第23話 懇願

 エレオノーラが路地に足を踏み入れた途端、暗闇の中から太い腕が伸びてきて、エレオノーラの細腕を掴んだ。咄嗟にあげた悲鳴も別の手で塞がれる。強い力で体を押さえつけられ、エレオノーラはパニックになった。


(助けて!)


 慌てて逃げ出そうとするも力で適うはずもなく、エレオノーラは男に後ろから羽交い締めにされた。必死に抵抗しながらも、男の肩越しに見えたのは、別の男から金を受け取る老婆の姿だった。


「見ろよ。すげぇダイヤだ。これはかなりの値打ちものだぞ」


 そこには三人の男がいた。エレオノーラを押さえつけているものが一人。目の前にいる男が二人。男の一人がエレオノーラの首飾りを鷲掴みにし、小型のナイフで切ってそれを手に取った。


「こんな大きさのダイヤは見たことない。こいつ、とんでもない金持ちだぞ。拐えばもう少し金を取れるかもしれん」

「なるほど、よしわかった。おい女、お前どこの家の者だ?」


 エレオノーラを羽交い締めにしている男が口を覆う手を外す。急に息ができるようになったエレオノーラは大きく息を吸った。


「い、言えません!」


 恐怖で涙をにじませながらもエレオノーラは叫んだ。これ以上ギルバートに迷惑はかけられないと、ありったけの勇気をかき集めてキッと前の男を睨みつけるも男は下卑た笑みを浮かべるだけだった。


「そうか。じゃあ言えるようにしてやるよ」


 そう言うと、男はエレオノーラに覆い被さり、両足の間に自分の足を滑り込ませてきた。薄布のドレス越しに感じる異物の正体を認識した途端、エレオノーラは彼らが今から何をしようとしているのかを理解した。恐怖で涙が滲み、視界を曇らせる。逃げ出そうと身をよじるも、それは男の情欲に火をつけるだけのものだった。

 顎を持ち上げられ、望んでもいないのに上を向かされる。だが、男の顔が近づいてきた瞬間、エレオノーラの体に異変が起こった。

 急に体がふわりと軽くなり、指先の感覚がなくなる。浮遊感に襲われてエレオノーラは頭が真っ白になった。


「いや! 助けて!」


 涙混じりの声で叫んだ時だった。


「エレオノーラ!」


 聞き慣れた声が聞こえ、鈍い音と共に目の前の男が地面に崩れ落ちる。そこにいたのは、鞘ごと剣を掴んだギルバートだった。


「誰だてめぇ! 邪魔するんじゃねえ!」


 仲間の男が掴みかかろうとするが、ギルバートがあっさりと鞘で殴りつけ、エレオノーラを羽交い締めにしていた男の首を腕力で締め上げる。地面に転がる男の顔を踏みつけながら、ギルバートが血相を変えてエレオノーラへ駆け寄った。


「エレオノーラ、大丈夫か。怪我はないか」

「うん…うん、大丈夫……」


 怯えの残った目で見上げると、ギルバートが痛ましそうな顔をしながらエレオノーラの頬にそっと手を添える。その優しい指先を感じた途端、エレオノーラの頬を涙がつたった。


「ギルっ……私、怖かった。消えちゃうかと……もうここにいられなくなっちゃうかと思った」


 あの時の感覚は思い出したくない。ふわりと体が軽くなり、自分の存在がどんどんと希薄になっていく感覚。嗚咽混じりの声で言うと、涙を拭ってくれるギルバートの指がピタリととまった。


「……死ぬ、ではなく消える、と言ったな。それはどういうことだ」


 ギルバートが鋭く言う。エレオノーラはしゃくりあげながら、ウミヘビにもらった薬の誓約について説明した。


 人魚の体と引き換えに、人間の体をもらったこと。

 次の春までに愛する人と結ばれなければ泡となって消えてしまうこと。


 エレオノーラが話している間、ギルバートは黙って聞いていたが、エレオノーラが話すに連れてその表情は険しいものになっていく。エレオノーラが話し終えた途端、ギルバートは右手で顔を覆った。


