第22話 一夜明けて(2023/06/22加筆)

 隣国に来てからの一夜が明けた。

 昨夜国交を結ぶ儀式を無事に終えた為、残すは町中を視察するだけとなった。これから交流を持つ国の情勢や治安を確認しておくのも近衛騎士の仕事だ。ギルバートも例に漏れず、マントもつけた正式な騎士服を身に纏ってエレオノーラと一緒に朝から市井を見回っていた。


 夏の日差しが通りを明るく照らしている。ふわりと髪を撫でるように吹く風が海の匂いを町まで運び、人々の笑い声をのせて通り過ぎて行った。辺りに見えるのは、石造りの道に行儀よく並ぶ出店の数々。エレオノーラ達が住んでいる国はどちらかと言うと貴族社会の風潮が根強いが、この国は他国よそに比べて商業が盛んである為、至るところに露店や屋台が出店されているのだ。


「ここは色んなお店があるのね」


 ほとんどワンピースに近い、薄手のドレスを身に纏ったエレオノーラが隣にいるギルバートに声をかけると、彼はあたりを見回しながら頷いた。


「この国は商業が盛んらしいな。活気の良さで言えば我が国よりあるかもしれん。だが、こういう場所だからこそ犯罪も潜んでいる。あまり俺から離れるなよ」


 ギルバートが腰に帯びた剣に手をかけながら忠告する。この暑い中でも真面目な彼は袖のある騎士服を上着まできっちりと着ていた。エレオノーラはこくりと頷きながらも、隣を歩くギルバートの横顔をそっと仰ぎ見る。

 真っ直ぐに前を見据える鋭い目と高い鼻梁。生真面目そうな表情は普段の彼と同じように見える。だが、昨夜の彼はいつもと様子が違っていた。

 壊れ物に触れるかのように優しい手付きと、自分を見つめる熱のこもった眼差し。逞しい腕で力強く抱き寄せられた時は一瞬心臓が止まるかと思った。そしてその時に感じた甘美な震えも、あれからずっとエレオノーラの胸の中に淡く残っている。

 今朝エレオノーラを迎えに来たギルバートは、昨夜何事もなかったかのようにいつも通りだった。彼が今何を思っているのかはわからない。だから、エレオノーラも平静を装って普段どおりに明るく振る舞っていた。


 エレオノーラ達が暮らしている国は王都に近づくに連れて活気づいていくが、この国はどちらかというと王都から離れた港町の方が商業が盛んな印象だ。他国との交易も多いこの国では、港に来た異国人を狙って商売をする商人が多いのだろう。すっと視線を横にそらせば、いつでも青い海が視界に入る所が自国との違いだ。

 港町をどんどん進んでいくと、少しだけ高台になっている場所に出た。海の香りに導かれるままに道の端に近づくと、眼下にはどこまでも青い海が広がっている。太陽の光に反射して、水平線まで煌めいている海を見ながらエレオノーラはほうとため息をついた。


「この国はどこに行っても海が見えるのね。とても綺麗だわ」

「そうだな。同じ海でも場所が変わると見え方も違ってくるものらしい」

「ええ、そうね。なんだか随分と遠くまで来たみたい」


 ポツリと呟くと、隣にいるギルバートが気遣うようにエレオノーラを見やる。


「やはり帰りたいと思うことはあるのか」

「いいえ、陸に上がったことを後悔していないわ。でも、そうね、私がちゃんとこの場所で生きていけるのか不安に思うことはあるの」


 人間の世界に来てまだ日は浅いが、この場所は願っただけでは思うようにいかないことをもうエレオノーラは十分に知っていた。エドワルドの第二夫人になることも、本心ではまだ覚悟を決められていない。

 声に切なさが出てしまったのを隠すように視線を落としてうつむくと、ギルバートがそっと身を寄せてくれたのがわかった。背中ごしに彼の体温が伝わってくる。同時にギルバートの左の手が伸びてきてためらいがちにエレオノーラの腰を抱いた。ゴツゴツした指先の感触が薄いドレス越しに伝わり、否応なしに頬が熱を帯びる。

