番外編③ 雪の精霊と氷の王(中編)

 その人魚の女の子はエレオノーラという名前だった。

 海に溶け込んでしまいそうな程透き通った青い髪に、先端にかけて色を変える真珠と桜貝の色をした尾ひれ。遠目で見ていた時は神秘的な美貌をまとっていたと思っていた彼女は、実際に話してみるとじゃじゃ馬でお転婆な女の子だった。

 一目見て、彼女がエドワルド第一王子に恋をしているのはわかった。表情が顔に出やすい彼女は王子が来るとパッと顔を輝かせ、反対に自分だけの時は頬を膨らませてムスッとした顔をしていた。時折可愛くないことを言われてこちらも言い返してしまうことはあったけれど、自分の気持ちを素直に表現できる彼女の姿はとても好ましかった。


 やがて一国を統べることになる王子と、彼に恋をする人魚姫。

 自分の目の前で王子に一生懸命恋心を伝える彼女の姿は美しく、まるで劇場の一幕を見ているようで。

 舞台に上がることがない観客自分は側で彼女を見守ることしかできなかったけれど、それでも彼女には幸せになってほしいとずっと願っていた。



※※※


 彼女と交流を持つようになってからは、王子も含めた三人で会うことが増えた。ギルバート自身も、王子に会えて楽しそうにはしゃぐ彼女が見たくてエドワルドを連れてよく森に足を運んでやった。

 だが、王子が外出できる時間は限られている。あまり長期間姿を見せないとエレオノーラが寂しがると思い、ギルバートは一人でも頻繁に森へ行くようにしていた。


 その日も、ギルバートはエレオノーラを訪ねて一人で森の奥へと足を踏み入れた。

 泉の近くまで来ると、足音を聞きつけたのかぴちょんと水面がはねる。


「……なんで今日もあなたしかいないのよ、ギルバート。エドワルド様はどこ?」

「殿下はお忙しいんだ。こんな辺鄙な所にまで来る暇なんてないんだよ」

「まぁ! 辺鄙な所だなんて酷いわ! ギルにはこの場所の美しさがわからないのね」


 そう言ってエレオノーラが頬を膨らませてプイとそっぽを向く。それでもその口の端が嬉しそうに上がっているのをギルバートは確かに見た。心に微かな温もりを感じて、なんだかくすぐったい気持ちになる。

 泉の側にある手頃な大きさの岩に腰掛けると、エレオノーラも水からあがってギルバートの隣に座った。尾ひれの先を水面につけてパシャパシャと遊ばせている。


「ねぇギル、最近青い服を着た人達をよく見るの。あれはなあに?」

「青い服?」

「うん、青と白の入った綺麗なお洋服を着た男の人と女の人がよく森の中で踊っているの。一人や二人だけじゃなくて、入れ代わり立ち代わり何人もよ。とっても不思議だわ」

「ああ、それは仮装した貴族達だな。お祭りに備えて練習をしているんだろう」

「練習? なんの?」

「毎年この時期にやるお祭りだ。雪と氷の精霊に祈りを捧げる日……俺達は皆知っているおとぎ話なんだが、まぁお前が知らないのも無理はないな」


 なおもキョトンとしている彼女に祭りの演目と概要を教えてやると、エレオノーラの顔がパッと輝いた。


「氷の王様と雪の精霊の恋物語なのね! とっても素敵だわ。私も大人になったらエドワルド様と一緒に踊れるかしら」


 エレオノーラが夢見がちな目で木々を見つめながらうっとりと言う。それでもその青い瞳に陰りがあるのを見てギルバートの心がずきりと痛んだ。

 十二になったエドワルドは隣国の姫君との婚約が内定していた。同い年であるギルバートも、護衛として王子に仕えることが決まっている。陸の上での時間の進みとは裏腹に、エレオノーラはいまだに幼い頃の初恋を温め続けているのだ。


 王子と結婚できないことを知ったら彼女は泣いてしまうだろうか。

 

 脳裏に悲しむ彼女の姿が浮かび、胸が締め付けられる。何もできないギルバートは苦し紛れに話をそらすことしかできなかった。


「……ダンスは淑女の嗜みだからな。お前みたいな跳ねっ返りが殿下と一緒に踊れば足を踏んで終わりだろう」

「まぁ酷い! そんな意地悪なことを言うギルバートとは絶対に踊ってあげないから!」

「大体、人魚はその、足がないんだから踊れるわけがないだろう。どうするつもりなんだ」

「あのね、海の精霊にお願いをすれば人間の体にしてもらえるのよ。だから私、大人になってエドワルド様に気持ちを受け入れてもらったら、精霊にお願いをして人間にしてもらうの」


 嬉しそうな彼女の言葉に心臓が大きく跳ねた。  

 人間の体を得て、貴族の衣装をまとったエレオノーラの姿が脳裏に浮かぶ。けれども、続いて浮かぶ幻影は、嬉しそうに笑う彼女の姿ではなく、貴族のしきたりも作法もわからない彼女が周囲から心無い言葉を浴びせられ、そして叶わなかった恋に涙する姿だった。

