第28話 友達

 彼が屋敷に戻ってから数日が経ち、ギルバートの怪我の具合も随分と良くなってきた。剣の稽古も再開し、彼が屋敷の庭で剣を振る姿もよく見かけるようになった。

 今日もエレオノーラは二階の自室から庭で剣を振るうギルバートの姿を見ていた。貴族社会であるこの国では名ばかりの騎士も多いと言われる中、彼は余程のことがない限り毎日稽古に励んでいる。王子の護衛を賜った者としての誇りがあるのだろう。いずれ解かれる任であっても、最後までその職務を全うしようと努力する姿は、美しくも微かな哀愁を感じさせた。


「エレオノーラはいつもギルバートのことを見ているね」


 背後で可愛らしい声がした。振り返ると、大きなガラス製の鉢に入ったシェルが水中にプカプカと浮きながらつぶらな瞳でこちらを見ていた。


「そう……かしら」

「そうだとも。ここの所毎日彼の姿を眺めているよ。エレオノーラはギルバートのことが好きなんだね」


 何気ないシェルの言葉にドキリと胸が鳴る。多分シェルは人として好きという意味で言っているのだろうが、今のエレオノーラには違う意味に聞こえてしまう。

 返事に窮したまま窓の外を見ていると、ギルバートが突然剣を取り落とし、一瞬顔をしかめるのが見えた。左手を腹に当てている所を見るに、まだ傷口が痛むのだろう。慌てて階下に降りようとしたエレオノーラの視界の端に映ったのは、ふわりと広がる漆黒の髪と真紅のドレスだった。

 駆け寄ってきたサラがギルバートの体を支え、一言二言何かを言う。今しがた来たばかりなのか、門の所にはユリの紋章がついた馬車が停まっていた。

 サラがギルバートの顔を心配そうに見上げ、ギルバートもサラの手を借りながらお礼を言う。その柔らかな表情を見て、エレオノーラの胸がきゅっと微かな痛みを覚えた。エレオノーラの背後で、シェルがプクリと泡を吐く音が聞こえる。


「昔の君は、エドワルドに恋をしていたと思うんだけど。今の君は誰が好きなんだい?」

「正直、わからないの」


 窓の外の二人を見ながらエレオノーラはポツリと呟いた。


「わからない?」

「ええ。海にいた時は、恋ってとっても楽しいものだったわ。船着き場に船が停まっているのを見るととても嬉しくて、森の中でエドワルド様を待っている時もドキドキして心が落ち着かなかったの。会って話す時間は何よりも楽しい時間だったし、別れは寂しいけれど、でも次に会えるのはいつかなって思うとひとりぼっちも怖くなかった。私にとって、恋はとても楽しいものだったわ」


 エレオノーラの視線が、眼下の彼に向けられる。彼は今、華やかな笑顔を向けるサラとにこやかに談笑していた。


「でもギルバートは違うの。彼と一緒にいると、たまに何を話せば良いかわからなくなることがあるわ。胸が熱くなる時もあれば、痛くて泣きたくなる時もあるの。どうしようもなく悲しくなって、彼と一緒にいるのが辛くなる時もあって……エドワルド様とギルバートは、一緒にいて全然違うの」


 そう言うと、エレオノーラは胸の前できゅっと手を握った。

 自分を真っ直ぐに見てくれる力強い灰色の瞳や自分を呼ぶ低い声は、思い出す度にエレオノーラの胸を熱くする。だが同時に、サラと一緒にいる時のギルバートは見ていて苦しくなることが多かった。サラに向ける言葉や表情のひとつひとつがどうしても気になってしまい、その度にエレオノーラは自己嫌悪に苦しめられる。

 そしてそれはサラがいない時も同様だった。彼の隣で本を読んでいる時間は心地良くて楽しいのに、彼が手紙を書いている相手がサラだと知ると、途端に彼を見るのが辛くなって部屋を出てしまうことが何度もあった。