 長い付き合いだが、彼が理由なくエレオノーラに触れることはない。ドキドキと速くなった胸の鼓動を隠すかのように両手をギュッと握りしめて見上げると、彼はどこか真剣な表情でエレオノーラを見おろしていた。


「エレオノーラ、無理に自分の気持ちを偽る必要はない。第二夫人が受け入れられないのであれば、王室には入らずにずっと俺の屋敷にいてもいい」

「あなたのお屋敷に? でもそこまであなたに迷惑はかけられないわ。陸に上がってから十分すぎるくらいにしてもらってるんだもの。それにギルバートだっていずれは誰かと結婚するかもしれないのよ。私がずっといるのはやっぱり良くないわ」

「お前が屋敷にいることを選ぶなら俺は結婚などしない。元々する気もないからな」


 ギルバートが力強く言い切る。突然ぐっと体が引き寄せられ、いつの間にか硬い胸に頬を押し付けていた。今まで感じたことのない熱に心臓が大きくはねる。普段の彼からは思いもつかない振る舞いにエレオノーラは咄嗟に返事をすることができなかった。

 彼の腕の中で身を固くしていると、髪の間をするりと指が滑り降りる感覚がする。


「エレオノーラ、俺にできることなら、お前が望むことは全部叶えてやる。欲しいものがあれば買ってやる。見たいものは何でも見せてやる。だから……もう少し俺の側にいてくれないか」


 まるで懇願するかのように囁かれた声だった。彼の息遣いと共に頬の下で胸が微かに上下している。その言葉の真意はわからない。だが指先にこめられた熱が、彼の思いの強さを物語っていた。


「ギル、私……」

 

 だがその言葉の先は続けられなかった。エレオノーラが返事をする前にギルバートがふっと微かに息を吐き、同時に指の熱も離れていく。


「すまない。傷心のお前にするべき話ではなかったな。まだ時間はある。今後のことはよく考えるといい」


 エレオノーラの頭に軽く手を置き、ギルバートがマントを翻して先を歩いていく。背筋を伸ばして歩く姿はいつも通りなはずなのに。

 固く握りしめられた彼の右手がなぜか酷く目についた。



※※※


 その後も二人は並んで街中を見回っていた。

 ギルバートの様子に目立って変わった所はない。だがなんとなくエレオノーラは彼と目を合わすことができなかった。ギルバートがこちらを向くと、慌ててうつむいて視線を外してしまう。灰色の瞳の奥にある彼の本心を知ってはいけないような気がして、エレオノーラも掻き乱される自分の心に気付かないフリをしていた。

 エレオノーラにとってギルバートは昔からの友人だ。意地悪で、無愛想で、冷たく突き放してくる男だと思っていたけれど、今はもう彼が優しくて、自分を守ってくれる頼もしい存在であることを知ってしまった。

 射るような鋭い視線の裏に、胸を焦がすほどに情熱的な表情かおがあることも。


(なんだかギルと一緒にいると落ち着かない気持ちになるわ……)


 ざわざわと騒ぐ胸を鎮めるかのように胸に手を当てる。だが、そんな憂いた気持ちを掻き消すかのように、突如激しい怒声が辺りに響いた。

 咄嗟にギルバートが剣の柄を掴んで振り向く。視線の先には、道端で露店を出している若い男が二人、激しくにらみ合っている姿があった。


「ぶっ殺してやる! このこそ泥め! 今うちの商品をかすめとりやがったな!」

「馬鹿を言え! てめぇの店が場所取ってやがるから商品がこっちに転がり込んでくるんだよ! 勝手に人を盗人扱いするんじゃねぇ!」

「いいや、俺はお前がこっちに手を出してきたのを見ていたぞ! いいからとっとと盗んだ物を出しやがれ!」


 どうやら男達は露店商らしかった。隣同士で出店していたようだが、些細なことからトラブルに発展したらしい。口汚く罵り合う男達の勢いに気圧されてそっとギルバートの後ろに隠れると、彼の手がエレオノーラを守るかのように前に差し出された。

