第38話 来訪(2023/08/08加筆)

 そこから数日間は平和な日々を過ごしていた。だが、青い海が当然灰色の荒れた海に変わるかのように、嵐はある日突然やってきた。


 それは夜の帳が下り、もうすぐ就寝時間になるという頃合いだった。

 いつものようにエレオノーラが自室で本を読んでいると、バタバタと階下から騒がしい足音が聞こえてきた。よく躾けられた使用人であるハンナがここまで慌てているのも珍しい。不思議に思ったエレオノーラは読んでいた本を閉じてそっと部屋を抜け出した。

 階下へ行こうとすると、階段の手摺から急ぎ足で廊下を歩くギルバートの姿が見えた。先程まではシャツ一枚の簡素な服装だったにも関わらず、今しがた通り過ぎた彼は騎士服をきっちり着こなしていた。


(王室から使者がお見えにでもなったのかしら?)


 早馬でも届いたのか、屋敷の空気が一変していた。ひだまりの中にいるような温かいいつもの空間ではなく、屋敷全体にピリッと張り詰めたような緊張感がある。訝しげに思っていると、玄関ホールの方から話し声が聞こえてきた。ハンナが誰かと喋っている。

 エレオノーラは音を立てないように階段を降り、廊下に面した部屋にするりと入った。そこから顔を覗かせれば玄関ホールの様子がよく見える。

 玄関には来客が来ており、対応しているハンナの後ろ姿が見えた。男が一人と、その後ろに従者が複数人。相対する客は見たことのない男だったが、背が遥かに高く、ガッチリした体格をした立派な紳士だった。エレオノーラが会ったことのない人物だったが、どこかで見たことがあるような気がした。

 どこか狼狽したハンナの声が聞こえる。

 

「コンラッド様、頼りもなしにご訪問頂かれるのは困ります。坊ちゃまもお忙しいご身分の御方ですから」

「たかが使用人のくせにお前も一端の口をきくようになったなハンナ。ギルバートはどこだ」

「坊ちゃまはもう間もなく参ります、しばらくお待ちくださいませ」

「早く来るように伝えろ! お前はそれでもランベルト家の使用人か!」


 男の怒鳴り声が聞こえる。だがハンナは怯むことなくシャンと背筋を伸ばして男の視線を真っ向から受け止めていた。

 一触即発の空気を破るように足音が聞こえ、騎士服に身を包んだギルバートがやってくる。


「御無沙汰しております、父上。本日は何用でしょうか。事前の頼りもなくご来訪されるとはよほど急ぎの用件があるのでしょう」

「ギルバート、先日お前から届いた文を読んだ。グレイス家と婚約を結ぶと。なぜ私に黙って話を進めた」

「それの何か問題なのでしょうか、父上」


 男――コンラッド・フォン=ランベルト卿の言葉にギルバートが冷ややかに返す。その灰色の瞳はどこまでも冷たく、そして凪いでいた。

 息子の態度が癇に障ったのか、コンラッドの額に青筋が立つ。


「問題だと? グレイス家などという下級の貴族と縁を結ぶなどこの私が許さない。今すぐ婚約を破棄するように伝えろ」

「貴方は私に興味などなかったはず。長年私の存在を無かったことにしておいたにも関わらずなぜ今頃になってそんなことを仰るのですか」

「お前は自分がランベルトの家名を背負っていることを忘れたのか? 誰と婚姻関係を結ぼうが構わないが家の名に恥じない娘を選べ」

「お言葉を返すようですが父上、貴方も市井の女を妻に迎えたではありませんか。私の母のことを忘れたとは言わせませんよ」

「ああ、あれのことか。そうだな、あれは私の人生で最大の過ちだった」


 まるで嫌なものを見たかのようにコンラッド卿が顔をしかめ、大きなため息をつく。彼の言葉にギルバートが拳を固く握りしめたのが見えた。後ろ姿し見えない為に彼が今どんな表情をしているのかはわからなかった。だが今の言葉はギルバートの心を深く切り裂いたであろうことはエレオノーラにもわかった。


(どうして……? どうしてギルばっかりそんなことを言われなくてはいけないの)


 貴族社会で最も敬われるべき血を引いていながら、貴族社会の中で最も蔑まされる血も引いている彼が今までどんな扱いをされてきたのかはエレオノーラも知っている。それでも自分に課せられた使命を全うしようと必死に足掻いてきた姿を誰も認めてくれなかった。あまつさえ実の父親までも。

