第43話 戦い

「ハンナ、キース、礼を言う。後は俺一人の問題だ」


 剣を握り直しながらギルバートが静かに告げると、隣にいるキースがニヤリと口角をあげてギルバートの腕を小突いた。


「無事に帰ってこい。どの令嬢にもなびかないと宮廷で噂されている近衛騎士様を射止めた人魚姫を僕も見てみたいからな」

「良いように言っているがキース、お前自身が人魚の研究をしたいだけだろう」

「へえ、僕のことをよくわかっているじゃないか」


 悪びれもせずにシレッと言ってのけるキースにギルバートは呆れた視線を向けた。だがその言葉に激励が含まれていることは知っている。今は記憶を失っているが、あの嵐の日、陸にあがったばかりのエレオノーラを助けてくれたのは他でもないこの悪友なのだ。皆で食卓を囲んだあの陽だまりのような時間を思い出し、ギルバートも静かに胸中で決意する。エレオノーラを救い、あの時間をまた共にしたかった。

 キースの後ろに控えていたハンナが前に出てそっとギルバートの手を握った。


「坊ちゃま、ハンナはいつだって坊ちゃまのお帰りをお待ちしております。無事に戻られた際には、貴方の思い出の場所へ向かってくださいませ。坊ちゃまならきっと意味がわかるはずです」

「思い出の場所? 森の中の泉のことか。なぜハンナがそこを知っている」

「ほほ、坊ちゃまの行動は全てお見通しですよ。と言いたい所ですが、あそこは唯一海と陸が繋がっている場所ですからね、可愛い小さな人魚姫と秘密の逢瀬を重ねるならそこしかないはずです」


 言いながらハンナがコロコロと笑う。そういう彼女も遠い昔、まだ人魚だった頃に愛する人と色々な時間を重ねてきたのだろう。エレオノーラを連れて帰ると信じてくれているハンナの優しい気持ちに感謝し、そのシワだらけの手をしっかりと握り返すと、ギルバートは無言で洞窟の方へと歩いて行った。



 崖をくり抜いたようにポッカリと口を開けるその場所は、昔とほとんど変わっていなかった。遥か昔に彼女をかくまったこの場所に来るのはあれ以来だ。懐かしい空気を感じながら、ギルバートは洞窟の中に足を踏み入れた。

 洞窟の中は暗かった。だが、入り口が大きい為かそこから日が差し込み、中の様子がわかるくらいには視界がハッキリしている。奥に行くに連れて辺りはだんだんと暗くなり、手探りでないと進むのが困難な状態になっていく。灯りを持ってくるべきだったと後悔するも、時間に限りがある以上先に進むしかない。

 どんどん視界が狭まっていき、光が完全に消えたと共にそこは闇一色の世界となった。墨を流したかのような黒の空間。そこにあるのは、音も色も何もない無の世界だった。だが、ギルバートは臆することなく一歩一歩前へと進んでいった。


 黒い闇はまるでかつての自分の心の中に迷い込んだようだった。少年の頃の自分の世界はまさしくこの闇の空間と同じだった。夢も希望もなく、誰からも愛されず、絶望の中をひたすら前に進んでいた。唯一すがっていた、後継者としての期待という光も、弟の存在によってかき消されてしまった。存在すら否定され、もう死んでしまおうかと思った時に出会った光が彼女だった。

 自分はずっと彼女を自由の象徴として憧れの眼差しで見ていたと思っていたが、自分の本心を知った今、それも多分間違っていたことに気付いた。

 おそらく、自分はあの瞬間に彼女に恋をしたのだ。また明日も彼女に会いたいと思う、そのささやかな願いが自分をずっと生かしていた。いつも眉間にシワを寄せて笑うことができなかった自分の代わりに、くるくると表情を変えてくれる彼女の笑顔がとてつもなく愛らしくて、いとおしかった。

