第45話 その後(2023/8/31追加)

 小鳥のさえずりが森の中に響いている。暫しの間喜び合っていた二人は互いに抱擁を解いて見つめ合った。


「屋敷に戻ろう、エレオノーラ。俺達の家に」

 

 ギルバートの声が優しく耳朶を震わせる。かつてこの泉で毎度彼らとの別れを繰り返す度に寂しさを感じていたが、今はもう彼と一緒に帰ることができるのだ。そう思うと胸が震えるほどに嬉しかった。


「ええそうね、ギル。でもこの姿じゃ帰れないわ。ちょっと待ってて」


 エレオノーラの声にギルバートが腰から手を離す。自由になった体をふるりと震わせると、エレオノーラは尾ひれで優雅に弧を描きながらとぷんと海の中へ潜った。

 海の中でくるりと一回りして尾ひれをくゆらせる。そのまままるで膝を抱えるかのように体を折ると、両手を組んで海の精霊に願いを捧げた。

 

 ――海の精霊様、私に彼と一緒に暮らせる体をください。


 心の中で唱え終わるがいなや、下半身が自由になる感覚があった。そっと目を開くと、二本の白い足が海中にたゆたっている。ついにエレオノーラは人間の身体を手に入れたのだった。

 海上に顔を覗かせると、ギルバートの腕が伸びてきてそっと体を引き上げてくれた。薬の効力なのか、彼の服は一糸足りとも水に濡れてはいない。彼の灰色の瞳がエレオノーラの半身を捉え、大きく見開かれた。


「お前、その足は……」

「さっき海上へあがる時に海の精霊が私の耳元でこっそり教えてくれたの。これからは海の中で願うだけで人魚にも人間にもなれるよって」

「そうか。お前は海の精霊との賭けに勝ったんだな」


 エレオノーラの体を地上に引き上げ、ギルバートが優しく笑いながら騎士服の上着を羽織らせてくれた。エレオノーラの体をすっぽりと覆う服は、まるで彼に抱かれているように心地良い。


「でもこのままだと馬車にも乗れないわ。ギル、申し訳ないけれど着るものを持ってきてくれるかしら。私はここで待っているから」

「ああ、その必要はない。ハンナが用意してくれたからな」


 そう言いながらギルバートが指を伸ばす。彼が指した方を見やると、一本の木の下に畳んだ布が置かれていた。近寄って広げてみると、それは薄手のドレスだった。さくら貝を連想させる淡い桃色はエレオノーラの尾ひれと同じ色だ。控えめに散りばめられた小粒の真珠が陽の光を反射して、まるで祝福をしているかのようにキラキラと光る。


「ハンナさんが? でもどうして」

「その訳は帰ってからゆっくり話そう。だが少なくとも彼女はこの結末を疑わなかったようだな」

 

 ハンナと別れる際に彼女が言っていたのはこのことだったのだろう。海の精霊との賭けに勝ったエレオノーラが人間の身体を手にして帰ってくると彼女は信じてくれていたようだ。

 ギルバートが礼儀正しく視線をそらしてくれている内に滑らかなドレスに袖を通す。着替え終わって声をかけると、ギルバートが眩しそうに目を細めた。


「俺の人魚姫は美しいな」

「俺のって……そんな、ギル、いきなり恥ずかしいわ」

「いや、俺のだ。たとえ殿下が相手であってももうお前だけは誰にも譲らない」


 静かに、それでも力強く言い切るとギルバートがエレオノーラの手を取った。そのまま顔を近づけて恭しく手の甲に唇を落とす。いつもの彼と違った情熱的な振る舞いに、エレオノーラの胸がドキリと鳴った。

 幼い頃からよく喧嘩をしていたこの場所で、大人になった彼に誓いのキスをしてもらうことになるなんて思ってもみなかったことだ。伏せられた端正な顔立ちにどきまぎしながらも、胸の内に広がるのは温かく甘い喜びだった。

 ギルバートが顔を上げ、その灰色の瞳がエレオノーラの青色の瞳をとらえる。


「今から王宮に行こう。この後のことを決める為に殿下と話しをしなければならん」

「話……そうよね、私はエドワルド様の元へ嫁ぐ予定になっているんだもの。ギルバートと一緒になれるのは嬉しいけれど、このままだとあなたにもエドワルド様にも迷惑がかかってしまうわ。私はどうしたらいいのかしら」

