第44話 救い
三つ目の首を斬り落とした所で、ギルバートの動きがわずかに鈍くなったように見えた。エレオノーラも不安に心を支配されそうになるが、それに耐えるかのように両手を握りしめる。ギルバートは竜の心臓を狙っているようだが、縦横無尽に動く五つの首が邪魔をして剣先を阻んでいた。
竜がギルバート目掛けて牙を剥く。竜の首を剣で受け止めたギルバートはそれを横に薙ぎ、勢いよく懐へ飛び込んだ。だが胸に剣を突き立てようとした瞬間、横から別の首が飛んできて、ギルバートの左肩に噛み付いた。
「ギル!!」
エレオノーラが悲鳴をあげる。ギルバートが一瞬苦痛で呻いたが、間髪入れずに剣を真上に振り、自身の肩に牙を立てる竜の首を切断した。抱える程に大きい竜の首を肩から払い落とすと、ギルバートは顔をしかめてまるで頭痛をこらえるかのように額に手を当てた。ここからでも彼の吐く苦しそうな呼吸がよくわかる。
「ギルバート……? 一体どうしたの?」
ギルバートの異変に気付き不安そうな声を上げると、風もないのにふわりと髪がなびいた。
──ギルバートは今、人魚姫の痛みを受けているんだよ、エレオノーラ。
「どういう……ことなの?」
──あの竜は呪いが具現化したものだ。貴女の魂に刻み込まれた悲しみが形を得て竜になり、そしてギルバートが首を斬る度にその感情が彼にも伝わる。今、ギルバートは貴女がこれまでに感じてきた苦痛を共有しているんだ。貴女の魂の悲鳴は、ギルバートにとっては自分を責めているように聞こえるだろうね。
「そんな! 私そんなこと思っていないのに!」
──君の記憶には無いかもしれないね。だが魂は記憶している。君が今までに流してきた涙のすべてであの竜はできている。
「私はどうしたらいいの? あなたは海の精霊でしょう? 彼を助けるために、私にできることを教えて!」
エレオノーラが叫ぶと、突如ピタリと声が止む。
──君がここで死ねば、竜は消える。そしてギルバートも解放される。君にできることは、これしかない。
その静かな声色は暗い海の底で残酷に響いた。
──サンゴが周りに群生しているだろう? その枝で胸を一突きすれば良い。大丈夫。君達は魂で繋がっている。君は死なない。再び眠りにつくだけだ。ギルバートが生命を終えてまたこの地に生まれ落ちる時に君も目覚めるだろう。そうしてまた恋をして、今度こそ彼と結ばれるといい。
海の精霊の声は自愛に満ちていて、エレオノーラを包み込んでくれるかのように優しく耳に響いた。自分の為を思ってくれているかのような言葉。その甘い響きに、まるで操られたかのようにエレオノーラは手を伸ばしてサンゴを折った。
今の声が聞こえていたのだろう。ギルバートが竜と距離を取りながらもエレオノーラの方を振り向いた。
「エレオノーラ! やめろ! それを捨てるんだ!」
ギルバートが怒鳴る。目の前を横切る首目掛けて刃を振ろうとするも、ギルバートがハッと息を飲み、一瞬わずかに動きが止まった。次の瞬間には竜の首が横から殴りつけ、ギルバートの体は弾き飛ばされた。剣でなんとか防いで直撃は免れたものの、衝撃でギルバートの体が数メートル吹っ飛ぶ。
「ギル!」
サンゴを握りしめたまま叫ぶと、ふわりと精霊が頬を撫でる。
──彼は
「そんな……ギル……」
何百年も繰り返される悲劇の中で気付かれなかった人魚姫の悲鳴。それと向き合うのは、ギルバートにとってもかなり苦しいことに違いなかった。
──さぁ。もう時間がないよ。時間切れになってしまえば、彼と貴女の魂はこの海に永久に留まることになる。そんなことをするより、来世で結ばれることを期待した方が良い。
精霊の言うことは正論だった。エレオノーラが座っている大貝が微かに揺れ、ぐっと二枚貝の蝶番が狭まる。もう時間が残っていないことを悟ったエレオノーラは、両手に持つサンゴをじっと見つめた。固く先の尖ったサンゴの枝は、自分の心臓をいとも簡単に止めるだろう。意を決してサンゴの先を胸に当てた瞬間、額の血を拭いながら体制を整えたギルバートがこちらを向いて灰色の瞳を丸くした。
