第42話 海へ

 キースの診療所を出た二人は、そのまま真っ直ぐにギルバートの屋敷へと向かった。出迎えたハンナはギルバートの隣にいるキースを見て目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「キース様、随分とご無沙汰しておりました。以前にお会いした時はまだ可愛らしい少年の頃だったと記憶しておりますが、時が経つのは早いものですねぇ」

「ありがたいことに、兄のおかげもあってか診療所の方がなかなか繁盛していてね。ずっと沙汰をしていてすまないと思っていたんだ。久しぶりの再会で申し訳ないが、実は貴女に聞きたいことがあって来た」

「あらまぁ。こんな老いぼれに何かわかることがあるのかしら」


 ニコニコと微笑みながらハンナは屋敷の中を案内し、ソファに座ったキースとギルバートにお茶を運んできてくれた。カチャリとテーブルの上にカップを置いたハンナは盆を持ち、ソファの隣に立つ。


「それでキース様、お話と言うのは」

「僕もギルもあまり話術は得意ではないからな。単刀直入に質問させてもらうぞ。ハンナ、あなたは元は人魚だった人間なのではないか?」


 キースの言葉に、ハンナが微笑む。さすがはよく躾けられた使用人だ。だが、彼女が微かに動揺したのが空気を通して伝わってきた。


「どういうことでしょうか? おっしゃる意味がわかりませんが……そもそも、人魚が人間になれる話なんて聞いたことがありませんわ」

「ハンナ、すまない。だが大切な話なんだ。ハンナにはよく意味がわからないだろうが、俺が愛した女の子を救う為だと思って聞いてほしい」


 ギルバートが会話を引き取り、ハンナを真っ直ぐに見据える。


「ハンナ。貴女には記憶が無いだろうが、実はここに海からあがった人魚の女の子が住んでいたんだ。貴女は彼女の面倒をよく見てくれた……彼女が踵の高い靴を履こうとした時に、それは足をくじくと言って貴女は別の靴に代えさせていた。あの時、骨折するとなかなか治らないというようなことも言っていたんだ。俺はそんな靴を履いたことがないからわからないが、踵の高い靴を履いて足をくじくことはあっても骨折するというのはあまり聞かないように思う。ということは、あれはあなたの実体験が元になって出た言葉ではないか?」

「あらまぁ坊ちゃま。わたしだって若い頃はお洒落くらいしますわよ」

「ずっとランベルトの家で使用人をしていた貴女が踵の高い靴を履いている所を俺は見たことがない。だが、確かにこれだけの情報で人魚だったと決めつけるには早計だ。だからもう、俺は貴女に力を貸してくれと頼むしかない」


 そう言ってギルバートは両膝に手をついて頭を下げた。


「ハンナ、俺が唯一愛した女の子なんだ。俺はもう一度彼女に会いたい。頼む、俺に力を貸してくれ」


 頭を下げながら低い声で懇願する。ハンナは微笑みながらギルバートの話を聞いていたが、彼が話し終えると静かに目を閉じた。暫しの沈黙の後、ハンナがゆっくりと目を開ける。ほとんど黒に近いが日の光を受けて鮮やかな色を放った。


「あの小さくて可愛かった坊ちゃまが立派な男になったものですねぇ。可愛いあなたにそんな大切な人ができたのであれば、私が協力しないわけにはいかないでしょう」

「ハンナ!」


 パッと顔を上げて彼女の顔を見ると、ハンナは優しい目でこちらを見ていた。その温かい眼差しは慈愛に満ちており、母親の姿そのものだった。


「かと言って私はもうただの老人。私にできることなんてあるのかしら」

「それについては僕に考えがある。まずは目的地まで急ごう。話はそこに着いてからだ」


 キースがやや慌て気味にソファを立つ。確かにエレオノーラが消えてからいくらか時間が経過している。彼女の魂がまた眠りにつく前にウミヘビと契約をしなければならないと判断した三人は、急いで屋敷を出た。