「それについては俺に考えがある。お前は安心してついてくるがいい」


 そう言ってギルバートが優しく手を引く。頼もしい彼の言葉に押されるように、エレオノーラはギルバートと並んで森の中を歩いて行った。



 

 往来で馬車を捕まえた二人は真っ直ぐに王宮へと向かった。私的な話ということで、謁見室ではなく王子の自室に呼ばれ、部屋に入るとエドワルドが温かく出迎えてくれた。


「やぁエレオノーラ、久しいね。ギルも今日はどうしたんだい?」


 いつも通り穏やかに話しかけてくる彼に変わったところはない。一度泡になってしまったとはいえ、ギルバートがエレオノーラを連れ戻してくれたことで記憶ももとに戻っているようだ。内心で安堵しながらも、エレオノーラは椅子に腰掛けるエドワルドの前に跪いて頭を下げた。


「エドワルド様、今日はお話があって参りました。エドワルド様にとってはあまりお耳に入れたい話ではないかもしれませんが……」

「急にかしこまってどうしたんだいエレオノーラ。大丈夫、なんでも話してごらん」


 森を思わせる新緑の瞳が柔らかく弧を描き、優しい声が語りかけてくる。隣で膝をついて礼を取っているギルバートをチラリと視界に入れると、エレオノーラはぎゅっと胸の前で両手を握りしめた。


「エドワルド様、私は王宮には入りません。場を整えてくださったことには感謝しております。ですが私はやっぱりギルバートと一緒になりたいのです」

「ギルバートと? へぇ、それは僕にとっても朗報だけど、でも君はギルバートの力になれないから身を引くと言っていた気がするよ。サラの様に宮廷内で奮える権力を持たないからと」

「そこに関しては私から申し上げます」


 隣にいるギルバートが声をあげ、会話を引き取った。驚きながら振り向いたエレオノーラを見てギルバートが微かに笑う。その灰色の瞳には強い意思が宿っていた。


「殿下、私はランベルトの家を抜けます。同時に近衛騎士の称号もお返しいたします。手前勝手な要求をお伝えすることをお許しください」

「ランベルトの家を抜けるだと? それはまた急な話だな。理由を聞かせてくれるかい?」

「私は元々この身分に未練はありません。ランベルトの家名を背負ったまま彼女と婚姻関係を結べば、また口さがない貴族達の悪口あっこうに彼女を巻き込むことになるでしょう。であれば私がこの立場を捨てればいい。どちらにしろこの任はいずれ解かれる身。大恩ある殿下のもとを離れるのは心苦しいことですが、どうかご容赦いただきたい」

「ふむ、貴族の身分を捨てて平民になると言うわけか。これはまた思い切った選択だな」


 そう言うとエドワルドは何かを考え込むように顎に手を当てる。その新緑の瞳がギルバートを捉え、やがてわずかに細められた。


「ギルバート、君は自分が言っている言葉の意味がわかるかい。君は主君である僕から彼女を奪うと言うんだね。場合によっては不敬にあたるぞ」

「重々承知しております、殿下。ですが私も男です。一度決めたからには撤回するわけには参りません」


 ギルバートが顔を上げ、エドワルドの瞳を力強く見つめ返す。暫くの間その鋭い視線を真っ向から受け止めていたエドワルドは、やがてフッと相好を崩した。


「ギル、君はやっと自分の気持ちに気付いたんだね。君が決意を固めてくれて僕も安心したよ」

「それは……どういう意味でしょうか」

「僕はね、ギル、君がエレオノーラのことを愛していることをとっくに知っていたんだよ。君は随分長いこと気づいていなかったようだけど」


 言外に笑いを含んだ言葉にギルバートが目を見開く。慌てて主君を見やるギルバートの態度に、エドワルドはとうとう堪えきれずに吹き出した。


「僕もね、初めて彼女を見た時になんて美しい女の子だろうと思ったんだよ。純粋で、ひたむきで、少し寂しがりやな人魚の子。そのまま大人になったら多分僕も彼女に恋をしていたと思うよ……でもそうはならなかった。僕の従者がいつも彼女のことをずっと見ていたからね」

