第27話 ギルバートの想い

 ギルバートが屋敷へ戻ってきたのはさらに数日経ってからだった。だが、まだ王宮勤めに復帰するのは難しいらしく、数日間は屋敷で療養する必要があるとのことだった。

 エレオノーラが銀盆にのった水差しとりんごを持って彼の部屋に入ると、ギルバートは寝台から半身を起こして書類を読んでいた。着ているものは白いシャツ一枚とズボンだけ。騎士団の制服を脱いでさえなお自分の任務に忠実な彼に内心呆れながら、エレオノーラは手に持っている書類をヒョイと取り上げた。


「こういう時くらい休みなさい! ってハンナさんに怒られてしまうわよ」


 努めて明るく言うと、ギルバートがこちらを向いて微かに笑った。


「なんだ。お前も言うようになったな」

「ギルバートが無理しないようにちゃんと見張っておきなさいってキースさんからも手紙を貰ってるもの」

「まったく……普段は俺のことをいい加減に扱っているくせに、こういう時はやけにおせっかいだな、あいつは」

「それくらいあなたのことが大事と言うことなのよ。ハンナさんもね、今日くらいは一日ぼっちゃまのお側にいて看病をしてあげなさいって言ってたわ。さっきりんごの剥き方を教えてくれたの」


 呆れたようにため息をつくギルバートに優しく言い、エレオノーラは銀盆に置いたりんごを手に取った。果物ナイフの刃をすっとあて、ハンナに教えられた通りに動かしていく。なるべく丁寧に切ったつもりだったが、切り分けられたりんごは所々に赤い皮が残っており、お世辞にも美しいとは言えない代物だった。


「……お前はなんと言うか、不器用だな」

「あ、味は変わらないから!」

「まあたまにはお嬢様のおままごとにつきあわされるのも悪くはないな」

「お、おままごとだなんて酷いわ! もうどうしてあなたはそういう言い方しかできないのかしら」


 口を尖らせて文句を言うと、ギルバートがニッと口の端を持ち上げる。それがなんだか嬉しくて、エレオノーラもつられてクスクスと笑った。

 隣国での一件があって以来、ギルバートとは互いの間に壁を感じていた。近くで話しているのに、心は遠い。だからこそ、またこの軽口を叩き合える関係になれたことが嬉しかった。彼とは、こうやってずっと言いたいことを言いあえる関係でいたかった。


「もう、いいから食べて」


 照れ隠しにフォークに突き刺したりんごを彼の前に差し出すと、ギルバートが身を乗り出してりんごを齧る。小気味良い音と共にフォークから伝わる微かな振動が、またエレオノーラの頬に熱を与えた。なんとなく彼の顔を見ていられなくて視線を落とすと、白いシャツに透けて見える腹の包帯が目に止まった。まだ完全に治りきっていないのか、うっすらと血が滲んでいる。


「ギルバート、傷が……」

「ああ、問題ない。まだ傷口が完全に塞がりきっていないみたいだな。たまにこうなる」

「包帯、取り替えないと」


 エレオノーラが慌てて新しい包帯を取り、ギルバートのシャツを捲くろうとすると彼の手がやんわりとエレオノーラを制した。


「お前が見るものではない」

「私、ハンナさんにあなたのお世話をするように頼まれているのよ。今日は私がするの。早くシャツの前を開けて」


 きっぱりと言うと、ギルバートが軽く息を吐き、一瞬目を伏せる。そのまま体の向きを変えて寝台に腰掛けると、シャツのボタンに手をかけてゆっくりと外し始めた。

 ギルバートの手が下に行くにつれ、ほんの少し日に焼けた肌が顕になっていく。一番下まで開ききると、エレオノーラはそっと腹に巻かれている包帯を外した。傷口はまだ乾ききっておらず、包帯も痛々しいほどまでに赤黒く染まっていた。