「何をやっているんだエレオノーラ! それを捨てろ!」
「でも、このままだとギルバートが死んじゃうわ! 私にはもうこうすることしかできないもの!」
涙混じりの声で叫ぶと、ギルバートがぐっと剣の柄を握りしめた。竜に体を向けたまま、瞳だけわずかにエレオノーラの方を見る。
「エレオノーラ。俺達はお互いに間違っていた。相手のことを想って身を退くのはもう
「でも、今のままだとギルが死んでしまうわ! 私、あなたが死んでしまう所は見たくないもの!」
「俺は今世でお前と一緒になりたい! エレオノーラ、前を向け! 諦めるだけでは幸せを掴むことはできないんだ!」
ギルバートの言葉に、エレオノーラは目を見開いた。深海のような青い瞳が揺れている。その瞬間、エレオノーラの心の動きを察知したのか竜はピタリと動きを止めた。
そのまま首をゆらゆらと動かしながら静かに二人を見守っている。竜の変化に気付いたのか、ギルバートも構えていた剣をそっとおろした。
「エレオノーラ、俺は人魚姫の想いと向き合うのが苦しい。気付かぬうちに、彼女にこんな辛い想いをさせていたのかと思うと気が狂いそうだ」
ギルバートがエレオノーラに背を向けたまま静かに語り始める。彼の表情は見えない。だが、落ち着いた、諭すような声だった。
「人魚姫の想いに気づかず、彼女を不幸にしたのは俺の罪だ。だが、俺達はもう前を向かなければならない。お前が俺と一緒になることを願ってくれるのならば、俺も彼女の想いと向き合う覚悟を決める」
「ギルバート……」
「お前も覚悟を決めろ、エレオノーラ。例え俺が死んだとしても、俺はそれでお前を恨むことはない。お前の為に死ねるなら、本望だ」
低く語られるその言葉には、深い愛がこめられていた。彼の言葉に思わず涙がこぼれ落ち、エレオノーラは静かに目を伏せた。
胸に手を当てて過去へ思いを馳せる。記憶は無い。だが、魂が記憶しているであろう慟哭の叫びが胸をえぐるように刺してくる。痛くて冷たくて、胸が締め付けられるように苦しい。だが、こんな想いはここで終わりにしなければならない。
エレオノーラは目を開け、目の前のギルバートをしっかりと見据えた。自分に背を向ける彼に届くように、言葉にしっかりと想いをのせる。
「ごめんなさい。私もずっと、自分が身を退くことがあなたの幸せになると思っていたの。でも、私もきちんと言葉にして伝えるべきだったわ。勝手にあなたの気持ちを決めつけて、結果的にあなたも不幸にしていた。私も間違っていたの……ギル、ごめんなさい」
エレオノーラの胸に押し寄せるのは後悔の念。相手の為を想っていたのに、結果的に二人を不幸の道に追いやっていたのは、他ならぬ自分自身だった。
王子の罪。それは人魚姫の秘められた想いに気付けなかったこと。
人魚姫の罪。それは自分の恋を諦めてしまったこと。
重なり合わない二人の想いと共に積み重なって来た悲劇は、もうここで終わりにしなければならない。
「ギル、竜を斬って!」
エレオノーラの叫びと共に、ギルバートが剣を振るう。竜の首が切り落とされた瞬間、人魚姫の思いが洪水のようにエレオノーラの胸に流れ込んできた。
──ああ。私には王子様を殺すことなんてできない。どうしてこんな辛い選択をしなくてはならないの。
──私は消えてしまう。苦しい。苦しい。あの人は私に気付くことなく、私のすべてを忘れてしまうんだわ。
──でも、どうしても好きなの。あなたのすべてが好き。好き。大好き。あなたが笑っていられるなら、私はそれで十分に幸せだったわ。
そこにあるのは叶わぬ恋に苦しむ人魚姫の想い。だが、そこには確かに彼への愛情があった。ギルバートもそれを感じ取ったのか、少しだけ表情が和らぐ。
大貝が揺れ、ぐぐっとまた蝶番が狭まった。だが、エレオノーラはもうサンゴを掴むことは無かった。
「ギルバート、私あなたと一緒になりたい」