 色々なものを背負わされている大きな背中が、今にも泣きそうな顔をして口を結んでいたかつての少年の姿と重なった瞬間、エレオノーラは部屋を飛び出していた。


「ギルバートは悪くありません!」


 精一杯の勇気をかき集めながら、ギルバートとコンラッド卿の間に割って入る。背後で息を呑む音が聞こえたが、そんなことはもう気にならなかった。


「彼は……いつも努力しています。家の為に、貴方から課せられた使命を全うする為に、どんなに苦しくても辛くても誰よりも一生懸命に頑張っているんです! どうしてそんなことを言うんですか!」

「誰だこの娘は」


 コンラッド卿が息子によく似た灰色の目で鋭く睨みつけてくる。ハンナが慌てた様子で割って入った。


「申し訳ございませんご当主様。この子は坊ちゃまの昔からの友人でございます」

「平民の女か。道理で礼を欠いた女だと思った。ハンナ、ギルバートと付き合わせる友人はお前が判断しろ。貴族の娘ではなくよりにもよって町娘を連れ込むなどやはりあの女の血を引いているからか」

「どうしてそんなことを仰るのですか? 貴方はギルバートの一番の味方になってくださってもいいはずなのに! 貴方がそんなことを言うなんて酷いわ!」


 悔しい。歯がゆい。もどかしい。

 どうして世界は彼を愛してくれないのだろう。

 こんなにも優しくて愛に溢れた人なのに。


 悔しさと怒りと悲しみと、色々な感情が波のように押し寄せてきて、とうとうエレオノーラはワッと泣き出してしまった。何の後ろ盾もないちっぽけな自分の言葉では届かないことが悔しくて苦しくてたまらない。案の定、コンラッド卿の胸には何も届いていないようで、彼はハエでも見るような目でエレオノーラのことを見ていた。

 ポロポロと涙をこぼしながら顔を覆うエレオノーラに、ハンナがそっと背中をさする。


「この娘は……私が何者なのかを知っているのか。こんなに無礼な……躾のなっていない女を見るのは初めてだ。今すぐここで頭をついて詫びろ」

 

 コンラッド卿が手を伸ばし、エレオノーラの頭を掴もうとする。だがその手は背後から伸びてきたギルバートの腕によって止められた。


「父上。それ以上のことはいくら父上と言えども私が許しません」


 淡々と告げるギルバートの低い声は静かな怒りを孕んでいた。王族の為に剣を握る大きな手が自分の腕をギリッと締め上げているのを見てさすがのコンラッド卿も僅かに恐れを抱いたのだろう。微かなため息と共に伸ばした腕は下げられた。


「気分を損ねた。行くぞ」

 

 そう言い捨てると、コンラッド卿はくるりと踵を返す。従者達が彼に続き、嵐のようにやってきた男は静かに去っていった。

 扉が閉まる音で我に返る。


「ギル、ハンナさん。ごめんなさい……私……」


 とめどなく流れる涙を見られたくなくて、エレオノーラは慌ててその場から逃げ出した。廊下を走り、自室に飛び込む。床に座り込んだままベットに顔を埋めてエレオノーラは泣き続けた。ギルバートが置かれている現状を目の当たりにして、悔しくて苦しくてたまらなかった。

 どれくらい泣いていたのかはわからない。だが、コンコンと微かにノックの音が聞こえ、ガチャリと扉が開いた。顔を上げると、ギルバートが部屋の中に入ってくるのが見えた。


「ギル……」

「エレオノーラ、大丈夫か」


 言いながらギルバートがエレオノーラの側に近づき、片膝を床につきながら背中を撫でてくれる。しゃくりあげながらもエレオノーラは顔を上げた。


「ギル、私悔しかったの。ギルは誰よりも強くて優しい人なのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの? お城の人達だけじゃなくて貴方のお父様まであんなことを……町娘と結婚したのは自分の意思なのに」

「父と母は決して大恋愛の末に結ばれたわけではなかった。馴染みの店の娘を愛妾にするのはよくある話だ。その時は父も跡継ぎができない焦りで藁をも掴む気持ちだったのだろう。だが……そうだな、父の正妻に跡継ぎが生まれるまでは俺も期待をかけられていたのを感じていた。正妻に子が生まれ、違えていた歯車が正常に噛み合った所で俺の存在をなかった事にしたかったのだろうな」