「殿下、それは」

「ふふ、気付いていなかったのは当人達だけだったなんて面白いね。ギル、君はね、いつもエレオノーラに冷たい態度を取っいたり、突き放した言い方をしているのに、その目はずっと彼女を見ていた。時折眩しそうに目を細めたり、慈愛に満ちた目で見つめていたり。僕も君の側にずっといたからよく知っているよ。ああ彼は彼女に恋をしているんだなと」

「それは……いえ、殿下、それ以上はもうおやめください」


 エドワルドの言葉に、今度こそギルバートの頬に赤みがさす。照れ隠しゆえに目を伏せてしまったギルバートを見てエレオノーラもクスクスと笑った。

 エドワルドが椅子から立ちあがり、ギルバートの前に立つ。

 

「ギル、今の話を聞いて僕からの勅令を伝えよう。まず君はランベルトの家を抜ける。近衛騎士としての称号も失わせる。そして君には僕からランベルトとは別に領地を与える。君は今日から母方の性を名乗ると良い。同時にこのまま騎士としての称号も与えよう。君はずっと僕専属の護衛として僕に仕えるんだ」


 エドワルドの言葉に今度こそギルバートも驚いた様子だった。片膝をついて礼をとったまま主君の方を見やる。

 騎士の称号を返上して大貴族の家を抜けるが、そのまま平民にはならずに新しく領地と騎士としての称号を与えられる。そしてその身分はエドワルドが存命である限り永遠だ。騎士とはいえ、無名の貴族であるならば政治的な駆け引きとは無縁になるだろう。これはエドワルドからの最大の恩情だった。

 歓喜に震える拳を諌めながら、ギルバートは静かに頭を垂れる。


「殿下、貴方のご厚情に感謝し、そのお役目を拝命いたします」

「ギル、これからもよろしく頼むよ」


 そう言ってエドワルドがエレオノーラに向き直る。


「エレオノーラ、君にも王国直属の航海士としての身分を与えよう。これからは僕達の航海に君もついて来られるようになる。王政には関われないし、他の貴族のように大層な権力を持つことはできないけれど、これくらいなら自在に王宮に出入りすることは可能だ。よくギルを支えてやってくれ」


 思いがけない彼の言葉に、エレオノーラの胸が歓喜でふるりと震える。顔を上げてエドワルドの顔を見ると、彼はいつものあの優しい瞳でエレオノーラを見つめてくれていた。


「エドワルド様、ありがとうございます」

「僕も君に会えなくなるのは寂しいからね。いつでも宮廷に遊びに来ておくれ」


 エドワルドの温かい言葉にふわりと胸が軽くなる。

 ようやくまた三人で笑い合える日々が来たことに、エレオノーラも心からの笑みで答えた。


 


※※※


 王宮を出た二人は、迷わずにハンナが待つ屋敷へと向かった。日は落ち始め、馬車の窓から見える海が夕日を受けて赤々と煌めいている。

 屋敷の門の前に立った時は喜びで胸が震えた。かつてギルバートと過ごしたこの場所に戻ってきたことに心が幸福感で満たされる。屋敷の扉に手をかけた瞬間、扉が開く微かな音を聞きつけたのかハンナがパタパタとホールまでやってきた。


「エレオノーラ様」


 エレオノーラの顔を一目見て、ハンナが一言だけつぶやいた。そのまま静かに歩み寄り、ゆっくりとエレオノーラを抱擁する。小さく細い老女の腕は、力強くエレオノーラの体を抱きしめてくれた。


「ハンナさん」


 彼女の腕の温もりを感じた途端、熱いものが込み上げてきてエレオノーラの目から涙がこぼれ落ちた。グズグズと年端のいかない少女のように泣いていると、ハンナの温かい手が背中をさすってくれる。ひとしきり彼女の温もりに触れて身を起こすと、ハンナは優しい表情でエレオノーラを見た後、ギルバートの方を見やった。


「ハンナは坊ちゃまならやってくれると信じていましたよ。もう一度エレオノーラ様に会えて私も嬉しゅうございます」

「彼女を連れ帰ることができたのはハンナのおかげだ。十分に感謝している」

「いいえ、これはすべて坊ちゃまの愛の大きさゆえですよ。さ、ご飯は三人分用意してありますからね。早く入ってくださいな」


 そう言いながらハンナがパタパタとキッチンへ戻っていく。その小さな背中を見守っていると、ギルバートが促すように優しく背中を押してくれた。

 喜びの感情に包まれながら、エレオノーラやっと帰ってこられた我が家へ足を踏み入れた。

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