第39話 別れ

 この世界に別れを告げる覚悟ができてからは、エレオノーラは明るく過ごすようになった。大好きな人達と一緒にいられる僅かな時間は、今の自分にとっては何よりも大切なものだ。キースの元へも遊びに行き、ハンナとも町へ買い物に行くなど、毎日の時間を楽しく過ごしていた。エドワルドとの婚約も秘密裏に内定していることをハンナも祝ってくれ、エレオノーラも笑顔で礼を言った。

  

 ギルバートとは特に一緒の時間を過ごすようになった。サラには申し訳ないと思う気持ちはあったものの、ゆくゆくは自分がいたことすら記憶から消えてしまうのだから少しくらいは良いだろうと心の中で彼女に甘える。ギルバートも、エレオノーラが王子との結婚について不安を感じていると思ったのか、エレオノーラに何かと構ってくれていた。


「ねぇギル、隣で文字の勉強をしてもいい?」

「ここでやるのか? 俺は構わないが」


 書斎のソファで書類に目を通しているギルバートにお願いすると、ギルバートが短く返事をして少しだけ空間をあけてくれた。ソファに座り、厚手の革表紙の本を開いて羽ペンでサラサラと字を綴っていく。書いているのは、文字の勉強を初めてからずっと綴っている物語だ。長い文章を綴る練習として、エレオノーラがよく知っている人魚姫の童話を書けば良いとギルバートが提案してくれたのだ。時折わからない所をギルバートに問うと、彼は書類を読む手を止めて丁寧に教えてくれた。

 ひだまりの中で穏やかに流れる時間はとても心地が良かった。隣でほんのりと感じる体温や息遣い。空気を通して感じる彼の存在感がなんとも愛おしく、くすぐったい。もっと彼の存在を感じたくなり、エレオノーラは目を瞑ってこてんと彼の肩に頭を乗せた。薄手のシャツごしに伝わる彼の体温がエレオノーラの体を通して心の中まで温めていく。

 そのまま寝たフリをしていると、ギルバートがハンナを呼ぶ声がして、フワリと毛布がかけられた。その気遣いに涙が出そうになったが、ぐっとこらえてその温もりを享受する。エレオノーラは寝たフリをしたままずっと彼の隣で優しい時間を過ごしていた。


※※※


 そこから数日経ったとある明け方に、エレオノーラは寝台から起き上がるとそっと身支度を整え始めた。夜着を脱ぎ、ギルバートが選んでくれた真珠と桜貝の色のドレスを身につける。最後に真珠のイヤリングを耳につけようとして、エレオノーラはつとその手をとめた。

 自分がこれを持っていってしまったら、彼の母の形見が無くなってしまう。エレオノーラが消えてしまえば、イヤリングの行方もわからなくなってしまうだろう。そう思い、イヤリングは寝台の横の引き出しの中に置いていくことにした。


(ギル、貴方ともお別れね)


 もう少しすれば、彼もエレオノーラのことを忘れてしまう。喧嘩ばかりしていた幼い頃の日々も、大人になってからのすべても。そう思った途端に胸がツンと痛み、エレオノーラはイヤリングを一つだけ手に取った。この一つは自分の思い出として持たせてほしかった。心の中で彼に詫びると、エレオノーラは静かに屋敷を出ていった。


 冬の早朝はまだ真っ暗だった。澄んだ冷たい空気が肌を撫でる。ギルバートは数日前から王宮に行ったきり戻ってきていない。最後に彼の姿を見られないのは残念だったが、決意を揺らがすものがないのは好都合だった。エレオノーラは屋敷の前で辻馬車に乗ると、真っ直ぐに港へと向かっていった。

 港につくと同時に海辺へ足を運ぶ。砂が入るので、靴は脱いでしまった。チクチクと足の裏を刺激する感覚は、自分が人間の足を手にしてから初めて体感した感覚だ。あれからもう一年が経つのかと感慨に浸っていると、ざっという波の音と共に風が海の匂いを運んでくる。透き通った澄んだ空気の中には、甘い花の香りが混じっていた。

 

 海風に髪をなびかせながら、エレオノーラはそっと外套の袖をまくった。厚い布の奥から現れたのは、ガラスのように透き通った自分の腕だ。もう片方の手で腕を握ってみたが、もう既に感覚がほとんどなかった。目の前の右手は左腕を掴んでいるのに、右手はふわりと雲を掴んだような感じだ。

 エレオノーラはその場に膝をつき、砂浜にそっと横たわった。視界に湿った土の色が広がる。ギルバートの色だ。砂浜に横たわりながら、エレオノーラは手を伸ばして愛おしげに土を撫でた。幼い頃からずっと恋をしてきた愛しい愛しい男の子。たまに意地悪で、口も悪くて目つきも悪いけど、それでも誰よりも優しくて温かい人だった。