語りかけるように、それでもしっかりと声に出して告げる。ギルバートは振り向かなかった。だが、彼が微かに笑った気配が空気を通して伝わった。
ギルバートとエレオノーラの心が同じ方向を向いた瞬間、突如竜の動きが止まった。残っていた一本の首は、ゆらゆらと動きながらギルバートの方へ伸びていき、まるで差し出すかのように頭を垂れた。ギルバートが剣の柄を握りしめ、竜に向き直る。竜は黙ったまま首が斬られるのを待っていた。──今度こそ幸せになりなさい、そう竜が言っているように聞こえた。
静かに首に刃をあて、一息に薙ぐ。数秒の沈黙の後、竜の首が胴体から離れ、そして地響きを立てて地に落ちた。サラサラと砂塵になって消えていく呪いの化身と共に、人魚姫の想いが風となって心に吹いていく。
──私の気持ちを知ってくれて、ありがとう。
最後に残ったのは感謝の言葉だった。それは人魚姫だけでなく、これまでたくさんの涙を流してきた多くの人魚達の声にも感じられた。
剣を鞘に収めたギルバートがゆっくりと大貝に近付き、エレオノーラの側で膝をつく。
「終わったな。帰ろう、エレオノーラ」
「うん、ギル……ありがとう」
目に涙をためながら、両手を伸ばしてすがりつく。
「私を見つけてくれてありがとう」
涙混じりの声で言うと、返事の代わりにギルバートが力強く抱き締めてくれた。重なり合う互いの心臓の音を聞きながら、二人は長いことそうしていた。
やがてギルバートの腕の力が緩み、ゆっくりと抱擁が解かれる。はにかみながらうつむくエレオノーラの手を取り、ギルバートは遥か彼方の海上を見上げた。
「そろそろ薬の効果が切れるかもしれん。しかし……どうやって上へ戻れば良いんだ」
「上に行けば良いのね? それなら私につかまって」
エレオノーラの言葉に、ギルバートが少しためらいの表情を見せた後控えめに腰に手を回す。そのぎこちない動作がらしくなくて、エレオノーラはクスクス笑った。
光がわずかしか届かない海の底は夜のようで、海底に広がる真珠がまるで夜空に瞬く星のように白い輝きを放っていた。エレオノーラは尾ひれをくゆらせて海底に広がる夜空を背に、どんどんと水面を目指して上がっていく。上に行くにつれて、海の色もまるで夜明けのように深い青から薄い水色へと変わっていく。色とりどりの魚たちがゆったりと海中を横切っていき、彼らが吐く泡が光を反射してシャボン玉のように虹色に輝いていた。
ざばりと大きな音を立てて海中から顔を出すと、太陽の光が優しく二人を照らし出した。ギルバートが不思議そうな顔をして辺りを見回す。
「ここは……」
「いつもの場所ね、私達の秘密の場所」
エレオノーラも優しく微笑む。そこはかつてエレオノーラがエドワルドやギルバートと会っていた場所──静かな森に囲まれたあの泉だった。静謐な空気が鼻孔を通り、あたりは静寂に包まれている。
水の中に浸かったまましばらくぼんやりと辺りを見つめていたが、ずっと抱き合っていることに気が付き、エレオノーラはハッとして腕を解いた。お互いに思いを告げたとは言え、今はまだなんとなく気恥ずかしい。彼の顔を見られなくて下を向くと、突如ぐっと抱き寄せられた。
「ギル……んっ」
呼びかけた声は押し付けられるそれによって塞がれる。様々な想いが込められたその口付けは切ないほどに優しく、そして甘く温かかった。咄嗟に身動ぎすると、もう離さないと言わんばかりに腕にぐっと力が込められる。エレオノーラも早鐘を打つ心臓を抑えながら、静かに目を伏せて愛に溢れるそれを受け入れた。
顔を上げたギルバートが笑いながら優しく唇をなぞってくれる。
「エレオノーラ……約束する。もう二度とお前を手離さない」
「私もよ、ギルバート。私ももう貴方の側を離れないわ」
嬉しそうに告げ、エレオノーラは手を伸ばしてもう一度彼の胸に飛び込んだ。
ピチチ……と鳥の鳴く声が聞こえる。天から注ぐ温かい日の光が、二人を厳かに祝福していた。
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