番外編集

番外編① 初めての夜(☆)

 ささやかな結婚式を挙げた後、二人はめでたく夫婦となった。生家にいた頃であれば、名家の婚姻ということで貴族を呼んで大体的に挙式をしなければならなかっただろうが、今はもう無名の家の者の婚姻など誰も気にしない。二人は自由気ままに愛を誓い合い、そして何のしがらみもない日々を送っていた。ギルバートは領主としての仕事はあるものの、煩わしい貴族同士の付き合いから解放されて、昔より少しだけ表情が柔らかくなったように思う。それがエレオノーラには何よりも嬉しいことだった。


 だが、その後夫婦として床を共にすることは無かった。正確には、同じ寝所で寝ているのだが、夫婦としての愛はまだ交わせていない。その話を聞いたキースは、ハンナが入れてくれたお茶を盛大に吹いた。


「ちょっ……と待て。お前、僕をからかっているわけじゃ無いだろうな?」


 白衣がお茶で濡れているのも気にせずにキースが言葉を返す。向かいのソファに腰掛けているエレオノーラは彼の言葉に身を縮こませ、ギルバートは顔を赤くしながら明後日の方を向いていた。


「……残念ながら、本当だ」

「おいおい、ちょっとからかってやろうと思ったら、まさかこんな返事が返ってくるとは思わなかったぞ。お前の生家はもう跡継ぎまで出来てるんだろ? 兄貴のお前は本当に情けないな」


 キースが呆れ顔でギルバートを見る。そういう彼は先日子供が産まれたばかりだ。そして、ギルバートの弟と結婚したサラも既に身ごもっていると言う。彼の話によると、念願のランベルト家と婚姻関係を結んだサラは、亭主に妾を作られてはたまらないとばかりに婚姻初夜から努力を重ね、精力効果が期待できる薬を取り寄せたり、占いに頼ったりして翌月には既に正妻としての基盤を盤石にさせたと言う。対してエレオノーラ達は、夫婦になってから三ヶ月も経つというのに、まだ床を共にしていないとは呆れられてもしかたのない話だった。

 腕組みをしながら二人を見ていたキースは目を伏せて大きくため息をついた。


「お前ら二人のことだ。おそらく、お互いにお互いの気持ちを読みすぎて噛み合わなくなってるんだろうな」


 図星だった。実際、何度かそのような機会は訪れていた。だが、お互いの顔色を伺いすぎてなかなか最後にまで至らない。つい先日も良い雰囲気になったのだが、エレオノーラが身を固くしてしまい、ギルバートも無理強いはできないとそのままになってしまったのだ。

 二人で真っ赤になってうつむいていると、キースがパチンと指を鳴らした。


「お前らに任せていたらいつまで経っても先に進まないからな。ここは僕が一肌脱ごう」

「なっ……一肌って、何をするつもりだ?」

「今夜からハンナは僕の所で預かる。お前達がきちんと夫婦になるまで、屋敷にはお前達二人だけにしてやろう」

「は?」


 キースの言葉に、ギルバートが目を丸くする。だが、キースは腕組みをしながらふんと偉そうに鼻を鳴らした。


「決まりだな。ここまでお膳立てしてやったんだ、男を見せろよ、ギル」


 そこでこの話は終了した。



※※※

 

 その晩、ギルバートとエレオノーラは寝台に腰掛けながらお互いに目を反らし合っていた。青白く光る白銀の月明かりがほんのりと部屋を照らしており、部屋の中は静寂に満ちていた。しんと静まる空間で聞こえるのは、お互いの息遣いのみ。どう声をかけたらいいのかわからず、膝の上で両の拳を握りしめていると、隣にいるギルバートが大きく息を吐いた。見ると、彼は寝台に腰掛けながら右手でこめかみを抑えている。その顔は暗がりでもわかるほどに赤い。その後、ゆっくりこちらを向いたかと思うと、彼はエレオノーラの肩に両手を置いた。 


「確かにこのままではダメだ。エレオノーラ、お前も覚悟を決めてくれ」

「覚悟……って」

「お互いに素直になろう。俺に気を使わずに、本当のことを言ってくれ、わかったな」


 自分を見るギルバートの灰色の瞳は真剣だった。コクリと頷くと、突然グッと抱き寄せられてそのまま優しく寝台に押し倒された。上を見ると、ギルバートの灰色の瞳と目が合う。射るように自分を見つめる瞳は熱っぽく、自分を求める真剣な眼差しはエレオノーラの胸を高鳴らせた。


「ギル……」


 か細い声で呟くと、ギルバートの指が頬に触れる。そのままエレオノーラの唇を優しくなぞると、ゆっくりと唇を重ねた。まずは優しく、啄むように。忠義に厚く、自制心のあるいつもの硬派な彼の印象とは違い、自分に与えられる感触は柔らかくて優しい。その意外な一面がどうしようもなくエレオノーラの胸を熱くさせた。

 何度か彼の名前を呼ぶと、その唇が首筋を這うようにして滑り降り、首の付け根に赤い花を咲かせる。途端にゾワリと体が歓喜で震え、エレオノーラは思わず嬌声をあげた。布団を引き寄せ、まるで守るかのように身を隠すと、自分から距離を取ったエレオノーラを見て、ギルバートも身を起こす。


「すまない、嫌だったか」

「ち、違うの。でも、なんか変な気持ちにな、なってしまって」

「……そうか。お前が嫌なら、俺も無理をするつもりはない」


 ギルバートが手を伸ばして、エレオノーラの頭を撫でてくれた。その優しい手付きから、彼が自分の気持ちに寄り添おうとしてくれているのが痛いほどに伝わってくる。エレオノーラはドキドキと早鐘を打つ心臓を隠すかのように、布団を胸元まで引き寄せた。