「そんなこと言わないで。ギルはいらない存在なんかじゃないわ。私が地上にあがってこれたのは貴方がいてくれたからよ」


 思わずしゃくりあげると、またもや涙がポロリとこぼれ落ちた。悔しくてぎゅっと唇を噛むと、隣で微かに笑う声が聞こえた。

 大きな手が伸びてきて頬を包み込み、指で優しく涙を拭ってくれる。


「俺の為に泣いてくれるのか」

「だってギルは辛くても我慢してしまうから」

「そうか……そうだな。エレオノーラ、お前は優しい子だ。誰よりも心根が美しく、そして強い。殿下がお前のことを望む気持ちもよくわかる」


 指の腹で涙を拭ってくれながらギルバートが静かに告げる。その声色に切ない響きを感じてエレオノーラは涙に濡れた目で彼の顔を見上げた。こちらを見ながら優しく微笑む彼の顔が寂しそうに見えて、エレオノーラは思わず手を伸ばして彼の首にすがりついた。反射的にギルバートの腕がエレオノーラを支え、ゆっくりと腕に力がこめられた。


「ギル、今日だけ一緒にいて」

「殿下の第二夫人となる人と床を共にしろと言うのか?」

「一緒に寝た所でギルは私に手を出すの?」

「まさか。そんなこと……できるはずもない」

「そうよ、だから平気。それに私はまだエドワルド様のものではないわ。婚約すらしていないもの」


 耳元で囁くとギルバートの体がピクリと震える。返事はない。だがゆっくりと腰に手を回されたかと思うとふわりと抱き上げられた。

 横抱きにされたまま寝台に横たえられる。ギルバートも上着を脱いでシャツだけの身軽な格好になり、エレオノーラの隣に横たわった。

 寝転がりながら向かい合わせになると、彼の顔がよく見えた。考えてみればこうやってまじまじと彼の顔を見るのは子供の頃以来かもしれない。大人になってうんと背が高くなった彼と話す時はいつも見上げるようになっていた。

 布団の中からそっと手を伸ばして彼の眉間をなぞる。


「貴方が子供の頃からいつもしかめ面をしていた理由がちょっとわかった気がするわ」

「お前も人間の世界がどういうものかよくわかっただろう……失望したか?」

「いいえ、怖いことも悲しいこともあったけど、私はここに来て良かったわ」


 そう、それは心からの言葉だった。例えもえすぐこの命が泡になり、人々の記憶から消えてしまうとしても、大切に思える人と出会えただけでエレオノーラは満足だった。


「ギル、サラさんとお幸せにね」

「お前もだ、エレオノーラ。この屋敷を出て嫁いでも、殿下の近くには俺がいる。お前の身に降りかかるあらゆる危険から守ってやる。だからお前は安心して殿下のもとに嫁ぐといい」


 ギルバートの言葉に、エレオノーラは返事をせずに微笑みで返した。彼への思いと共に泡となって消えてしまう覚悟を抱いていると知ったら彼は失望するだろうか。罪悪感に微かに胸が軋んだが、目を伏せることでその思いを飲み込んだ。自分が消えてしまえば――今までの記憶と共に何もかもがなかったことになるのだから。ギルバートはエレオノーラの存在を知らず、サラと共に背中合わせで貴族社会に立ち向かっていくだろう。

 そんな未来を思いながら、エレオノーラはゆっくりと目を閉じた。まどろみの中に意識を手放しながらそっと彼の手を握ると、夢うつつの中で彼も握り返してくれたような気がした。

  




 スウスウと微かな寝息を立てて眠るエレオノーラをギルバートはずっと眺めていた。月明かりの中で眠るエレオノーラは美しかった。たっぷりとした海色の髪は波を打ち、月光を受けて仄白く輝く白磁の肌に長い睫毛が影を落としている。

 艷やかな美しさに惹かれるように手を伸ばし、そのふっくらとした頬に触れる。剣を握るだけの節くれだった指は、その滑らかな肌に相応しくないように見えた。


「お前が殿下のものでなければ、俺はどうしていたのだろうか……」


 自分の為に泣いていた彼女は美しかった。とてつもなく心惹かれ、狂おしいほどに愛おしかった。だが、この柔らかな唇に口づけをするのは自分ではない。婚姻関係には至っていないものの、

 あの晩、彼女をエドワルドのもとに送ったことを後悔していない。エレオノーラは無事に初恋の人と結ばれ、泡となって消えずに済む。それでいいのではないか。恋をした人魚姫が地上にあがり、幸せを手にする。幸福なおとぎ話の結末に自分の独りよがりな感情で水をさすことは望まれていないのだから。


「エレオノーラ、世界で一番幸せな女の子になってくれ……俺はそれで満足だ」


 自分の胸の中で丸く眠る小さな存在を掻き抱く。

 小さな額に落とされた口づけは夜空の月だけが知っていた。

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