※※※


 馬車の中では、ハンナの昔話を聞いた。ここより随分と遠い海で生まれたハンナは、船に乗った商人の一人に恋をした。彼と一緒になりたかったハンナはウミヘビに頼んで海の精霊と契約し、人間の体を手に入れて地上にあがったらしい。幸い思いを遂げて夫婦になった二人は、子供達と共に睦まじく暮らしていた。亭主となった男はやまいで早世してしまったが、亡くなる前に取引のあったランベルト家の当主に頼んで乳母として雇ってもらったらしい。実子の独り立ちを終えたハンナは、ギルバートのことが可愛くて仕方なかったと笑っていた。


「坊ちゃまは昔から聡明でとても愛らしいお子でした。だからこそ、生家で不遇な目に遭っているのが可哀想で……私の子供達はそれこそやんちゃに子供らしく育っていたのに、坊ちゃまはいつも悲しそうでした。口は固く結ばれていて何かに耐えているような表情が私も見ていてとても辛くて……」

「俺はハンナの存在に救われていたよ。あの家で、貴女だけが俺を愛してくれていた。俺が父に殺されかけた時も、助けてくれたのはハンナだったな。あれは人魚の力だったのだろう?」

「人魚の血は薬になると聞いたことがありましたからね。一か八か試してみて正解でした。もう私、あれ以来旦那様も奥様の事も許せなくて。坊ちゃまと一緒にお屋敷を出る時は清々したものですよ」


 ハンナが口元に手を当ててホホホと笑う。だが、すぐに真顔になってじっとギルバートを見つめた。


「でも、ある日を境にして突然坊ちゃまの顔が穏やかになったんです。辛い境遇であることには変わりなかったのですが、なんというか心の拠り所になるものを見つけたのだろうと思っていました。まさかあなたが恋をしていたなんて」

「ハンナ、キースがいる前ではやめてくれ」


 ニヤニヤ笑っているキースをギルバートが肘で小突く。だが、懐から取り出した真珠のイヤリングを手のひらに置いて眺めると、ギルバートはふっと息を吐いた。


「いや否定することではないな。俺は多分最初に会った時から彼女のことが好きだったんだ。だから今度こそ自分の気持ちに素直に向き合いたい」


 真珠のイヤリングをぐっと握りながらギルバートが静かに言う。ギルバートの隣に座るキースが大きなため息を付いた。


「僕はそのエレオノーラという女の子を知らないが……話を聞いている限り、ギル。お前みたいに頑固で堅物で生真面目すぎる男に必要なのは、一緒に戦ってくれる女じゃなくてお前の心に寄り添ってくれる女の子だよ」

「そうだな……お前の言う通りだよ」


 珍しく素直に昔馴染みの言葉を受け入れると、ハンナが微笑みながらコロコロと笑った。



 馬車は海の近くで停車した。エレオノーラと出会い、そして彼女が消えていった海だ。三人で砂浜に降り立ち、波打ち際までたどり着くとキースが口を開いた。


「ハンナ。貴女は元人魚ならばウミヘビと話ができるだろう。ウミヘビを呼び出して、海の精霊と契約できるように取り計らってくれ」


 キースの言葉にハンナは頷き、波打ち際で泳いでいる小魚を見つけると屈んで話しかけた。


「海の中に行ってウミヘビを呼んできてちょうだい。あなたにとっても悪い話ではないと言うのも忘れずに伝えてね」


 キースの言うとおりにハンナが指示を出す。小魚は了解したようにとぷんと軽く跳ねると、スイと泳いで海の中へ消えていった。


 そこから暫く時間が経った。静かな浜辺は波が寄せる音しか聞こえない。もしかすると小魚はウミヘビの元へたどり着けなかったのではないかと心配していると、突如海の中に小さな渦ができた。人一人が入るくらいの大きさの渦だ。成り行きを見守っていると、渦がピタリとやみ、中からウミヘビが半身を出した。


「私を呼び出したのは誰だ」


 低い声が響き渡る。少しだけ声に不機嫌さが混じっていた。黒と白のまだら模様の体はテラテラと光っており、爬虫類を思わせる金色の瞳は三人を鋭く睨みつけている。ウミヘビは三人をギロリと見回し、ハンナの濃青の瞳を見るとチロリと赤い舌を出した。


