第46話 エピローグ
太陽が登り、日の光が青い海を美しく照らし始めた。海に反射した太陽は光の粒となって水面を宝石のように煌めかせる。水平線は深い青色をしているのに、岸に近づくに連れて明るい水色に染まる海を眺めながら、エレオノーラはざばりと水から上がった。
「海を見ているのか」
振り向くと、ギルバートがこちらを見ながら微笑んでいた。水に濡れたエレオノーラの美しい、真珠のような尾ひれを見て眩しそうに目を細める。
「また人魚の姿になっていたんだな」
「うん。この方が水の中が気持ちいいの。ギルは人間の方が好き?」
「いや、綺麗だなと思って」
心を真っ直ぐに射抜いてくる言葉に、エレオノーラはほんのり頬を赤らめた。口を尖らせてプイとそっぽを向く。
「……なんだかギルバートが素直だと変な気持ちになるわ」
「逆にお前はもう少し素直になるべきではないのか?」
エレオノーラの言葉に、ギルバートが呆れた顔でため息をつく。赤くなった顔を見られたくなくて、エレオノーラは返事をせずに再びざぶんと水の中に飛び込んだ。その弾みで空中に水の粒が舞い、大理石の床をぬらす。エレオノーラは大理石で作られた水の空間を優雅に泳ぎながら、ぷうと小さく泡を吐いた。
呪いを解き、エレオノーラは人間と人魚の体を手に入れた。普段は人間の姿で生活をしているが、時折海の精霊と契約をして人魚の体を返してもらうのだ。ギルバートが屋敷の中に大きな貯水槽を作ってくれたので、エレオノーラはたまに人魚の姿に戻って水の感覚を楽しんでいる。エレオノーラはふんわりとした水のベールに包まれながら、最近の出来事を思い出していた。
あの一件の後ギルバートは爵位を返上し、ランベルトの家を正式に抜けた。代わりにエドワルドの宣言通りにギルバートは新しい領地を賜り、新しい家名を名乗ることとなった。無名の貴族になったものの、エドワルド第一王子の護衛は引き続きギルバートが担うことになり、ギルバートがその身分を望む限りはその任は解かれないことになっている。
王宮勤めは以前と変わらないが、窮屈な貴族社会から解放されたギルバートはどこか晴れやかな清々しい顔をしていた。元々彼は貴族社会でずる賢く生き抜いていくには優しすぎたのだ。
サラの家であるグレイス家とは、一度は婚約破棄になりかけた。ギルバートがランベルトの家を抜けると聞き、サラの父親から解消を申し出てきたのだ。だが正式な解消にまでは至らなかった。下級の貴族とは言え、今力をつけてきているグレイス家と手を組むのは悪いことではないと思ったらしく、ギルバートの弟が父を説得したらしい。サラの美貌に一目惚れしたという噂もあったが、最初は渋っていたコンラッド卿も最終的には受け入れたようだ。ギルバートの弟は今年十五。サラは十九。年齢的にも申し分ないと思ったサラの父親はそれを受け、了承した。
サラも初めはギルバートがランベルトの家を抜けることにショックを受けていたが、彼女も根っからの商魂を持つグレイス家の人間だ。最近ではむしろ、ランベルト家の正式な跡取りと婚約できたのは僥倖とばかりに、親子二人で外堀を埋めているらしい。
そして、ランベルトの家を抜けたギルバートは住んでいた屋敷を売り、ハンナを連れて海の見える屋敷へ移った。高台に建てられた屋敷で、眼下には青く美しい海が広がっている。エレオノーラがざばりと水から顔を出し、背後に建つ大きな屋敷を眺めていると、ギルバートが隣に立って眩しそうに建物を見上げた。
「このウェイデンの屋敷は良いな。海がよく見える」
「ウェイデン……ってなぁに? 領地の名前だったかしら」
「いや、俺の母の生家だ。俺は母の名字を正式に継いだ……無名の家系だが、これからは俺がしっかりと継いでいく。母も俺が自分の家名を残したことを喜んでくれているだろう」
「そうね。きっと嬉しいと思うわ」
地位や身分は無くなったが、どこか解放されたかのような彼の表情に、エレオノーラもふわりと温かい気持ちになる。エレオノーラが優しく言葉を返すと、ギルバートがこちらを向いてニヤリと口角をあげた。
「それには後継者が必要だぞ、エレオノーラ。無名の家を盛りたてるには、跡継ぎは一人や二人じゃ足りないかもしれん」
「きゃぁ! ギルバートったらいつの間にそんな冗談を言うようになったの!」
真っ赤になりながら慌てて水の中に潜る。その拍子に尾ひれで水面を思い切り叩くと、水しぶきが波のようにギルバートを襲った。
「うわ! 何をする! くっ……お前は本当に可愛くないな」
「ギルバートこそ、前と違ってなんだか変だわ! だって前は絶対にそんなこと言わなかったじゃない!」
慌てふためきながらエレオノーラが叫ぶと、ギルバートの眉がピクリと動く。
「お互いに素直になろうと交わしただろう。お前こそ、もう少し俺に優しくしてくれてもいいんじゃないのか」
「だ、だってギルはいつも私に意地悪なことばかり言ってたじゃない。い、いきなり変われなんて言われても無理だもの……」