 生なましい傷跡を見て、エレオノーラの脳裏に一瞬あの時の光景がよぎった。振りかざされる短刀と鋭い光。胴体から切り離される腕。血まみれの王宮。絶叫。エレオノーラの手が一瞬止まったのを見て、ギルバートがシャツを引き寄せて傷跡を隠す。


「エレオノーラ、すまない。お前には怖い思いをさせたな……。いや、あの時ばかりではない。船が難破した時も、隣国へ渡ったときもそうだ」

「そんな、ギルは何も悪くないわ」

「いや、俺のせいだ。お前が陸にあがった時に、俺がもう少しお前のことを気にかけてやれば良かった。傷の処置くらい自分でできる。お前は無理するな」

「ギルはこれ以上ないくらいにとても良くしてくれたわ。だから私にきちんと手当てをさせて? 日頃お世話になってるお礼もしたいの」


 真向かいに座るギルバートの顔を見て微笑むと、ギルバートが観念したかのようにシャツから手を離す。エレオノーラは傷口を薬で消毒し、丁寧に包帯を巻いていった。ギルバートはエレオノーラが手当をする様子をじっと見つめながら何事か逡巡している様子だったが、エレオノーラが包帯を巻き終えると同時にゆっくりと口を開いた。


「……俺はお前が陸にあがることにずっと反対だった。それはもちろん、殿下との恋が難しいものだということを知っていたからと言うのもあるが、他にも理由があった」

「どういうこと……?」

「人間の世界は、時に残酷で汚い。俺はそれでお前が傷つく姿を見たくなかった。お前がずっと憧れていた世界が、思っていたものと違って悲しむ姿を見るのが怖かった」


 そう言って、ギルバートは静かに目を伏せた。


「俺は、実の父親に殺されかけたことがある」


 ギルバートの言葉が、静寂の中に酷く大きく響いた。エレオノーラが驚いて彼の顔を見ると、ギルバートは真っ直ぐにこちらを見ていた。


「殺されかけたのは俺が十二の時だ。弟が生まれてから、父は俺のことが邪魔になったようだ。継母は俺を蛇蝎のごとく嫌っていた。母親が唆したのだろう。だが実行の命をくだしたのは父だ。俺は毒を飲まされた。姉のように慕っていたメイドの手から……ハンナがすぐに解毒剤を飲ませてくれなかったら、俺はあの時死んでいた」

 

 ギルバートが淡々と言葉を紡いでいく。その口から語られる壮絶な過去とは裏腹に、彼の表情は能面のように動かなかった。


「その一件以降、俺は生家を出た。ハンナの提案だ。屋敷には誰一人他のものを置かなかった。もう、誰かに裏切られるのは懲り懲りだからな」

「そんな……実の父親なのに?」

「人間は利害関係が異なると肉親関係であっても殺し合う。それが例え実の兄弟であっても、親子であっても。俺だけじゃない。殿下もそうだ。今、王宮では世継ぎに殿下を後押しする派閥と、第二王子を後押しする派閥にわかれている。実の兄弟で骨肉の争いを繰り広げているんだ。先日の賊は、恐らく第二王子を擁護している者がけしかけたのだろう。俺が戻り次第、あの賊は拷問しなければならん」


 ギルバートが青い顔をしてため息をつく。その辛そうな表情を見るに、彼が拷問というものに酷く怖れを抱いていることがわかった。だが、彼はそれを全うするのだろう。それが任務なのだから。


「エレオノーラ、人間の世界はお前が思うほど綺麗な場所ではない。そのことをもう少し先に教えてやれば良かった……だが、それもできなかった。お前がずっと憧れていた場所を……夢を、壊したくなかったのかもしれん」


 ギルバートが苦しそうに息を吐く。きっと自分の今までの行いを悔いているのだろう。彼はエレオノーラが陸に上がったのは自分のせいだと責めている。だからこそ、エレオノーラのやることはひとつだった。ゆっくりと目を瞑ってひとつ微笑むと、エレオノーラは彼の膝の上で固く握られている拳にそっと自分の手を置いた。