 静かに見守っているうちに喧嘩はどんどんと勢いを増していき、とうとう殴り合いにまで発展した。怒声と共に、何かを殴りつける鈍い音がカラッとした朝の空に響く。


「ああっ! お偉い騎士の旦那様! 助けてください! あの二人をとめてくだされ!」


 彼らの近くで出店していた別の露店商がギルバートに駆け寄り、すがりつくようにして懇願する。ギルバートは困惑した表情で彼の体を受けとめた。


「すまないが私はこの国の者ではない。この国の騎士はどうしている?」

「今は騎士様を呼んでる時間はありません! その腰の剣から察するに、あなた様も騎士でしょう? お願いですから早く来てください」


 そう言って露天商の男がグイグイと腕を引く。ギルバートもそちらに足先を向けながら、エレオノーラに向き直った。


「エレオノーラ、お前は危ないからここにいてくれ。荒事を片付けたらすぐに向かうから絶対にそこを動くなよ」


 そう言うと、ギルバートは男と共に足早に露店商の元へと向かっていった。

 エレオノーラは言われたとおりに大人しくその場に留まっていた。道端に備え付けられているベンチに座り、港町の往来を眺める。エレオノーラの目の前を、朝の支度に勤しむ人達が何人か足早で通り過ぎていった。

 ふと視線を下に向けると、胸元で美しい輝きを放つダイヤの首飾りが目にとまる。同時に昨夜の出来事を鮮明に思い出し、エレオノーラはそっと首飾りに手を触れた。

 幼い頃に自分を助けてくれたエドワルドに恋をして陸にあがってきたのは確かだが、今のエレオノーラは自分の気持ちがどこにあるのかわからなかった。

 ギルバートが自分の屋敷にいてくれていいと言ってくれた時、正直に言うと内心で嬉しいと思ってしまったのは事実だ。あんなに意地悪な人だと思っていたのにギルバートと過ごす生活が楽しくなっているのは否定できない。エドワルドの情熱的な求愛を心から受け入れることができないのは、第二夫人になる覚悟ができていないからなのか、ギルバートと離れて過ごすことが寂しいからなのかすらエレオノーラにはわからなかった。

 無意識のうちに首飾りを指でいじっていたからか、エレオノーラは近くに人が来たことに気付かなかった。所在なげにぼんやりと地面を眺めていると、黒い影がぬっと視界に入る。


「ごめんなさい、綺麗なお嬢さん。ちょっと私に付き合ってくれるかい?」


 エレオノーラが座っている場所にやってきたのは杖をついた小柄な老婆だった。腰が曲がっている為か足取りはヨロヨロと覚束なく、大変歩きにくそうだ。地面についた杖が小刻みに揺れているのを見て、エレオノーラは立ち上がって老婆の体をしっかりと支えてあげた。


「おばあさん大丈夫ですか? 頼みごととは何でしょうか?」

「ああ、優しいお嬢さん、ありがとう。実はあっちの路地に指輪を落としてしまったんだよ。私の死に別れた旦那からもらった大事な指輪でねぇ……お嬢さん、悪いんだけど一緒に探してくれるかい?」


 老婆が心底悲しそうにポツリと言う。ここを離れるなというギルバートの言葉が一瞬頭をよぎったが、老婆が指す路地はここからそこまで遠くない場所だった。指輪を探すくらいなら大丈夫だろうと思い、エレオノーラは頷いて立ち上がった。

 老婆について、細い裏路地の入り口まで向かう。確かにここは狭くて暗くて小さな物を探すには老婆一人ではきついだろう。エレオノーラはここで待っててもらうように老婆に告げると、路地の中に足を踏み入れた。

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