 そのまま暫し無言の空間が続く。彼はエレオノーラが出す答えを待ってくれていた。エレオノーラもギルバートのことは好ましく思っているのだが、それに至るまでの気持ちがどうしても追いついてくれない。今回もここで終いにしようと口を開いた瞬間、彼の言葉が脳裏をよぎった。


(お互いに素直になろう、エレオノーラ)


 何かを言おうと開いた口からは何の言葉もでなかった。代わりに胸に手をあてて自分の気持ちと向き合ってみる。自分を呼ぶ低い声も、熱を帯びた口づけも、優しく自分に触れる指先の感触も、すべてエレオノーラの胸を甘くうずかせる。彼に触れられると、体の芯が熱を持って自分が自分でいられなくなるような感覚になるのだ。ギルバートが触れる度に自分の口から出る甘い悲鳴が自分のものではないような気がして、それがどうしても自分を戸惑わせてしまう。

 それでも、この気持ちはきっと正直に言うべきだとエレオノーラは漠然と思った。自分達はお互いに本音を伝え合い、そして前を向かなければならない。青い瞳に月の光を反射させながら、ギルバートの顔をゆっくりと見上げた。


「ギル、あのね」


 静寂の中にエレオノーラの声が静かに響く。


「私、あなたに触れられるのは嫌じゃないの。あなたに触れられると、甘い気持ちになって体が熱くなって、あなたのことが好きだっていう気持ちが湧いてくる。でも、私自分が自分じゃいられなくなりそうで……その姿をあなたに見られるのはとても恥ずかしいの」


 顔を赤くしながら意を決して言うと、ギルバートが僅かに目を見開いた。素直に自分の気持ちを言葉にしたエレオノーラに少し驚いたようだ。だがすぐに微笑むと、エレオノーラに身を寄せてその耳に優しくキスを落とした。


「ひゃっ! な、何するの!」

「お前は耳が弱いのか。可愛いな」


 少し笑いを含んだギルバートの言葉が、またもやエレオノーラの胸をカッと熱くさせた。


「な、なんでそんなこと言うの! もう、恥ずかしいじゃない!」

「普段は見られないお前の可愛い一面が見られるんだ。言いたくもなるだろう? これは跡継ぎを残す為のものではない。お互いにお互いの知らない所を知って、もっと仲を深めていくものだと俺は思っている」


 ギルバートが微笑みながらエレオノーラの髪をそっと後ろに流す。


「俺にしか見られないお前のすべてを、俺は見たい。お前が受け入れてくれるなら、俺はお前を抱きたい」


 実直な彼らしい、真っ直ぐな言葉だった。口下手で言葉を飾ることはできない彼らしい、ストレートな愛の告白。それでもその言葉はエレオノーラの胸に真っ直ぐに突き刺さった。


「もう一度聞く。俺に、お前のすべてを見せてくれないか?」


 その熱のこもった言葉に、エレオノーラはやっと頷くことができた。



 


 その後のことはあまり記憶にない。ただひたすらに彼の愛を受け入れ、そしてエレオノーラもそれに答えた。今またギルバートがエレオノーラの体を掻き抱き、唇を重ねる。その深い、熱い重なりはエレオノーラの体の芯をじんわりと熱くした。発せられた嬌声は彼の口の中でくぐもって響いている。

 唇を放し、潤んだ目で見上げると、自分を見つめるギルバートの目がわずかに細められた。自分を抱く腕にぐっと力がこもり、そのままエレオノーラを寝台に横たえた。


「すまない、エレオノーラ。俺はもう限界だ」


 彼の荒い呼吸が聞こえる。エレオノーラも頷き、彼の首に手を回した。


 初めて結ばれた時の瞬間は言葉にならなかった。甘い衝撃が雷のように全身を貫き、彼を愛しいと思う気持ちが泉のように溢れてくる。全身で彼の存在を感じていると、ぽたりと頬に熱いものが落ちたのを感じた。ハッとして見上げると、ギルバートの灰色の瞳から涙が一筋流れていた。


「ギル……どうしたの?」

「エレオノーラ、ありがとう……お前は俺がずっと欲しかったものをくれたんだな」


 そう言ってギルバートがエレオノーラの体を抱き締め、首元に顔を埋める。彼の言葉の意味がわかり、エレオノーラは胸がきゅっと締め付けられた。

 家族から愛されず、暗闇を彷徨っていた少年は、ここに来てずっと欲していた他者からの愛を手に入れたのだ。震える彼の体を両手で抱きしめた瞬間、彼を愛おしいという気持ちが洪水のように流れ込んできた。


「あなたにもこんな寂しがり屋な所があるのね」


 軽く微笑んで両手を伸ばし、そのツンツンした茶色の髪を優しく撫でる。


「ほんとね、あなたの知らない所を知ったら、ますますあなたのことが好きになったわ」


 優しく耳元で囁くと、ギルバートが微かに身を震わせた。大きい体を丸めてエレオノーラを抱き締める姿はなんだか年派のいかない子供のようで愛おしく、彼をもっと愛したいと思う気持ちで胸がいっぱいになった。


 お互いに身を引き合っていた二人は、互いのことをまだ良く知らない。だからこそ、こうやって一つ一つ、時間を重ねてやがて夫婦になっていくのだ。


 少しだけ身を起こして、彼の唇に優しくキスを落とす。月明かりに照らされた部屋の中では、二人の息遣いと、衣擦れの音が静かに響いていた。

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