 想像していた世界と違って落ち込む彼女の姿に、心臓が鷲掴みにされたかのような痛みを覚える。

 

「陸にあがるには、お前は知らないことが多すぎる。そんな覚悟でこっちに来るべきじゃない」

「何よ。そんなのギルが教えてくれたら良いじゃないの。それにね、ここにやってくる人間達のお話も聞いてきちんと勉強してるのよ。だから大丈夫」

「そんな限られた空間で何が学べるって言うんだよ」

「あら、色んなことを学べるわよ。えっとね。まずエドワルド様は一番人気のある人よね。だって皆から様ってつけられるんだもの。だから私もエドワルド様って呼んでるのよ」

「その理屈で言うなら周りから敬称で呼ばれている俺もギルバート様って呼ばないとおかしいだろう」 

「あら、ギルバート様なんて言わないわよ。だってギルは偉い人じゃなくて私のお友達でしょう?」


 無邪気な声が乾いた胸に一滴の水滴となって落ちた。こぼれ落ちた水は波紋となり、過去の記憶をよび覚ます。


 ――メイサ、そんな仰々しい呼び方なんてやめてくれよ。僕のことはギルバートって呼んで。

 ――申し訳ありません、ギルバート様。わたくし達とあなた様は身分が違う御方ですから。



「ギル、どうしたの?」


 焦りの色を帯びた声にハッとして顔をあげると、心配そうにこちらを見る青い瞳と視線が合う。何を言われたのか分からずにとまどっていると、小さな手が伸びてきてそっと頬に触れた。


「泣かないで、ギル」


 エレオノーラの手が優しく頬を拭う。そこで初めて自分が泣いていることに気がついた。

 慌てて手の甲で涙を拭うが、冷えた頬に流れる熱い涙はとどまることを知らず。凍てついた氷が雪解けたように涙があとからあとからあふれでた。

 どこに行ってもつきまとう身分や階級での隔たり。あるいはおべっかを使われ、あるいは距離を取られる。だけどこの澄んだ青い瞳には自分はただのギルバートとして見えているらしかった。

 こちらを覗き込む青い瞳が心配そうに揺れ、小さな両の手が一生懸命に目尻を拭ってくれる。自分に向けられなくなって久しかった感情がそこにはあった。


「変ね。ギルバートが泣いているとなんだか私も悲しくなるわ。ね、だから泣き止んで。何か嫌なことを言われたのね」

「エレオノーラ……すまない。なんでもないんだ」


 自分の涙を拭ってくれる小さな手を包み込むように自身の手を重ねる。手のひらに感じる彼女の体温は胸が苦しくなるほどに温かかった。

 名残惜しさを感じながら彼女から手を離し、手の甲で涙を拭う。


「エレオノーラ、ありがとう。俺はもう行かなきゃ」

「そうなの? じゃあ今度は必ずエドワルド様を連れてきてね」


 生意気なことを言いながらも、長いまつげが寂しそうに伏せられた。彼女がなんだかんだ言いながらも自分が来ることを楽しみにしていてくれることも知っている。

 その目を見ないようにして立ち上がり、彼女に背を向けると背後でポツリと声が聞こえた。


「ギル、また来てくれる?」


 エレオノーラの素直な言葉がじわりと心に広がっていく。

 ああなんてこの子は優しいのだろう。

 汚れを知らない彼女の青い瞳には、きっと美しいものしか見えていなくて。

 この世界には綺麗なものしかないと信じ切っていて。

 そんな彼女に、この世界の真実は見せたくないなとおぼろげに思った。


「……わからない。俺達はお前みたいな魚とは違って忙しいからな」

「魚ですって! 人魚はこの世でもっとも美しい生き物なのよ。そんな、動物みたいな言い方しないで」

見たら同じだろ」

「私が陸にあがりたいのを知っているのにそんな言い方するなんて酷いわ。ギルのバカ! もうここに来たって遊んであげないから!」


 先程までの寂しそうな表情をひっこめ、頬を膨らませながらエレオノーラが憤慨する。そのまま背後でバシャンと波を打つ音がした。

 そっと振り返ってみると、そこにはもう彼女の姿はなく、静かに波紋を広げる静謐な泉と天から降り注ぐ木漏れ日があるだけだった。

 ぐっと拳を握り、海の中へ帰ったであろう彼女に思いを馳せる。


 エレオノーラ。どうかいつまでも、幸せな女の子でいて。

 俺のことなんか嫌いになったっていいから、

 好きにならなくってもいいから。

  

 お前のことを守れるなら。

 俺は悪役ヴィランにだってなってやる。



 ギルバートがエレオノーラに対して突き放した態度を取るようになったのは、この直後のことだった。

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