第37話 自覚(2023/08/08加筆)
そうこうしている内に夜会はお開きとなり、招待客達も帰って行く。エレオノーラもエドワルドに手を引かれてホールから出た。
背後から好機の目が追ってくるが、今はそんなことなどどうでも良かった。
「エドワルド様、これからどこに行くのですか?」
「僕の部屋だよ。君は今日は僕の寝室で寝るんだ。ああ心配しないで。君に手を出すつもりはないからね。こうやって君と僕の仲の良さを貴族達に見せておくことが重要なんだ」
「はい……あの、ギルバートはどこにいるのでしょうか」
夜会がお開きになってから、役目を終えたギルバートの姿も見えなくなっていた。両手を胸の前で組みながらおずおずと尋ねると、エドワルドが優しく微笑む。
「ギルのことが心配なんだね。そうだね、彼は今王宮内の自室にいると思う。行ってあげてくれるかい」
「はい……あの、ではここで失礼いたします」
ペコリと頭を下げ、ドレスの裾を両手で持ち上げながらエレオノーラは足早にその場を去った。
ギルバートの自室は、以前王宮に来た時に知っている。階段を降りて広く長い廊下をいくつもいくつも通り過ぎると、見覚えのある扉にたどり着いた。
扉の前で大きく深呼吸をしてコンコンと軽くノックをする。すぐに扉が開き、ギルバートが驚きの表情で出迎えた。
「エレオノーラ、どうしたんだ? お前は殿下の自室で寝るはずだろう」
「あの、ちょっとだけギルと話したくなったの。でもごめんなさい、こんな遅い時間に来るのはやっぱり迷惑よね」
「いや、いい。入ってくれ」
そう言ってギルバートが扉を開けて中に誘ってくれる。部屋の中に入ったエレオノーラは、ギルバートに差し出されたイスの上に行儀よく座った。
ギルバートもやっと長い任務から解かれたのか、騎士服を脱いで簡素なシャツとズボンだけになっている。
「しかし、お前が俺と話したいだなんて珍しいな。今日の夜会で何か思うところがあったのか」
「いいえ、夜会自体は楽しかったの。だけど、あの、ギルのことが心配になって……」
「心配? なんのことだ」
「だってあの人達、ギルに意地悪なことばかり言うんだもの。ギルのことを褒めている人もいたけれど、貴方はちっとも嬉しくなさそうだったし」
「それで俺が傷ついていないか気にしてくれたのか? なんだ、お前は意外と心配性なんだな」
「心配もするわ! 皆酷いもの。ギルが悪者をやっつけてくれたから平和な王室になったのに、ギルのことを悪く言う人ばっかりで」
「気にするな。こういうことは慣れている。今に始まったことじゃない」
「慣れるのもおかしいわ。どうしてギルは正しいことをしたのに悪口を言われなければならないの? 私には信じられないわ」
エレオノーラが憤慨して言うと、ギルバートが微かに笑った。そのまま手を伸ばしてエレオノーラの頭に手を乗せる。
「エレオノーラ、お前の気持ちはありがたく受け取っておこう。だが味方がいないわけではないんだ。俺の側にはハンナもキースもいる。もちろん、お前もな」
そこでギルバートは言葉を切った。逡巡するかのように一瞬視線を彷徨わせた後、おもむろに口を開く。
「……今だけじゃない。本当は昔からお前の存在には救われていた。思うがままに生きるお前は俺にとって自由の象徴だったからな」
「いつも意地悪ばかり言ってきたのに?」
クスクスとからかい混じりに言うと、ギルバートも釣られて口角をあげる。
「俺のことが嫌いになれば、お前はこちらの世界に来たがらないと思っていたんだ。そうすればお前のことを守れると思っていた」
幼い頃はわからなかった彼の振る舞いの真意がするりと心に流れ込んでくる。
彼が昔から冷たかった理由。それは
ふと視線をそらすと、窓の外から漆黒の闇をまとった空が見えた。星を散りばめた夜空は海の底のように美しい。だがエレオノーラは知っていた。月が自らの姿を隠してしまう夜は泣きたくなるほど寂しくて心細いことを。
――ギル、もう帰ってしまうの?
――もうすぐ暗くなる。今日はもう帰らないと。
――そう。でも私、寂しいわ。
――仕方がないだろ。俺達は海に住む生き物じゃないんだから。
幼い頃に顔を合わせていた森の中の秘密の場所。多忙で外出もままならないエドワルドに代わって、ギルバートは一人でもよく足を運んでくれていた。会えば喧嘩ばかりしていた間柄だったが、彼が帰ってしまう時はとても寂しかった。暗い海底に一人で戻らなければならないことが何よりも辛かった。
だが、なぜだかそういう日に限って、次の日ギルバートは何かと理由をつけて朝から来てくれたりするのだった。
――袖についていた金ボタンを失くした。多分ここで落としたと思うから、お前も一緒に探すのを手伝ってくれ。
口を尖らせながらぶっきらぼうに告げる幼いギルバートの姿が脳裏に蘇る。突き放すような言い方をされることもあったけれど、エレオノーラが本当に悲しんでいる時に側にいてくれるのはいつもギルバートだった。
ずっとエドワルドを好きだと思っていたが、実際に地上にあがってみて感じた違和感の正体が今やっとわかった。
(私、多分本当はずっとギルバートのことが好きだったんだわ……)
大人になって地上にあがり、エドワルドの側にいることができるはずなのに今ひとつ関係を進めることができなかった理由。ギルバートが優しい言葉をかけてくれる度に胸がザワザワと波打つのは、もうずっと前からエレオノーラも無意識下でギルバートに惹かれていたからなのだろう。
「そうね。ギルバートは昔から私のことを大事にしてくれていたわ」
目を閉じて静かに告げる。
彼の思いがけない告白にほんの少し体温が上昇したが、その思いが友人としての言葉なのか想い人に対する言葉なのか明らかにするのはやめた。
ギルバートが顔をあげ、微笑で返す。
「エレオノーラ、お前の心遣いに感謝する。だが嫁入り前の令嬢が男の部屋にいてはならない。俺が殿下の部屋まで送っていこう」
「そう……よね。でももう少しいてはだめ?」
「だめだ。ここは人の目がある。話があるならまた屋敷に戻った時に聞こう」
そう言ってギルバートが優しくエレオノーラの背中を押した。そのまま二人で廊下を歩いてエドワルドの部屋へと歩いて行く。隣を歩くギルバートは口元に笑みを称えていたが、なんだかとても切ない表情をしているように見えた。
エドワルドの部屋の前まで来ると、エレオノーラは振り返って彼の顔を見た。見慣れた灰色の目を見ると、ギルバートが微笑んで手を伸ばす。だがその指がエレオノーラの頬を掠める前に躊躇うかのように空中を惑い、ゆっくりと下げられた。
何にも触れることなく下げられた手が拳を作ったのを見て、エレオノーラは思わず彼の手を取った。ギルバートの灰色の瞳が僅かに大きくなる。だが彼は一瞬握り返してくれた後そっと手を解いた。
「手を握るのもだめなの?」
「殿下のお気に入りと噂になるほど俺も神経が太くないからな」
「そうなの……ギル、送ってくれてありがとう」
後ろ髪を引かれながらも扉を開けて部屋に入る。扉を閉める際にもう一度彼の顔を見たが、薄い微笑を浮かべた表情からは何の感情も読み取れなかった。
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