後日談 おとぎ話のその後(前編)

 これはおとぎ話が幸せな結末を迎える前。二人が結ばれたすぐ後のお話です。



 暖かな日差しが窓を通って部屋を明るく照らしていた。海の香りをまとった風が純白のレースのカーテンを揺らし、にぎやかな町の喧騒を屋敷まで運んでくれる。

 スミレの砂糖漬けを口に運びながら、エレオノーラは今しがた聞いた話に目を丸くした。


「ハンナさんも人魚だったの? 全然わからなかったわ」

「ほほ、わたくしの髪は雪国の冷たい海の色ですからね。元々淡い色だった上にもうすっかり白くなってしまいましたから。見た目だけではわかりませんわね」

「そうなの……ハンナさんにもきっと素敵な恋のお話があったのね」

「若かりし頃の思い出ですよ。でも私はすぐに夫と結ばれてしまいましたので、薬に期限や制約があるなんて存じ上げませんでした。ましてや泡になってしまえば人々の記憶から消えてしまうなんて、なんと恐ろしい」


 テーブルに置かれたカップに紅茶を注ぎながら、ハンナがぶるりと身を震わせた。エレオノーラが泡となって消えてしまったあの一瞬だけでも自分の記憶からエレオノーラの存在が消えてしまっていたことに、彼女は少なからずショックを受けていたらしい。

 実の娘のように可愛がってくれるハンナの気持ちを考えるとエレオノーラの胸もきゅっと締め付けられるように痛む。彼女の気持ちに答えるように、エレオノーラは優しくハンナの手をとった。


「ええ、でもまたこうして出会えたんだもの。これからはずっと一緒よ」

「そうですね。いえ、老い先短い生ではありますが、このハンナ、坊ちゃまのお子を抱くまではまだまだ現役ですよ」

「人魚も子供を産めるの?」

「ええ、私達は人魚の力は残っているけれど体は人間と全く同じですからね。私の子供達も皆人の子として産まれましたよ。寿命も人と同じになります」

「そうなの……ギルは子供がほしい?」


 何気なく問うと、エレオノーラの正面に座っているギルバートがあからさまな咳払いをしてカップに口をつけた。


「お前はその意味をわかって言っているのか?」

「どういうことかしら? そのつもりだけど」

「……子供の作り方を知っているのかと聞いている」

「私は大貝から生まれたっておかあさまが言っていたけど他の子達は知らないわ。人魚は海の泡から生まれるとも、小魚達の夢から生まれるとも言われているみたいだけど」

「ならばこの話は終わりだ。今ここでするべきでものでもないだろう」


 ギルバートがピシャリと言い切る。だがその頬は微かに赤く、なぜだか照れているようにも見えてエレオノーラはキョトンと首を傾げた。何かを察しているらしいハンナはニコニコと嬉しそうに二人を見ている。

 彼が何を言おうとしたのかはわからなかったが、この優しいひだまりのような時間はエレオノーラの胸を温かくしてくれる。ずっと夢見ていた地上の生活にホウとため息をつくと、近くでプクリと泡を吐く音が聞こえた。


「シェル」

「なんだかとても嬉しそうだね、エレオノーラ。ギルバートとの生活は楽しいかい?」


 テーブルのすぐ近く、よく陽のあたる窓際に置かれた水槽の中で、サンゴの色をしたタツノオトシゴがゆらゆらと揺れていた。

 

「ええもちろんよ。だって好きな人と一緒にいられるのは嬉しいことじゃない?」

「そうだね。でも君が選んだのがギルバートだったのは意外だったかな。人魚姫は王子に恋をするものだとばかり思っていたから」

「シェルは賛成してくれないの?」

「君が選んだ人なら僕は応援するよ。でもこう言うのもなんだけど、ギルバートはあんまり情緒的なものの理解が少なそうだからなあ。剣の扱いは得意でも、女性に甘い言葉をかけたりするのは苦手そうだ」

「おい、聞こえているぞ海洋生物」


 横から鋭い一言が入る。見ると、ギルバートが苦笑いしながらこちらを見ていた。シェルがつぶらな瞳を瞬かせながらぷくりと泡を吐く。


「へえ、いつから君は人魚になったんだい? その机の下にある足はまさか尾ひれだったりするのかな」

「馬鹿なことを言うな。俺はれっきとした人間だ」

「ギル、あなたもしかしてシェルの言葉がわかるの?」

「ああ、なぜだか急にソイツの話す言葉がわかるようになった。その小さな身体からは発せられているとは思えない程の毒舌がな」

「もしかすると、坊ちゃまもウミヘビと契約したからかもしれませんね。海の精霊との賭けに勝ったことで、海の生き物の言葉がわかるようになったのでしょう」


 ハンナの言葉を皮切りに、しばし無言の時間が流れる。


「ギルバートはよく見るとかっこいいね」

「今更取り繕っても遅いからな」


 だがシェルはどこ吹く風でゆらゆらと水中をたゆたっていた。それでも二人の相性は意外と悪くなさそうだ。大切な伴侶と友人に縁ができたことが嬉しくてエレオノーラの顔も自然と綻ぶ。