「呼びつけたのはお前か、老婆よ。私に何の用だ」

「ああ、そこから先は僕が代わろう」


 キースがずいと前に出て後を引き取る。


「滑らかな体を持つ美女よ、今から海の精霊と契約させてくれないか?」

「私に何の理由があってお前の為に契約を結ばねばならんのだ」

「貴女にとっても悪い話ではないですよ、レディ。貴女の一族は大貝から生まれる人魚を育てる義務があるらしいが、……そうだよな? 間違っていたら教えてくれよ、ギル」

「確かその内容で間違っていないはずだ。エレオノーラがそう言っていた」

「エレオノーラ?」


 ウミヘビが彼女の名前に反応する。ギルバートはハッとしてキースの前に身を乗り出した。


「貴女はエレオノーラを知っているのか。貴女は彼女の記憶を失っていないんだな」

「記憶? ああそうかい。やっと理解したよ。あの子は人間になれずに消えたんだね」

「彼女のことを覚えているんだな?」

「そうさね。我々が契約を結んだからなのか、泡になって消えた人魚のことは我々の記憶に残っている。今まで一度たりとも帰ってきたことはないがね。今回もまた失敗か」


 ウミヘビが面倒くさそうに息を吐く。数百年後にまた大貝から生まれる人魚を育てなければならないのか、という気持ちが如実に現れていた。


「僕の仮説が正しければ、今から僕達が行う契約で貴女達もその責務から解放される可能性がある。どうだい? 悪くない話だろう?」

「大貝から人魚が生まれなくなるということか?」


 ウミヘビの金色の瞳が丸くなる。確かにこの話は彼女に取っても耳寄りな話だったようだ。顎に手を当てて暫くの間考えていたウミヘビは、了承したように頷いた。


「良かろう。これを持っていろ」


 そう言ってウミヘビは首に下げていた小瓶を外してギルバートに渡す。


「では、これより契約を始める。お前の願いを口にしろ」


 ウミヘビの言葉に、ギルバートがぐっと小瓶を握りしめる。契約の内容は馬車の中でキースに指示を受けていた通りだ。

 ギルバートは大きく息を吐いて決意を固めると、ゆっくりと口を開いた。


「大貝に眠る人魚姫にかけられた呪いを解きたい。対価は……俺の命だ」

「よかろう」


 ウミヘビが目を閉じて暫しの間沈黙する。彼女はどうやら精霊の声を聞いているらしかった。


「確かにこの海に縛り付けられた人魚姫の魂を解放するには、お前の命を天秤にかけることが必要だ。だが失敗すればお前の魂もこの海に取り込まれ、二度と地上で生を受けることがなくなる。それでも良いのか?」

「望むところだ」


 ギルバートが言い放ち、ズイと小瓶を差し出す。願いは聞き届けられた。突如空中にキラキラと淡い水色のもやが浮かんだかと思うと、しゅるりと小さな竜巻になって瓶の中に収まる。瓶の中には、水色の液体が入っており、とぷんと軽い音を立てて揺れていた。


「精霊からの声を伝えよう。その薬を飲めば、お前は海の中で自由に動くことができる。ただし、期限は大貝の蓋が閉まるまでだ。今まで期限を迎える前に命を断っていた人魚姫は、今回初めて命の期限を迎えた。本来であれば魂は眠りにつくはずだが、消える間際の口づけで時間にズレが生じているようだな。お前に残されているのは、そのズレで生じた時間だけだ。貝の蓋が閉まった時、人魚姫はまた王子がこの世に生まれ落ちるまで眠りにつく。もしも彼女の魂と結びついているお前が失敗して命を落とせば、お前の魂は永遠に海でさまよい、大貝の蓋が開くことは二度とないだろう」


 ウミヘビの声が響く。かなり重い条件だった。だが、数百年に亘って何度も繰り返されて来た呪いを断ち切るには、これくらいのリスクを負う必要があるのだろう。ギルバートは小瓶を握りしめながら力強く頷いた。


「了承した。契約は成立だ」

「では向こうにある洞窟へ行け。あそこは海と繋がっている。そこから海へ入るんだ」


 ウミヘビが指し示す方には、かつてギルバートがエレオノーラを匿ったあの洞窟が見えていた。

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