 光を通さない世界を歩きながらも、ギルバートはふっと微笑んだ。どちらにしろ使い物にならない目を閉じて、静寂の中を歩いていく。闇の世界は怖いものではない。そう。いつだって闇の中に光を差し伸べてくれるのは彼女の存在だから──


 ぴちょん、と水が反響する音が響き、ギルバートは目を開けた。初めに視界に映ったのは、美しいほどまでに青く透き通った光だった。急な光源に一瞬顔をしかめるが、頭上を見上げて光の正体に合点する。

 そこは洞窟の最深部だった。目の前に広がるのは青い海。そして、天井部は雨で崩れ落ちたのか大きな穴がポッカリと空いており、そこから日の光が静かに洞窟の中を照らしていた。天からの光が海に反射し、青い光の柱となって仄暗い空間に浮かび上がる。幻想的とも言えるほどに美しく、そして静謐な空間だった。

 ギルバートはその光景に暫し見とれていたが、やがて意を決したかのように小瓶の中の液体をぐっと一息に呷った。何の味もしない、ただの水のようだったが、これで契約が成立したのだろう。

 ギルバートはもう一度海を見据えると、剣を握り直し、静かに水の中へ入っていった。

 ザブザブと水を掻き分けながら海の中心──青い光の柱が出ている場所へ向かって進む。奥に行くに連れて深くなっているのか、歩を進めるに連れてだんだんと体が水に沈んでいった。だが不思議なことに、水圧によって衣服が肌に張り付くような感覚はない。水面が顎の下まで来ると、ギルバートは意を決して海の中へ全身を沈めた。


 底はかなり深かった。ゆっくりゆっくりと落ちていく体に身を任せながら海の底までたどり着く。足が地についた後、ギルバートはゆっくりと手足を動かしてみた。海の中にいるはずなのだが、水の抵抗はなく、地上と同じように手足を動かすことができる。まるでギルバートがいる部分だけ、別の空間に切り取られたようだ。これが海の精霊の力なのかと不思議に思うも、地上と同じように動けるのはかなりありがたかった。ギルバートは剣を腰につけると、前に進んで歩きはじめた。

 海の底は、また地上とは違った神秘的な空間だった。太陽の光が僅かにしか届かないその場所には、薄赤色の輝きを放つ珊瑚が群生し、珊瑚の森に守られるかのように巨大な二枚貝が口を開けていた。大貝から生み出される真珠が開いた貝の口から溢れだし、暗い海底の中に夜空の星を思わせるように散らばっている。ギルバートは大貝に向かって歩を進め、中を覗き込んで微笑んだ。


「エレオノーラ」


 優しく語りかける。幸い、声も地上と同じように発することができた。

 エレオノーラは眠っていた。大貝の中で両腕を添え、丸まるように横向きで目を瞑っていた。真珠とさくら貝の色の尾ひれはなめらかで美しく、スヤスヤと眠る姿はあどけない子供のようだ。大貝が生み出す真珠があたりに散らばり、まるで貝が大粒の涙を流して泣いているようにも見えた。

 ギルバートは手を伸ばして、そっと柔らかい薔薇色の頬に触れた。親指で優しく唇をなぞり、じっとその姿を見つめる。屈んでそこに自身の唇を重ねると、ゆっくりと青い目が開いた。


「ギル……?」

「迎えに来た、エレオノーラ」


 優しく微笑むと、エレオノーラが両手をついて身を起こした。不思議そうな顔でまじまじとギルバートの顔を見ているエレオノーラを、両腕を伸ばしてぐっと抱きしめる。


「エレオノーラ、俺が間違っていた。今度は俺がお前を幸せにする。だから俺と一緒に地上に来てくれ」


 ギルバートの力強い言葉に、エレオノーラも手を伸ばしてその大きい背中に手を回す。彼の温もりを感じた途端、ずっと求めていた熱を感じてエレオノーラの目から涙がこぼれ落ちた。