 軽くため息をつきながらギルバートが席を立ち、椅子に掛けてある上着を羽織った。


「ハンナ、俺は今から城に向かう。一週間ほど留守にするが屋敷のことは任せたぞ。今回はエレオノーラも同行させるが問題はないな?」

「ええ、小さな可愛らしいおしゃべり友達もできたことですし、寂しくありませんわ」

「何かあれば馬を走らせてくれ。ではエレオノーラ、行くぞ」


 ギルバートの言葉に釣られるようにしてエレオノーラも立ち上がる。城へ同行させてもらえる嬉しさで弾むように玄関へ向かうと、ハンナが優しい手付きでショールをふわりとかけてくれた。

 剣を手に持ったギルバートがドアを開ける。眩しい日の光と共に、爽やかな朝の香りがエレオノーラを包みこんだ。



 ギルバートが護衛として主君であるエドワルドに侍るのは基本的には王子が外出する時だ。王子の外出がない日は他の騎士達と同じように城内の雑務や街の見回りなどを行い、荒事があれば片付ける。夜の警護については基本的に交代制だが、ギルバートのように王族から直々の信頼を得ている者については城内に自室が与えられていることもある。屋敷にハンナを一人残していくのもあって、ギルバートは屋敷と城内の生活を半々にしているようだが、今日のように城に来客がある日は別だ。外部の者が滞在する期間は城に泊まり込んで警護にあたる。

 今日の夕刻に隣国からの使者が来訪し、現地視察の為に一週間ほど滞在することになっていた。その期間ギルバートは夜の警護も含めてずっと城に滞在しなければならない。今回はエレオノーラもギルバートに同行し、使者に挨拶をすることを許された。


 城の中はいつも通り大勢の貴族や使用人、騎士達で賑わっていた。てっぺんが見えないほどに高い天井と均等に並ぶ白磁の柱、金で縁取られた豪奢な内装はいつ何度見ても美しい。

 ギルバートについて廊下を歩いていると、不意に肩を叩かれた。


「よぉ久しぶりだな」


 聞き慣れた声に振り向くと、そこにはキースがいた。薄鼠色の短髪に銀縁の眼鏡。城に来ている為かいつもより格式の高い服を着ている彼はどこぞの貴族と比べても遜色ないほど立派に見えた。


「こんにちはキース」

「ご機嫌よう麗しき人魚姫。その淡い桜貝の色をしたドレスもよく似合っているね。君の伴侶が鼻の下を伸ばした姿が想像できるよ、なぁギル」

「お前はなぜそういう言い方しかできないんだ。ひねくれた性根が現れているな」 

「おっと珍しくギルが照れているぞ。これは見物だな」


 あからさまに不機嫌そうな顔を貼り付けたギルバートとは対象的にキースがカラカラと笑う。


「キースはどうしてお城に?」

「僕の兄さんが王宮侍医だからね。兄さんに頼まれた薬を補充しに来たんだよ。用事は済んだから帰る所だったんだが、面白そうな二人を見つけてね。ギルは今から殿下のもとへ行くんだろう? 僕がエレオノーラをギルの自室まで連れて行ってあげようか。ついでに王宮の庭園やサロンも案内してあげよう」

「本当に? 嬉しいわ。いいわよね、ギル」

「ああ、コイツに任せるのは本意ではないが物珍しいものがたくさんあって面白いだろう。困ったことがあればキースに聞けばいい」


 エレオノーラがパッと目を輝かせると、ギルバートも鷹揚に頷いた。見知らぬ城内にエレオノーラを一人残しておくことを彼も気にしていたのだろう。キースにエレオノーラを託して安堵したのか、ギルバートが剣を握り直して先を歩き出した。

 エレオノーラもキースについて歩き出そうとした瞬間、タタッと前から駆けてきた一人の令嬢が横を通り過ぎていった。

 振り向くと、今しがたすれ違った彼女がギルバートに話しかけているのが見えた。今までに見たことのない娘だ。彼女はギルバートの前で荒い呼吸を整えると、彼に向かって手紙を差し出した。