「なんてことだ……」 


 かすれ声だった。ギルバートが顔をあげ、鋭い視線でこちらを見やる。


「なぜもっと早くにそれを言わなかった」

「ごめんなさい……でも、あなたに迷惑をかけたくなくて……」

「余計な気を回すな。いや、先にその事実を知っていたからと言って殿下の婚約が覆ることはない。王女との婚約は既に決まっていたことだからな」 


 もし最初からギルバートにこの事実を伝えていた所でエレオノーラの運命は変わらない。ギルバートもそこに思い至ったのか、苦しげに息を吐いた。


「人魚に戻る方法はないのか?」

「ひとつだけあるわ。愛した人を殺せば人魚に戻れるみたいなの」

「それは殿下を亡き者にしなければならないということか?」


 ギルバートの語気に鋭さが増す。その硬質な響きに、エレオノーラはびくりと肩を震わせた。その言葉に、彼の苦しさがにじみ出ていた。


「で、でも、私エドワルド様を殺すことなんてできないわ!」


 やっとの思いで吐き出すように言うと、ギルバートがぐっと目を細める。なんとなく彼の顔を見ていられなくて、エレオノーラはうつむいてきゅっと両の拳を握った。


 彼は今怒っているのだろうか。

 それとも泣いているのだろうか。


 どちらにしても、エレオノーラの現状がギルバートのことを苦しめているのは明白だった。この無言の空間に、彼の様々な想いが溶けている。


「ギルバート……ごめんなさい」


 ポツリと呟くように言葉を紡ぐと、突如体を引き寄せられ、いつの間にかエレオノーラは路地の壁を背にして立っていた。ギルバートが両腕を壁につき、そのままエレオノーラに身を寄せる。 


「エレオノーラ」


 耳元で低い声が聞こえる。


「俺では駄目なのか? 俺ならお前を人魚に戻してやれる」


 苦しそうな声に顔をあげると、ギルバートの顔が目と鼻の先にあった。まるで今にも口づけされそうなほどに近い距離。四方からまるで包まれるように感じる濃密な彼の気配に、エレオノーラの胸が痛いほどに激しく鼓動を打った。


「それは……私がギルバートを好きになるということ?」

「そうだ」

「私がギルを殺すの?」

「そうだ」

「そんなこと……」


 できるはずがないわ。そう言おうと口を開いた瞬間に右腕を掴まれ、そのまま引き寄せられる。


「ここが心臓だ、わかるか」 


 ギルバートに引っ張られた腕が、彼の左胸にあてがわれる。指先に伝わるのは厚い胸板の感触と、その下で力強く鼓動を打つ心臓の音。彼の体内で確かにうごめく脈動を感じた瞬間、エレオノーラは手を振り払った。


「いや! いやよ! あなたを殺すこともできないわ! そんなこと言わないで」

「勘違いするな。俺はこの生に執着がないだけだ。煩わしい人間関係に貴族社会。お前が殺してくれるなら本望だ」


 ギルバートがエレオノーラの顎に手をそえ、軽く持ち上げる。そのまま顔を寄せられ、今にも唇が重なり合いそうな距離で、ギルバートが低く囁いた。


「今から俺がお前にキスをすればどうなる。俺のことを好いてくれるのか? それとも、お前は泡になって消えてしまうのか?」


 彼の吐息を感じる。息もできないくらいに自分の心臓の音が体を圧迫しているのがわかる。呼吸をしようと薄く開いた唇をギルバートが指でなぞり、熱のある瞳で真っ直ぐに見つめてくる。殺してくれと願う彼は、まるで情熱的に求婚する男のようだった。

 でも怖かった。この口づけを受けてしまえば、ギルバートを殺さなければならない運命が待っていそうで。殺したくなんてない。彼のことが大切だから。そう思った瞬間、エレオノーラの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「わ、私が好きなのは、エドワルド様だから……」


 多分これは本心ではなかった。でもこう言わないと、ギルバートが本気で自分の為に死んでしまう気がして怖かった。

 やっとのことで振り絞るように言うと、ギルバートが目を開き、その表情が一瞬苦しそうに歪められる。だがすぐに彼はエレオノーラの顔から手を離し、壁から身を起こした。


「そうだな」


 目を伏せ、ふっと口の端で笑う。どこか悲しそうな、切なげな表情に、エレオノーラの胸も締め付けられそうなほどに痛んだ。


「ひとまず戻ろう。俺がいるからもう大丈夫だ」


 そう言って優しく手を引くギルバートの後を、エレオノーラも無言でついていく。


 宮殿に戻るまでの間、彼は一言も言葉を発さなかった。

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