 眼下で楽しそうに笑うサラを見てエレオノーラは静かに目を伏せた。

 ギルバートが倒れ、王宮で療養をしている間にサラとギルバートは随分と距離を縮めたようだ。最近ではサラはほぼ毎日のように屋敷に訪れ、書類の整理をしたり、怪我の手当をしたりと彼の世話を焼いて帰っていく。エレオノーラももちろん愛想よく出迎えていたが、こうやってサラがいる時はなんとなくギルバートに話しかけてはいけないような、そんな気持ちになるのだった。



 その後は屋敷の中にサラを迎え入れ、エレオノーラもお茶を出して手厚くもてなした。ハンナが任せてくれるのもあり、最近では日常のことであれば大分上手くできるようになっていた。

 暫く客間で談笑していると、サラがふと何かに気づいたかのように、はたと目を見開いた。


「そういえばギルバート様。近日中に町へ行く用事などありますでしょうか?」

「町へか? 明日あたりに武器屋に預けていた剣を取りに行く予定だが……なぜだ?」

「いえ、実は私も買い物をしにそろそろ町へ行こうと思っておりましたの。よろしければ私も同行させていただけたらと思いまして」

「武器屋にか? 令嬢が行くにはつまらない場所だと思うが」


 頬を赤らめながら彼を見つめるサラとは対象的に、ギルバートはなぜサラが武器屋についていこうとしているのか気付いていない様子だった。だが、サラも負けておらず、彼を見つめる視線に熱をこめる。


「いえっ! そんなことありませんわ。私、ギルバート様と一緒だったらどこでも楽しめる自信がありますの」

「まぁ、それならまた別の機会に時間を設ける。わざわざ貴女を武器屋に連れて行かなくてもいいだろう」


 そう言ってギルバートがコトリとカップを机に置いた。陶器が触れ合う微かな音が二人の会話を遮る。サラはまだ何か言いたそうな様子だったが、別日で時間を設けてもらえることに満足したのか、それ以上は食い下がらなかった。


 サラが帰った後、エレオノーラはギルバートの書斎で文字の練習をしていた。必死の特訓のかいあって読み書きは上達しており、以前よりだいぶ長い文章も綴れるようになってきた。最近は、昔聞いた海のおとぎ話をギルバートに貰った白紙の本に書き連ねていくのが日課だ。その日も一生懸命にペンを動かしていると、文机に座っていたギルバートがふと顔をあげた。


「明日町へ行く予定だが、お前も来るか?」

「え? いいの?」

「ああ。武器屋に寄るだけだからそこまで面白みはないだろうが、お前も最近あまり外に出ていないようだからな。ついでに散歩でもしてこよう」


 ギルバートが机上の書類に視線を落としながら言う。他意はなく、彼にとっては本当に何でもない提案らしかったが、エレオノーラの胸は自分で思っていた以上に大きく弾んだ。久しぶりにギルバートと外出できると思うと、思わず頬が緩んでしまう。だが、同時に彼を見つめるサラの熱っぽい視線を思い出して、エレオノーラはキュッと口を結んだ。


「うん……楽しみにしてるわ」


 ギルバートから目をそらし、ひきつった笑みで答える。もちろん彼の誘いは嬉しかったが、彼の申し出に喜びを感じてしまった自分にエレオノーラは罪悪感を覚えるのだった。


※※※


 翌日、エレオノーラとギルバートは馬車に乗り、久しぶりに町へ出た。秋も大分終わりに近くなり、道端に広がる落ち葉の絨毯が冬の訪れを告げている。エレオノーラは厚手の上着にしっかりと身を包み、ギルバートと共に武器屋への道を歩いていった。


 ブレーメル武器店の扉を開けると、カラカラとベルの音がしていつも通りアイリーンが出迎えてくれた。いつもはひとつに結ばれている藍色の髪を今日に限っては真っ直ぐに伸ばしており、化粧もいつもよりしっかりと施されていて艶っぽい。なんだか今から恋人の所へ行く令嬢のようだ。相変わらずの美しさにエレオノーラが見惚れていると、アイリーンがにこやかに微笑んだ。