「ギルバート様、こちらわたくしの気持ちです。どうか受け取っていただけませんか?」

「手紙だと? 公務のものであるならば然るべき手続きを踏んでからにしてくれないか」

「いえ、これはわたくしからの個人的なものです」


 令嬢の言葉に、ギルバートが微かに眉をひそめる。


「すまないが私は妻帯している。私用のものならば受け取ることはできない」

「貴方が最近結婚したのは風の噂で聞いておりますわ。でもきっと慣れない新婚生活はご負担になることだらけでしょう。わたくしに何かができることがあればと思ったのです」


 そう言いながら令嬢がチラリとエレオノーラに視線を送る。ギルバートも彼女の意図に気づいたのか眉間のシワを深くした。そんなギルバートを見て、キースが苦笑しながら頬をかく。


「ああ、あれはギルにとっては最悪手だな。人間社会のこういう部分を君に見せることをギルは一番嫌うんだ」

「お手紙を届けに来ただけじゃないの? お手伝い、がどういうことなのかわからないけど」

「まぁ君は知らなくていいことだよ。どれ、僕らが助け舟を出しに行ってやろうか」


 キースがツカツカと歩いていき、二人の間にするりと割り込む。


「こんにちは、美しいレディ。鋼鉄の貴公子にお手紙かい。でも悪いね、これは僕が預かっておくよ」

「だ、誰ですかあなたは! いきなりやってきて無礼にも程がありますわ!」

「なぁに、僕はしがない通行人の一人だよ。でも彼は今職務中だ。渡したいものがあるならあそこに彼の妻がいる。彼女に渡してやってくれないかな」


 キースの言葉に令嬢がキッとエレオノーラを睨みつける。なぜ敵意を向けられているのかわからずエレオノーラは戸惑いながらも小首をかしげた。


「ご、ご機嫌よう。ええと、彼に何か御用かしら? お手紙なら私が預かっておきますけど」

「結構ですわ」


 主人という言葉にエレオノーラが微かに頬を赤らめながら言うと、令嬢がピシャリと一蹴する。

 ギルバートの背後からぬっと顔を出したキースが令嬢からヒョイと手紙をとった。


「んじゃまぁこれは僕が預かっておこうか」

「ああっ! な、何をするんですの!」

「君には悪いけど、惚れ込んでいるのはコイツの方だからね。とっとと諦めた方が傷つかないよ」

「キース、お前は余計なことを言うな」


 キースの隣でギルバートが呆れ声を出す。だが彼の言葉を否定をしなかったことで娘は何かを察したようだ。キッとエレオノーラを睨みつけると、令嬢は足早に去ってしまった。

 

「まったく厚かましい女だったな。奥方の目の前で堂々と浮気を持ちかけてくるとは。色んな怨念がこもっていそうなこの手紙は僕がちゃんと始末しておくよ」

「悪いな、助かる」

「自分の方が上だと思っていないとこういう振る舞いはできまい。まぁエレオノーラを無名の下級貴族の娘と侮ったんだろうな。ギルが一番嫌うパターンだ。エレオノーラ、嫌なものを見たかもしれないが、君も早く忘れてしまった方がいい」

「それよりもギルの方が心配だわ。折角貴族達の上下関係から解放されたと思ったのに、まだこうやって面倒事に巻き込まれるんだもの。ギルのことはそっとしておいてあげてほしいのに」

 

 エレオノーラが憤慨して言うと、キースとギルバートが同時に毒気を抜かれたような顔をした。一拍おいてキースがにやりと口角をあげる。


「なるほど、お前がこの子を大事にする理由がちょっとわかった気がするな。だけどこれは貴族や家柄うんぬんの話ではなく、単純にギルが魅力的だということだよ」

「そうなの? ギルバートがモテるというのは本当なのね」

「はは、君が『ヤキモチ』を覚えた日には、コイツがどんな顔をするか見物だな」


 そう言いながらキースがクツクツと笑う。そんな彼に呆れた視線を送りながら、ギルバートが剣を握り直した。

 

「俺はそろそろ殿下のもとへ行く。エレオノーラ、お前は晩餐会の時間まで俺の自室でくつろいでいるといい」

「ええわかったわ。ギルも頑張ってね。私では何の力にもなれないのが残念なのだけど」


 ギルバートの力になりたい気持ちはあるものの、権力を持たないエレオノーラはせいぜい労いの言葉をかけてあげることしかできない。

 気遣うように灰色の瞳を見上げると、ギルバートがふっと表情を柔らかくした。思いがけない優しい表情にほんの少しだけ体温が上昇する。なんだかその顔に嬉しさが含まれている気がしてエレオノーラはパチパチと目をしばたかせた。

 どうしたの? と聞こうと口を開いた途端、額に柔らかいものが触れた。一拍遅れて肌に感じる甘い熱。背後でキースがヒュウと口笛を吹く音が聞こえた。  


「俺にはこれで十分だ」


 そう一言言い残し、ギルバートが踵を返して去っていく。

 ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、エレオノーラは颯爽と前を歩いていく広い背中を見送った。

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