「怖くないわ。だってこの世界はギルがいるんだもの」


 彼の灰色の瞳を見上げながらニッコリと笑う。事実、人間の世界では怖い思いもたくさんしてきた。それでも、楽しいと思うこともたくさん経験してきた。それはひとえに、いつも彼が側にいてくれたからだ。

 ギルバートの目が僅かに開かれ、瞳が揺れる。彼は暫く呆然とエレオノーラの顔を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。いつものように悪戯っぽい目ではなく、心から愛おしむような柔らかい表情に、エレオノーラの胸が微かな音を立てる。


(あっ……)


 灰色の瞳と至近距離で視線が交わる。普段は身長差がある為に遠くにしか見えない灰色の瞳も、座っているとその澄んだ色がよくわかる。恥ずかしくなって思わずうつむくと、ふわふわの巻き毛が赤く染まった頬を隠すかのようにハラリと顔を覆った。 

 とくとくと心臓が胸を打つ音が聞こえる。何を言えば良いのかわからず、キュッと唇を結ぶと、ギルバートが微かに笑った気配がした。

 彼の右手が伸びてくる。その長い指が巻き毛をすくい耳にからげた瞬間、エレオノーラの心臓が大きく鼓動を打った。


「ギル……」


 思わず顔をあげると、彼はとても優しい瞳でこちらを見ていた。


「お前の髪はとても綺麗だな。海の色だ」


 低くて落ち着いた声が耳に心地よく響く。


「俺が憧れた色だ。すべてを包み込む海の色。俺は幼い頃、辛いことがあるとよく海に来ていたんだ。毎日眺めていたこともある。この世界に絶望した時も、海だけは落ち着いた表情でいつも俺を受け入れてくれた。そんな時は汚い自分のことも許せるような気になるんだ」


 語り終えて、ギルバートが口をつぐんだ。喋り過ぎたと思ったらしい。少しだけ恥ずかしそうな表情で目をそらすギルバートを愛おしく感じて、エレオノーラもそっと彼の髪に手を伸ばした。


「ギルは汚くなんかないわ。私もギルの色は好きよ。海辺の濡れた土の色。私が憧れていた陸の色だもの」


 そう言ってエレオノーラも優しく微笑む。ギルバートの髪は少し硬めで、触るとチクチクしていた。短く切られた髪は生真面目な彼らしく丁寧に整えられている。たくさんの物に縛られているであろう彼を思いながら、少しだけ髪をすいて毛先をハネさせると、ギルバートがおかしそうに笑った。その笑顔はいつもより無邪気で、なんだか少年の頃に戻ったみたいだった。

 エレオノーラも嬉しそうに彼の顔を眺めていると、ギルバートが身を乗り出し、寝台の脇に置いてある袖机の引き出しを開ける。


「殿下から貰った首飾りは壊れてしまったからな。代わりにこれをやろう。母の形見だ」

 

 中から取り出したのは、真珠のイヤリングだった。ほんのり青みを帯びた白い真珠が二つ、窓から入る日差しで輝きを増している。


「そんなに大切なものを私にくれるの?」

「ああ。母が持っていたものだからあまり高価な物ではないかもしれないが、お前が持っていてくれ。その方が母も喜ぶだろう」


 ギルバートが静かに答える。亡き母を想っているのか、少しだけ切なさの交じる声だった。それほどまでに大切な物をくれたのかと、エレオノーラもそれを両手で包み込むように握りしめる。


「折角陸にあがったんだ。自分の望みを見極めて、幸せになってくれ」


 エレオノーラを想って紡ぐ彼の言葉は、エレオノーラの胸に深く染み渡る。その幸せに彼自身が入っていないことに、エレオノーラは内心で切ない思いを感じていた。

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