顔だけを水面から出しながらか細い声で囁くように言う。実際、なぜだかわからないが、最近彼の顔をまともに見られなくなってきていた。自分を抱き寄せる腕の力強さや、真っ直ぐにぶつけてくる愛の言葉、熱を帯びた灰色の瞳を見ていると、胸がカッと熱くなってザワザワと落ち着かない気持ちになるのだ。そっと目線をあげると灰色の鋭い瞳と視線が合い、エレオノーラは慌てて水の中に潜った。
その様子を観ていたギルバートがため息を付き、水際に近付いてくる。その場で屈んだギルバートは、エレオノーラが沈んだ水面に向かって優しく声をかけた。
「エレオノーラ、すまない。俺も少し性急すぎた。色々と環境も変わってお前もまだ落ち着かないだろうしな。これからゆっくり慣れていこう。俺達はもう再び離れることはないんだから」
だが、エレオノーラからの返答は無かった。返事の代わりに、ぷくりと小さな泡が水面に湧き上がり、パチンと弾けて消える。彼女の気分を害したのかと思いながらギルバートが思わず腕を伸ばし、水面に手を触れた時だった。
突如ざばりと音がしてエレオノーラが水面から飛び出す。そのままギルバートの腕を掴むと、グイと勢いよく引っ張った。
「少し水で頭を冷やして! ギル!」
「な、何をするエレオノーラ! うわっおいやめろ!」
ギルバートも踏ん張ろうとするが、咄嗟の出来事に反応できなかったのか、エレオノーラに引っ張られるようにして勢いよく水の中に落ちる。水面から顔を出し、大きく息を吸うと、口を尖らせてプイと横を向いたエレオノーラが頬を赤らめながらギルバートを見た。
「ギルは、素直な子の方が好き?」
「いや……別にそんなことはないが」
「じゃあ、素直じゃない私のことは、嫌い?」
少しだけ拗ねたように言うと、ギルバートが一瞬何を言われたのかわからなかったかのようにポカンと口を開ける。だがすぐに破顔すると声を立てて笑った。
「なんだ、お前も可愛い所があるじゃないか」
「な、なんでそういうことを言うの! もう、そんな言い方しないで!」
「そうだな、その答えはこれでいいか?」
突如腕を引っ張られ、グイと引き寄せられる。逞しい腕で抱きしめられ、エレオノーラの心臓が大きく弾んだ。濡れたシャツに透けて薄っすらと見える肌が酷く眩しく見えてフイと目を反らすと、ギルバートの手が優しく頬に添えられた。
そのままゆっくりと唇が重ねられる。自分の唇に触れる甘くて柔らかい感触に、エレオノーラはそっと目を伏せた。自分を抱き締める腕は力強いのに、何度も重ねられるそれは驚くほどに優しかった。思わず彼の首に腕を回してぎゅっとしがみつくと、ギルバートの口づけが深くなる。今まで感じたことのない熱が体の芯を熱くして、エレオノーラの口から思わず甘い吐息がこぼれた。と同時にギルバートが腕を離し、ゆっくりと抱擁を解く。
「……ギルのキスが上手なのは、反則だと思うの」
「なんだそれは。褒めているつもりなのか」
「だって貴方にこんな一面があるなんて知らなかったんだもの! いつも無愛想で、冷たくて、女の人に全然興味がなさそうだと思っていたのに、こんなに情熱的に迫られたらドキドキしてしまうわ!」
「よく覚えておくんだな。男と言うものは本気になった女に対しては隠していた本性を見せるものだ」
そう言いながらギルバートがつとエレオノーラの頬に指を這わせる。髪から滴る水滴を指で拭うと、静かにその指に唇を落とした。その仕草がなんだか艶めかしく見えて、エレオノーラの胸がきゅうと締め付けられる。生真面目で自制心の強い顔に隠された野性的な一面を感じ取り、先程とは少しだけ違う本能がざらりと撫でられたような気がした。
「俺がどれだけお前に触れたかったかわかるか? この美しい髪も、目も、肌も、全てに触れたくてたまらなかった」
耳元で囁かれる言葉には甘い熱があった。これまで見たことのない彼の思わぬ表情にエレオノーラの心臓が急激に鼓動を打つ。水の中にいるのに、顔も体も暑くてたまらないのはどうしてだろうか。目のやり場に困ってうつ向いていると、ギルバートが笑いながらそっと頭上に唇を落とした。
「少しずつ知っていけばいい。俺のことも、お前のことも。時間はたくさんあるんだから」
頭を撫でる手が滑り降りて頬に添えられる。彼の意図を感じて顔をあげると、今度はゆっくりと唇が重ねられた。触れ合うだけの、甘くて優しいキス。気持ちのこもったその温かい感触は、かつて洞窟であの男の子がくれたものと同じだった。
どちらからともなく顔をあげて微笑み合う。海からふわりと風が吹き、花の香りと共に二人を優しく包み込んでいた。
──────
───
人魚姫の呪いは解かれ、人魚姫と王子様は自由になりました。
もう二人を阻むものは何もありません。
こうして人魚姫は、少しだけ口が悪く、少しだけ眉間にシワの寄った王子様と一緒に、末永く幸せに暮らしましたとさ。
──めでたし、めでたし。
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