後日談 おとぎ話のその後(後編)

 ふわりと頭を撫でられたような気がしてエレオノーラはゆっくりと目を開けた。空はすっかり闇をまとい、窓からさしこむ月光が仄白く室内を染めている。ぼんやりとした視界に映るのは見慣れた灰色の瞳。いつの間にか部屋に戻ってきたギルバートがベッドの縁に腰掛けてエレオノーラの頭をそっと撫でていた。


「すまない、起こしたか」

「ううん、私、ギルのこと待っていようと思っていたから。でも寝てしまったのね」


 目をこすりながら身を起こすと、低い笑い声が返ってきた。


「起きているつもりだったのか。夜間の警護は未明までかかるというのに」

「そんな遅い時間までずっと立っていたの? 疲れてしまわない?」

「それが仕事だからな」


 彼の言葉に驚いて窓を見やると、まだ日の登っていない外は薄暗く、星星ほしぼしが静謐な夜を照らしていた。だがもうすぐ明け方なのか、天井の闇は徐々に薄れつつある。

 目の前のギルバートはまだ騎士服を着たままだった。たった今帰ってきたばかりなのだろう。気遣わしげに灰色の目を見上げると、彼が嬉しそうに口元を緩めた。長い指が伸びてきて、そっとエレオノーラの髪を払う。


「ここに帰ってきてお前がいるのは良いものだな」

「そうなの? 私、寝ていただけだけど」

「今まではこの部屋に帰ってきても冷たい寝床で眠るだけだったからな。今しがた部屋に戻ってきて、お前の寝顔を見ていたらなんだか穏やかな気持ちになった」

 

 そう言ってギルバートがふっと相好をくずす。昼までの生真面目な硬い表情をした彼とは思えないほどに柔らかな表情だ。愛おしむように熱のこもった眼差しに見つめられてエレオノーラの胸がどきりと鳴った。

 上着を脱がせてやろうと手を伸ばすとかさりと耳元で何かが揺れる音がした。同時にふわりと濃厚な甘い香りが周囲に漂う。思わず自身の頭に手を伸ばすと、指先が柔らかい物に触れた。しとやかで瑞々しく、柔らかな感触が指先に伝わってくる。優しく摘んで手のひらにのせてみると、それは手と同じくらいの大きさの花だった。真珠のように光沢のある純白の花弁が手のひらでふるふるとゆれている。


「お花? とっても綺麗ね……でもこれ、どうしたの?」

「殿下からいただいたものだ。お前にやろうと思って」

「そうなの、ありがとうギル」


 はにかみながらギルバートを見上げると、彼が少しだけ顔を綻ばせた。


「隣国の使者が言っていた。隣国には婚姻の際に月の光を浴びた純白の花を花嫁に渡す習わしがあるらしい。花婿が一晩中月明かりの下で花を見守り、それを花嫁に渡すことで自分はいつでも貴女の側にいるという意味が込められているんだと」

「素敵、海の向こうにはそんなロマンチックなお話があるのね」

「ああ、それで殿下が庭園に咲いている白い花を一輪くださったんだ。月の光にあてる必要があるならば、警護中にこれを眺めているといいと」


 そう言いながらギルバートが花弁に触れた。ゴツゴツした骨ばった指が白く滑らかな花びらを滑っていく。花を見つめる灰色の瞳は愛おしげに揺れていた。


「警護をしている間、この花を見ながらずっとお前のことを考えていた。今頃何をしているだろうか、困ったことは起きていないだろうか、楽しく過ごしているだろうか……考えれば考えるほど無性にお前に会いたくなって、部屋に戻ることを心待ちにしたのは初めてだ」


 静謐な空間にギルバートの声が響く。闇の中でも白く輝く花に視線を落としながらギルバートが微笑と共に息を吐いた。


「お前が陸に上がってきて喜びを感じているのは、実は俺の方なのかもしれないな」


 静かに語られる彼の本音に、エレオノーラの胸も彼への愛しさで満ちていく。きゅうと心地良く締め付けられる胸の高鳴りを感じながら、エレオノーラも心からの笑顔をギルバートに向けた。


「私もね、ギル。海から陸にあがって美しいものや綺麗なものをたくさん見られて楽しかったの。でも一番嬉しかったのは、今まで知らなかった貴方の一面を側で見られたことよ」


 ギルバートの隣に並んで腰掛けながら、優しく上着を脱がせてやる。近衛騎士の立場から解放されてシャツ一枚の姿になると、やっといつものギルバートに向き合えた気がした。


「普段のギルも好きだけど、お城でギルが職務に励んでいる姿がとってもかっこいいと思ったの。あなたがエドワルド様や色んな人にも慕われているのを見て私も誇らしかったわ」

「そんなことが嬉しいのか」

「そうよ。だって好きな人のことはいっぱい知りたいと思うでしょう? 私もギルの隣で知らない貴方を知っていくのが楽しいの」


 クスクスと笑いながら告げると、ギルバートが優しい眼差しを返してくれる。衣擦れの音と共にギルバートが身を寄せてきたのがわかった。同時に顎を持ち上げられ、唇が柔らかいもので塞がれる。一回、二回、優しく、それでも何度も落とされるそれは花の香りよりも濃密で甘い。思わず胸元にしがみつくと、腰に添えられた手が引き寄せてきた。密着する体からギルバートの体温と鼓動が伝わってくる。ドキドキと胸を打つ音は、果たして自分のものか彼のものなのかはもうわからなかった。

 

「……不意打ちのキスなんてずるいと思うの」

「どんなに仮面を被っていても男は皆同じだ。好いた女を前にすれば、自身の仮面などいとも容易く捨て去る」

「貴方のように生真面目でお堅い騎士様にこんな情熱的な一面があるなんて、皆が知ったら驚いてしまうわね」

「その姿を知るのはお前だけでいいだろう?」


 笑いながらギルバートがそっとエレオノーラの髪に唇を落とす。まるで壊れ物に触るかのような手付きからは彼の想いが手に取るように伝わってきた。大きい体にすっぽり包みこまれ、エレオノーラの胸が心地よさと幸福感で満たされる。耳元で低く囁かれた愛の言葉は彼の口から出たとは思えないほどに甘く蠱惑的で――


 二人の長い夜は、月明かりと共にゆっくりと過ぎていった。

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