番外編② 大切にするということ(前編)

 窓から入る朝日が柔らかく室内を照らしている。エレオノーラは大きな青い目をパチリと開き、温かいひだまりの中でもぞもぞと寝返りを打った。隣では薄手のシャツを羽織っただけのギルバートが目を瞑って横になっている。灰色の目は閉じられ、唇が生真面目そうに真一文字に結ばれてるのを見てエレオノーラはクスリと笑った。

 大地の色をした髪を優しく撫で、ネグリジェの胸元を引き寄せて身を起こすと、グッと腕を掴まれてそのままもう一度ベッドの中に引き戻される。ギルバートの逞しい腕の中にすっぽりと収められたエレオノーラはパチパチと瞬きをして彼の顔を仰ぎ見た。


「ギル?」

「……もう少しここにいても良いだろう」


 頭上から低い声が返ってくる。そのままグッと腕に力が込められ、胸板にギュッと押し付けられた。シャツ越しに伝わる彼の体温と、トクトクと胸の内を叩く心臓の音がとても心地良い。彼の鼻が自分の肩に埋められるのを感じて、エレオノーラは微笑みながら彼の太い首に腕を回した。


「ギルバートは甘えん坊さんねえ」


 包み込むように顔を寄せて優しく頭を撫でてやると、「俺は子供か?」と不機嫌そうな声が返ってくる。それでも、自分の体から手を離さない彼がなんだか可愛くて、エレオノーラはそっとその額にキスを落とした。

 そのままふんわりとした甘い時間を過ごしていると、コンコンと微かに扉を叩く音が聞こえた。この屋敷にいるのはハンナだけだ。訝しみながらも、はい、と返事をすると、静かに扉が開く。入ってきた人物を目の当たりにして、エレオノーラの深青の瞳が大きく見開かれた。

 入ってきたのは見たこともない人物だった。ふわふわと波打つ髪は海底を彩るさんごの色。浅い海の色をした緑がかった青い目はぱっちりと愛らしく、天使のように美しい少年だった。


「誰だ!」


 ギルバートが飛び起きて寝台の側に置いてある剣を鞘ごと掴む。エレオノーラを庇うように前に出ると、目の前の少年を鋭く睨んだ。開襟シャツの前を止める間もなく、有事の際はそのまま戦うつもりなのだろう。ギルバートがぐっと瞳に力を込めるが、少年は気にした様子もなくパッと目を輝かせた。


「僕のエレオノーラ! 会いたかったよ!」

「えっ……私?」


 エレオノーラが目を丸くすると同時に、少年が駆け寄ってきてエレオノーラの腕に飛び込んでくる。自分の体に手を回して嬉しそうに笑っている少年の瞳の色は、どこか見覚えのある色だった。いつも自分の身近にいてくれる、小さなさんごの色をした友達。


「もしかして……シェル?」

「そうだよ、久しぶりだね、エレオノーラ」


 シェルが顔をあげてパッと破顔する。エレオノーラの隣にいるギルバートも、剣を掴む腕を下げて困惑した表情でシェルを見ていた。


「シェル……というのはうちにいるあのタツノオトシゴか? なぜ人間の姿に」

「ウミヘビと契約をしたんだ。僕の体を預ける代わりに、一週間だけ人間の姿を貸してもらえるんだよ。僕もエレオノーラの側にいたかったんだ」

「だから昨日海に行きたいって言っていたのね」


 シェルの言葉に、エレオノーラが合点がいったように頷いた。

 エレオノーラが陸からあがる時に連れてきたタツノオトシゴのシェルは、普段は屋敷の水槽の中で暮らしている。時折人魚に戻ったエレオノーラと一緒に海に行って遊ぶこともあるが、昨日、なぜか急に一人で戻りたいというので海へ離してあげたのだ。故郷が恋しくなったのかと思っていたが、まさかウミヘビに会いに行っていたとは思わなかった。驚いてシェルを見ると、エレオノーラの視線に気が付いたのか、彼は愛らしい顔でニコリと笑った。


「これから一週間よろしくね、エレオノーラ」


 その日から三人での生活が始まった。



※※※


「はい、エレオノーラ、口を開けて」

「こ、こうかしら」

「うん、そうだよ。はい、これ食べて」


 シェルがニコニコしながらスープを匙に乗せてエレオノーラに差し出す。彼の言葉に従ってエレオノーラが控えめに口を開けると、シェルが優しく口の中にそれを入れてくれた。


「ありがとう、シェル。でも自分で食べられるわ」

「僕がこうしたいんだから良いんだよ、エレオノーラ」


 エレオノーラの隣でシェルがニコニコと愛らしく笑う。幼い頃から一緒にいた友達だが、こうやって自分と同じように人の姿を得た彼を見るのは不思議な気持ちだ。なんと言うか、少しだけくすぐったいような恥ずかしいような気持ちになる。

 ちらりと向かいのギルバートに視線を送ると、彼は興味が無さそうにグラスの水を飲みながら二人のやり取りを見ていた。灰色の瞳と視線が合うと、彼はグッと水を飲み干してグラスをコトリとテーブルの上に置く。


「俺はそろそろ城に行く。エレオノーラ、お前はハンナに言って支度をしてもらってくれ」

「あ、うん。わかったわ」

「ええっ、エレオノーラ、行っちゃうの?」


 シェルが大きな目を潤ませながらエレオノーラを見上げる。その愛らしい表情に後ろ髪が引かれる思いだったが、エレオノーラは屈んで優しくその頭を撫でた。


「ごめんね、シェル。でも私達お城のお仕事が終わったら帰ってくるわ。だから少しだけ待っていて」


 子供に言い聞かせるように優しく言うと、シェルがむぅと唇を尖らせる。だが、支度をするようにハンナが呼びに来ると「僕も行くよ」と言ってエレオノーラの後をついていった。