「ギルバート様、お待ちしておりました。剣の調整はできておりますわ。店主が中で待っております」

「ああ、助かる」


 ギルバートが短く返事をして店の奥へと入っていく。暫くすると、店の奥からラッセルと話をする彼の声が聞こえてきた。

 エレオノーラもフラフラと辺りの武器を眺めていると、アイリーンが近づいてきて優雅にお辞儀をした。


「エレオノーラ様もようこそいらっしゃいました。良ければ私とも少しお話をしませんか?」


 行儀よく両手を前で揃えながらアイリーンが華やかな笑顔を向ける。彼女の嬉しい申し出に、エレオノーラもパッと顔を輝かせながら頷いた。


「もちろんよ。嬉しいわ」

「まぁ、こちらこそ。私ね、以前からあなたともっとお話がしたいと思っていたの。良かったら場所を変えてお話をしませんか?」

「ええ、わかったわ」


 エレオノーラが頷くと、アイリーンは嬉しそうに微笑み、ラッセルの元へと歩いていった。


「ラッセル様、最近スイセンの花の元気がなくなってきたように思いますわ。私、エレオノーラ様と一緒に新しい土を買ってきますね」

「あ、ああ。そうか、確かに言われてみれば少ししおれているな。悪いけど頼むよ」


 アイリーンの言葉にラッセルがチラリと窓枠に目をやり、申し訳無さそうに頭をかく。彼が座っている机の窓枠には、美しい黄色のラッパスイセンの鉢植えが置いてあった。


「なんだ、お前は一丁前に花なんてものを育て始めたのか」

「いやまぁアイリーンの提案ですね。武器だらけの辛気臭い場所だとお客さんの気が滅入っちまうから、店内にお花を飾ったらどうですかと。確かにこの殺風景な空間に花があると、少し気分があがりますね。まぁ、世話は専らアイリーンに任せちまってるんですが」


 ギルバートが感心したように言うと、ハハ、とラッセルが情けない声で笑う。言われてみれば花が少しだけ弱々しく下を向いているが、それでも黄色いスイセンの花は、薄暗い店内の中で殊更鮮やかに目に映った。


「すぐ戻りますわ。この子達を早く元気にしてあげなきゃ」


 スイセンの花を指の腹で愛おしげに撫ぜながらアイリーンが静かに言う。そして近くに置いてあった籠を手に取ると、ラッセルに向かって優しく微笑んだ。


「ラッセル様。最近お疲れの様子ですから、あまりご無理はされないでくださいね。くれぐれもお体はお大事になさいませ」


 近所に買い物に行くには意味深な言葉だった。ラッセルも不思議そうにアイリーンの顔を見返すが、あまり根を詰めすぎるなと解釈したのかゆっくりと頷いた。


「あ、ああ。わかった。確かに最近寝付けないことが多いからな。今日はギルバート様がお帰りになられたらもう店仕舞するか」

「そうなさいませ。さぁ、エレオノーラ様、お待たせして申し訳ありません。お外へ参りましょう」


 アイリーンがそう言って、エレオノーラの手を引く。表情はにこやかだが、なんだかその声に切ない響きを感じて、店の扉へ向かいながら、エレオノーラはそっと彼女の顔を仰ぎ見た。

 アイリーンの顔は穏やかだった。だが、外へ出る際にもう一度店の奥へ目を向けた彼女の薄水色トルマリンの瞳が微かに揺れていたのをエレオノーラはハッキリと見た。


(どうしてそんな泣きそうな顔をするのかしら……)


 見ているとなんだか悲しくなる表情だった。彼女の視線の先にあるものはなんだろうとエレオノーラも店内に目を向けるが、まるで視界を遮るかのように武器店の重い扉が大きな音を立てて閉まった。

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