「ギル、私もごめんなさい……。やっぱり私もずっとあなたと一緒にいたい」


 ポロポロと真珠のような涙を流しながらエレオノーラがギルバートの首にすがりつく。ギルバートも腕に力をこめて、その小さな体を抱きしめていた。

 そのまま二人で長いこと抱き合った後、ギルバートが腕を緩めた。上着の内側に手を入れ、真珠のイヤリングを取り出す。驚きに目を見張るエレオノーラに優しく微笑むと、ギルバートはそれをエレオノーラの耳につけた。


「これはお前に持っていてほしい」


 いつもの気難しい顔ではなく、愛おしげな優しい表情だった。エレオノーラが涙をぬぐって頷き、ギルバートの手を取った時だった。


 突然地割れのような轟音と共に大地が震えた。ハッとして音がした方を見ると、濛々もうもうとした砂塵さじんが海の水に撹拌かくはんされて砂嵐のようになっていた。腹に響くような重たい音と共に地面に散らばる真珠がパキリと割れる。見ると、砂塵から鱗に覆われた巨大な足が覗いていた。

 ざっと砂嵐が晴れたと同時に現れたのは、八つの頭を持つ竜だった。全身を黒光りする鱗に覆われ、ギラギラと光る十六の金の瞳が舐め回すように二人を捉える。ギルバートがエレオノーラを庇うように前を出て剣を引き抜いた。


「なんだこれは!? この海の主か!?」

「わからない! こんな生き物、今までに見たことがないわ!」


 エレオノーラも悲鳴を上げる。実際、何年もこの海で暮らしていたが、海底にこんな生物がいるのは見たことも聞いたことも無い。震えながら見ていると、鈴の音のような澄んだ声が厳かに響いてきた。


 ──それは貴女の魂と海を縛り付ける呪いの化身。それを斬らぬ限り貴女の魂は解放されない。


 誰が発した言葉なのかはわからない。だが、その声はギルバートにも聞こえていたようで、彼は剣をぐっと握りしめたまま歯噛みした。


「要するに、あれを斬らなければ呪いは解けないと言うことだな」


 ゆらりと八つの首が思い思いに動く。そのうちの一つの首が、カッと目を光らせたかと思うとギルバート目掛けて襲いかかってきた。間一髪で避け、そのまま斜めに剣を奮う。刃先が竜の首にあたり、太い首がゴトリと落ちた。


「なんだ? 意外と呆気ないな」


 拍子抜けしたかのようにギルバートが目を丸くする。呪いが具現化した存在だからか、竜の首を斬っても血が出ることはなかった。落ちた首はそのままサラサラと砂塵になって水に溶けていく。このまま他の首も切り落とそうとギルバートが剣を握り直した時だった。


 ──悲しい。とても悲しいわ。


 耳の奥で響く誰かの声。先程の鈴の音のような声とはまた違った、どこか聞き慣れた、懐かしい響きの声だった。咄嗟にエレオノーラの方を振り向くが、彼女には聞こえていないようで、怯えた目で竜を見つめている。

 一瞬彼女に気を取られていたが、背後に身を震わせる殺気を感じてギルバートは反射的に後方へ跳躍した。

 同時に目の前で竜の牙が地面をえぐる。鈍く光る二本の白い歯は容易く地面を貫通し、辺りに轟音を響かせた。間髪入れずにその首をはねると、黒い鱗に覆われた首が薙いだ方向へ勢いよく飛んだ。


 ──貴方はどうして私に気がついてくれないの?


 またしても耳の奥で声が響いた。今にも泣きそうな、悲しい声。声の正体が誰なのか考える間もなく真横から殺気が放たれ、そちらに目線を向ける前に剣を振るうと、刃が肉に沈む感触と共に、胴体から切り離された首が地面に沈んだ。


 ──王子様、気付いてください。私は貴方のことが好きなんです。


 その言葉を聞いた瞬間、ギルバートの心臓が跳ねあがった。その哀しい声の主が誰なのかを、彼は知ってしまった。

 王子様に涙ながらに訴える悲しい乙女の声。


 竜の首を斬る度に、かつての人魚姫の心がギルバートの耳に響いていた。

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