけれど……)
なにもしゃべらないままでいると、心細さはますます増してくる。
アンリは、いかにも都会暮らしの文化人といった雰囲気を漂わせ、向かいの席で読書にふける男の姿を眺め見た。
年の頃は二十七、八歳くらいの、長身痩躯の青年である。黒髪に、晴れ渡った冬空を思わせる深い青色の瞳という組み合わせが、少し珍しい。そして肌の色は、まるで喪服のように真っ黒な背広が映えるほど、白かった。
シテ・ドゥアン中央駅で知り合った、ヴィクトール・クロードヴィスはどうやら公職に就いているようで、「職務上の守秘義務」を盾に、名前以外の素性を語らなかった。
まぁ、鉄道管理局窓口での予約が重複して、たまたま同じ寝台個室に乗り合わせることになっただけの仲でしかない相手に、あれこれ気安く話しをするような性格では、革命政府下で役人など勤まらないのだろう。
(もしかしたら、中央政府の高官なのかも?)
そうやって、読書に没頭している同行者の姿をぼんやりと眺めていた時だ。アンリの懐中時計に組み込まれているオルゴールが、時報のメロディを奏ではじめた。
「……何時になりましたか?」
嵐のため、鎧戸が下ろされた車内では時間の流れる感覚が麻痺する。書物から顔を上げたヴィクトールが、不意打ちのようにアンリに尋ねた。
「ええと、午後七時です」
太陽の軌道が、春分点を過ぎたばかりの今の季節。北緯五十度付近のロディヴェラ平原では、夕暮れ時の風景を眺められる時刻だ──もっとも、それは晴れていたならばという前提だが。
「では、そろそろ食事にしたほうがいいな。君は、夕食はどうします?」
「僕は、母が持たせてくれた固焼きパンとか林檎とか、干し肉があるから。ここで、適当に食べることにします」
さっきまで沈黙を守っていた同行者から急に話しかけられて、途惑いながらもアンリは答えた。
「もし迷惑でないなら、食事に付き合ってもらえないかな」
ヴィクトールの意外な申し出に、アンリはおのれの耳を疑った。どう返事をすればいいのかと、困惑をありありと表情に浮かべるアンリに対し、黒服が似合う同乗者は言った。
「実は食堂車に、一緒に来るはずだった同行者の分も夕食の予約をしてあるのでね。用意されているはずの食事を無駄にしないためにも、よければ、ご一緒してもらえないかな」
十分後──予約客にしかその扉が開かれることはない食堂車の豪華な内装に、ここは本当に列車内なのだろうかと、アンリはただただ驚嘆していた。
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