 赤子のように膝を抱えて丸くなり、波が奏でる子守唄を聞きながら目を閉じた時だった。


「エレオノーラ!」


 叫びに近い声が聞こえた。うっすらと目を開けてみると、ギルバートがこちらに向かって走ってくる姿が見えた。


「ギル……?」

 

 慌てて身を起こそうと両手を地面につくが、力が入らずエレオノーラは砂浜に再度崩れ落ちた。見ると、袖の中から見えている腕はほとんど輪郭のみを残して薄くなっている。ギルバートが駆け寄り、エレオノーラの体を掻き抱いた。


「エレオノーラ! 何をやっている! これは一体どういうことなんだ!」

「ギル……どうしてここに?」

「明け方戻った時に屋敷から馬車が出ていくのが見えた。窓の隙間から青い髪が見えたと思ったのだが、やはりお前だったのか」

「どうして来てしまったの……こんなの、あなたに辛い思いをさせるだけなのに」


 絞り出すように出した声は涙で湿っていた。エレオノーラのただならぬ様子に気づいたのか、ギルバートがハッとしてエレオノーラの外套の袖をまくる。まるでガラス細工のように透き通った彼女の腕を見て、ギルバートの灰色の目が大きく見開かれた。


「エレオノーラ……! なぜだ! なぜこんなことになった! お前は殿下と想いを通じ合ったのではなかったのか!?」

「ごめんなさい、ギル。私、殿下とは結ばれていないの」

「どういうことだ!? くそっ……やはり第二夫人では条件に合わなかったということなのか」

「ううん、違うの、ギル。私ずっと勘違いをしていたの」


 力を振り絞って手を伸ばし、彼の頬に手を添える。ギルバートが息を飲む音が聞こえ、泣きそうに揺れる灰色の瞳がこちらを向く。


「昔、私が罠にかかって怪我をしたことがあったでしょう? 私ね、あの時抱きしめてくれて優しいキスをしてくれた男の子のことがずっと好きだったの。あれ以来、その子とずっと結ばれることを夢見ていた」

「エレオノーラ…それは…」

「あの男の子はあなただったのね、ギル。気付かなくてごめんなさい」


 思わず両手を伸ばし、彼の首にすがりつく。


「ずっと勘違いしていてごめんなさい。あなたを傷つけてばかりいてごめんなさい。エドワルド様のお側に侍ったときにやっと気づいたの……でも、もう遅かった」

「そこでなぜ俺に言ってくれなかったんだ! お前は……一人で死ぬつもりだったのか」

 

 ギルバートが痛ましい顔をして唇を噛む。その声は後悔と絶望で震えていた。


「ギル、あなたのことがずっと好きだったの。今も好き、大好きよ」


 やっとの思いで喘ぐように言うと、突如ぐっと抱き寄せられ、押し付けるように唇が重ねられた。収まりきれない愛をぶつけるような、荒々しくて雄々しいキス。だが、その感触がエレオノーラに伝わることはもうなかった。

 唇を離したギルバートが悲痛な顔を向ける。


「俺もずっと好きだった、エレオノーラ! お前を愛してる。だから頼む、逝かないでくれ」


 ぽたりと熱いしずくが頬に落ちた。ギルバートの涙だった。灰色の瞳が歪められ、そこから熱い涙がこぼれ落ちる。

 条件は成立した──だがもう遅かった。エレオノーラの体は、もう既にお互いの熱を通さない。どんどんと存在が希薄になり、ふわりと体が宙に浮いているような感覚が強くなっていく。エレオノーラは最後の力を振り絞って手を伸ばし、ギルバートの涙を拭ってやった。


「ギル、もう一回キスして」


 囁くように言うと、ぐいと頭を持ち上げられ、再び唇が重ねられた。今度はエレオノーラも僅かに口を開けて深くまで繋がり合う。初めて交わす双方の想いを伴った口づけは、海の味をしていた。


「ごめんなさい、ギル。こんな辛い思いをさせてごめんなさい……でも、最期にあなたに会えて良かった」

「エレオノーラ! 頼む! 逝かないでくれ!」


 だが、ギルバートが腕に力をこめた瞬間、ふわりと無数の泡が彼を包み込んだ。真珠のように小さな粒が朝日と海を反射して七色に煌めく。まるで波にゆれるようにゆっくりと天に向かって立ち上る泡は、朝焼けのオレンジ色に光る空に一つ、また一つと溶けていく。


「エレオノーラ!」


 ギルバートが引き止めるかのように手を伸ばす。だが、最後のひとつが指先に触れた瞬間、七色の光を封じ込めたそれがパチンと微かな音を立てて空に溶けるように消えた。

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