 大貴族であった生家を離れ、市井の出であった母親の家名を継いだギルバートは、つい先日再び王子の護衛に任命されていた。やはり護衛としての任務は最後まで全うすべきだと言う彼の意志と、彼を側に置いておきたいというエドワルド第一王子の強い意向もあったようだ。無論、レイヴェルス家の正式な跡取りであるギルバートの弟が護衛の任に就くまでのツナギの様な立場だが、下級ながらも騎士としての称号も与えられた。

 彼がまた貴族社会に戻っていったことに、エレオノーラもはじめは心配していたが、彼はもう大貴族であったレイヴェルスの者ではなく、無名の家であるウェイデンの者だ。激しい権力争いから解放された彼は、以前ほど城にいるのも苦痛ではなくなったようで、そのことにエレオノーラはホッと安堵していた。

 エレオノーラもまた、少しずつではあるが人間社会の作法を身に着け、王宮に出仕するようになっていた。特に、エドワルドと隣国の姫君との婚礼により定期的に隣国へ向かう船を出す必要があり、その度にエレオノーラもギルバートと共に同行を求められた。海のことなら彼女の右に出る者はいない。少しずつではあるが、エレオノーラもできることを増やしながら彼を支えていた。


 今日もまた、城に行く為に清楚だが格式の高いドレスをハンナに着せてもらう。髪を結ってもらう間、シェルはニコニコしながらエレオノーラの近くの椅子に座っていた。


「すごいね、見違えるようだよ、エレオノーラ。とっても綺麗だよ」

「ふふ、ありがとう、シェル。いつもね、ハンナさんが綺麗にしてくれるのよ」

「へえ、そうなのか。まるでお話に出てくるお姫様みたいだ。ギルバートは褒めてくれるの?」

「そうね……あんまりそういうことは積極的には言わないかもしれないわね」

「そうなのか。ねぇエレオノーラ、ギルバートは本当に君のことが好きなのかい?」


 ハンナが部屋を出たのを見計らってシェルが小声で耳打ちをする。彼の言葉の意図がわからず、エレオノーラも困惑した表情で頷いた。


「そうだと思うわ。ああ見えてきちんと伝えるべきことは言葉にしてくれる人なのよ。二人だけの時は……情熱的な所もあるし」

「でもギルバートは僕がエレオノーラにちょっかいをかけてもヤキモチを妬かないよ。なぜだい? 僕はギルバートの気持ちがわからないよ」

「あんまりそういうのを口にする人ではないのよ。大丈夫、私達は仲良くやっているわ」


 そう言ってエレオノーラが優しく微笑む。友達としてシェルが自分を気にかけてくれていることに心がじんわりと温かくなるが、同時に陸に上がったことで友を心配させてしまっているのだということにチクリと胸が痛んだ。


 

 ギルバートと共に馬車に乗り込み、向かい側へ座る。彼は窓枠に頬杖をつきながら無言で外を眺めていた。エレオノーラも椅子に腰掛けながら、ドレスの裾を手で直す。

 今日着せてもらったのは、真珠色をした細身のドレスだ。体の線を美しく見せ、裾の部分が淡い桜貝の色になっている。人魚の時の自分の姿に似ているからか、それを着ているとギルバートも少しだけ嬉しそうにしてくれている気がするのだ。自分にとってもお気に入りの一着であるそのドレスのシワを手で伸ばすと、エレオノーラはそっと視線を上げた。


「ねぇギル」

「なんだ」

「このドレス、似合ってると思う?」

「いきなりどうした?」


 ギルバートがこちらを向き、灰色の瞳と視線が合う。その鋭い瞳を見た瞬間、ドキリと胸が高鳴った。


(私のこと可愛いって思う?)


 思わず浮かんでしまった言葉を打ち消すように両手をキュッと握る。もう夫婦になった関係なのだし、一緒に暮らし始めて数ヶ月が経つ。今更こんなことを聞くのはさすがに子供っぽいと思い、でかかった言葉は反らした視線と共に飲み込まれた。


「久しぶりにお城に行くから緊張しちゃって……変じゃないかなと思って」

「珍しいな。城に行くのは初めてではないだろう? いつもはそんなこと気にしていなかったと思うが」

「え、えーと、久しぶりにエドワルド様に会うから……かもしれないわ」


 なんとなく素直になれなくてつい適当な嘘が口をついて出た。その言葉に、ギルバートの眉が僅かにピクリとあがる。彼はそのまま、ふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らして腕を組んだ。


「見てくれは立派な令嬢だが、中身はいつまでも子供のままだな。別に、普段と変わらん」

「そ、そんな意地悪な言い方しなくたっていいじゃないの! もう、あなたに聞いたのが間違いだったわ!」


 プンプンと怒りながらプイと横を向くと、ギルバートが軽くため息をつく。


「公務に見てくれの美しさは関係ない。もう少し考えるべきことがあるはずだと思うが?」

「そ、そんなことを言うなら、ギルバートだって子供っぽい所があるじゃないの! あなたにそんなこと言われたくないわ!」

「お前より子供っぽいと言われる所があるのか? 心当たりがないが」

「だって夜寝る時にいっつも私を抱き枕にしているのだもの。私よりギルの方が甘えん坊だわ!」

「なっ……馬鹿野郎! そんなことをこんな所で言うやつがあるか!」

 

 ギルバートがちらりと背後の御者の姿を見ながら顔を真っ赤にして怒る。顔なじみの御者は気づかないふりをしてくれていたが、笑いをこらえているのか少しだけ肩が震えていた。


 ぎゃあぎゃあと言い合いする二人を乗せ、馬車はガタガタと音を立てながら王宮の方へと進んでいった。


 



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